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綾崎ハヤテの憂鬱

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 余人を交えず 貴殿と二人きりにて話し合いたし候
 この世のあわれ
 我らのあるべきたつきにつき 思うことありおりはべりいまそかり
 本日放課後 白皇学院部室棟前にてお待ち申し上げ候

 冴木氷室

「おっかしいなぁ、確かこの辺のはずなんだけど…」
 右手には学院地図、左手には几帳面に折りたたまれた文を装備しながら、綾崎ハヤテは困ったように呟いた。きょろきょろと周囲を見回し、再び手元の地図と現在地とを照らし合わせる。ええと、さっき右に曲がって次はまっすぐで、突き当りを左で十字路があるから要するに今どこだ。
 財界政界、各企業団体のお坊ちゃんお嬢さんが通うと言われる白皇学院。無駄に広いのはまあ良いとしても、校内の建物のほとんどが屋敷と見紛うばかりの外観をしているのはどうなんだと、ハヤテは強くそう思う。ごくごく小市民的な感覚を持つ自分にしてみれば、どれもこれも同じに見え、まるで迷路を歩いているような気分になるのだ。
「うーん、方向は合ってるはずだけど…部室棟って行ったことないから、どんな建物なんだか…あの右に見えるのがそうなのかな、」
「そうだよ、綾崎ハヤテ君」
「うひゃああ!!」
 突然耳元で甘い吐息と声を吹きかけられ、思わずハヤテはぶっこけた。振り返る動作と逃げるモーションを同時にしてしまい、前後バラバラな動きが結果として身体をすっ転ばせる。
 こけさせた原因である男は、尻餅をつくハヤテを見下ろし大袈裟に肩をすくめた。
「驚かすつもりはなかったんだけど…相変わらずキミは隙だらけだねえ」
「い、いきなり耳に息なんか吹きかけられたら誰だって驚きますよ!声をかけるんなら、もうちょっと普通に声かけてくださいっ!」
「いや、何だか緊張しているようだったから、和ませてあげようかと」
 和むか。
 悪びれもせず答える男にハヤテは思うが、いや、何も言うまい。ゴーイングマイウェイを貫く彼には、ツッコミを入れるだけ無駄である。
 冴木氷室。大河内家嫡男、大河内大河に仕える執事にして、ハヤテに文を送りつけた張本人。
「氷室さん。一体、僕になんの用なんですか?わざわざ手紙で呼び出したりして…」
「うん。まあ、こんな所で立ち話もなんだから、中へ入ろうか」
「中って、」
「部室棟の中へだよ。…まだどの部も入っていない空き教室があってね。時々使わせて貰っているんだ。」
 言って、ポケットから部屋の鍵を取り出して見せる氷室に、ハヤテの中の疑問はますます膨れ上がるのであった。
 一体何者なんだ、この人。

 通された部室棟の一室は、意外にも殺風景なものだった。
「へえ。なんだか、思っていたよりがらんとしてますね。もっと豪華絢爛!って感じなのかと思ってました」
 部屋の中央の長机を囲むように、椅子が三脚。壁際には古びたロッカーと棚、それと何故か体育館マットが一枚、奥の床に敷かれている。
「さっきも言ったけれど、普段は使われていない部屋だからね。鍵がなければ誰も中に入れないようになっているし」
「…その鍵を、どうしてあなたが持っているんですかって言うのは聞いてはいけないことなんでしょーか」
「ご想像にお任せするよ。さ、キミも立っていないで掛けたまえ」
 何だかはぐらかされてしまった気もするが、そう勧められては素直に従わないわけにもいかない。
 氷室に言われるがまま、ハヤテはロッカーの前の椅子に腰を下ろす。
「それで、お話というのは?」
 対面、足を組んでいた氷室がハヤテの言葉に身を乗り出し、
「それなんだが…実は、キミに頼みたいことがあってね」
「ぼ、僕に、頼みたいこと…?」
 頬杖をついた端正な顔が間近に迫り、思わずハヤテは唾を呑む。
 そもそも、こんな、人格はともかく執事としての能力は超一級というパーフェクト人間が、わざわざ手紙と言う面倒な手段を用いてまで自分を呼び出したのである。今朝方下駄箱に入れられた封筒を発見した時は正直ドッキリでも仕掛けられたような気分だったが、こうして改めて真剣な顔を見るとよくわかる。
 きっと、氷室さんは何か重大な、それでいて人に走られたくない大事な用が、僕にあるのだ。
 マジな視線を向けられた氷室は、真顔で頷いて、
「実は、AVを撮ってみようと思うんだ」
 ハヤテは、勢いよく机に顔を打ち付けた。
 びったーん、と、物凄い音がした。鼻からモロだ。
「……大丈夫かい?」
「、いじょーぶじゃありませんっ!何ですかその涼宮ハルヒの同人誌で散々使い古されたようなネタ振りは――!?」
「いや、僕が撮りたいのは美少年マニア向けのポルノだよ。主演はキミで」
「尚悪いですよっ!てゆうか、何でそういうことになるんですか?!」
「勿論、僕はお金が大好きだからね。この頃懐が寂しくて」
「ひとの身体で稼ごうとしないで下さいっ! だからこんな部屋に不自然なマットが敷いてあったんですか?!そういう話でしたら、きっぱりお断りさせて頂きます!」
「監修を務めるのが僕でもかい?」
 出て行こうと立ち上がったハヤテの足を、氷室の声が引きとめる。
「キミは僕に借りがあるはずだよ、綾崎ハヤテ君。いつぞやの執事バトル大会、キミは僕とろくすっぱ戦わずに勝利を得た。僕が途中退場したからね」
「で、でもそれは、」
「結果として。キミは僅かな犠牲で決勝に進み、三千院のお嬢様を喜ばせることも出来た。勿論まともに戦っていたとしてもそうなったかもしれないが、それはあくまでも仮定の話だ。…それに」
「え、…ふわあっ?!」
 手首を掴み、引き寄せられる。長机に乗り出すようになったハヤテに、氷室は妖しい笑みを近づけた。
「…何も、乱暴なことをしようと言うんじゃない。細かい演出も含めて、僕が責任を持って指導してあげるからね」
「し、しししし指導ってあの、」
「勿論、あんなこといいな、出来たらいいな、という大人の世界のアレコレをね。手取り足取り腰取りと」
 妖艶に微笑まれ、ハヤテの頭には太いゴシック体の文字で『褐色の美人執事〜ネクタイの中の秘密』などというアホな言葉が浮かび上がる。
 …いやいや待て待て落ち着け自分。いくら相手が同性でもどきっとするような美男子で、堅気とは思えない妖しい色香の持ち主であっても、自分は三千院家ナギお嬢様の執事である。そんないかがわしいビデオに出演して良いはずがあろうか。いやない。
 しかし、氷室に借りがあるといえば、あるわけで。
 冷や汗だらだら、バキバキに凝り固まった笑顔を向け、ハヤテ。
「…あ、間を取って汁男優とかじゃ駄目でしょうか?」
 氷室はにこりと、
「だめ」
 瞬間、ハヤテの背後から鈍い音が鳴った。
 まるでドラム缶を蹴っ飛ばしたような、重たい金属音。普段のハヤテであれば間違いなく瞬間的に異変を察知し、一秒としないうちに音の方向から距離を取っていただろう。が、今回は氷室がそれを許さなかった。
 逃げようとしたが逃げられなかった。そんな体勢で振り返ったハヤテの前には、開け放たれて扉がプラプラ揺れるロッカーと、出来れば今のところこの世で消えて欲しい存在ナンバーワンの男の、顔があった。 
 瀬川家執事、虎鉄。
「な、なんでこの変態がこんなところにー!?」
「変態とは失敬な。私はお前のためにこうして身を潜めていたんだぞ!」
作品名:綾崎ハヤテの憂鬱 作家名:くさなぎ