綾崎ハヤテの憂鬱
「一人でロッカーの中に閉じこもってるだけで十分変態だっ! 一体どういうことなんですか氷室さん?!て、手紙には余人を交えずって…」
「だから、話し合いは二人だけでしただろう? その後の展開は、別としてね」
美しく微笑み、ついでに指先にちゅっと口付ける氷室に、ハヤテは冷たい汗が流れるのを感じた。
前門の薔薇、後門の虎。一見優しそうに見えても所詮氷室は札束の奴隷だった。まともな倫理や友情など求めるだけ無駄で、虎鉄に至っては論外である。
「話をしたら、彼も協力したいと言ってくれてねえ。予めロッカーの中で待機して貰っていたんだ。キミも、どうせなら気心の知れた相手役のほうが良いだろう?」
「全っ然よくありません! そりゃあ氷室さんにならちょっとイケナイ命令されたり虐められたりするのも良いかなーとか思ったりもしましたけど、相手がこの人なら話は別です! こんな変態と絡むくらいならコンニャク相手に腰振ってたほうがマシです臓器は売っても春は売るなって失踪した親に言われてるんですー!!」
「なにー!? 変態という少数派を差別するな綾崎ハヤテ! 私は別に男が好きなわけではなく好きになった相手がたまたま男だったというだけで、」
「どこの三文少女向け小説だっ! 適応したくても出来ない人がごろごろいるのに好きでマイノリティやってる奴なんて差別対象で十分ですよ!」
椅子がひっくり返り雑巾は宙を舞い、ありとあらゆる罵詈雑言が部屋の中を飛び交い乱れる。氷室の手を振り払ったハヤテはロッカーからモップを掴み、振り回して虎鉄との距離を取る。退いた虎鉄は体勢を低くとり、椅子の足を掴んで頭上にそれを掲げる。振り下ろされるモップを椅子の背で受け、弾き、二撃目がくるより先に椅子を捨てハヤテの懐深くに飛び込む。間合いに入られたと見るやハヤテはモップを握り直し、虎鉄のボディ目掛けて突き。
ひっくり返った机をバリケード代わりにしながら、氷室は一人カメラを構える。
「何故だ綾崎!どうして私の想いを受け入れない!? ふたりで新たなる世界の扉を開こうじゃないか!」
「開くかばかあっ!大体、童貞を捨てる前にバックバージン捧げるなんて出来るかっ!」
「それなら大丈夫、私も初めてだ! むしろ、お前なら前も後ろもお好きにどうぞと思っている!」
「だあ――っ!!」
はたしてハヤテは叫び、迫りくる虎鉄に向けて怒りの胡蝶蹴りをお見舞いする。確実に急所を狙い相手を沈める動きはまさしく疾風のごとくで、見る者すべてを魅了するような、実に鮮やかなものであった。
転がる虎鉄の整った顔を革靴で踏みつけ、ぜえぜえ息をしながらハヤテは振り返る。
「、ひ、氷室さん…? 見ての通り、相手役もこんなんなっちゃいましたし、今回のことはどうぞご破算に願えませんか…?」
「こんなん」というのは、白目向いて口から泡を吹いちゃってる状況のことである。が、
ハヤテの予想に反し、氷室は驚くほどあっさり、「いいよ」と頷いた。
思わず、ハヤテは聞き返していた。
「……え?」
「うん。だから、いいよって。キミにそこまで嫌がられては、僕としても無理強いを出来ないからね。新人執事〜ご主人様に捧げます〜の販売は断念するよ」
「で、でも、あの、」
「代わりにいい画が撮れたからね!」
ビデオカメラ片手に可愛らしく首を傾げる姿に、表情が凍った。
「……はい?」
「需要というのはどこにでもあるものでね。整った顔がボコボコにされる姿に興奮するという者もいれば、美しい少年が変態に襲われたり戦ったりするところを見たいというマニアもいるんだよ。まあ、スナッフビデオというほどのものでもないけど。――綾崎ハヤテ君。おかげで良い作品が出来そうだ」
笑う顔はどこまでも美しく、告げる声はとてつもなく甘くセクシーだ。悪魔がいるとしたら、きっと美形なんだろうな、とハヤテは思う。
せめてもの優しさなのか、気絶している虎鉄を埃臭いマットの上に寝かせる氷室に、おそるおそる、ハヤテは尋ねた。
半ば以上、確信の篭った声で。
「まさか、最初からそれが狙いだったんですか…?」
氷室は、どこから取り出しやがったんか一厘の薔薇に口付けて、こう答えた。
「――僕は、お金が大好きだからね」