From dusk
その部屋は元は彼女がこの宮殿に、侍女として仕えていた頃のものだった。
今ではロアーヌ王国の王妃が、カンバスや画材一式を揃えてアトリエにしている。彼女というのも、ロアーヌの王妃というのも、同一人物だ。
カタリナは大きなカンバスの前で一枚のスケッチをもとに素描に励んでいた。だがどうにも集中できない。「殿」彼女は素描を続けながら、自分の肩にその顎を乗せんばかりにカンバスを覗き込むミカエルを呼んだ。いつまでこうしているおつもりなのだろう、と少々心配になる。
「お首が疲れませんか? 私、一通り描ききるまでは止めませんよ」
「いや、見ていて飽きないものだな」
彼女は一つため息をついて、ゆっくりと瞬きした。
「政務はいかがなさいました?」
「とうに済ませてきたぞ。私は有能だからな」
人は変わるものだ。婚約してからだっただろうか、英邁で冷徹な君主とイメージしていたこの男性は、ようやくお互いの想いを確かめ合えるようになると、このように軽口は言うし、……少し甘えてくるようになった。表情はいつものように堅苦しいが。
「ご覧になるのでしたら、そこらの椅子にでも掛けてくださいませんか? そのように、お顔が近くにあっては、どうにも集中できません」
「なんだ照れているのか」
「もう!」
肩で振り払うようにして、少しだけ彼を睨みつける。すぐに顔はカンバスに向けるが、怒りなのか、それとも彼の言う通り照れなのか、カタリナの頬はばら色に染まる。ミカエルは軽く笑いながら、カタリナに言われた通り傍らの椅子に腰掛けた。
カタリナも変わらないではいなかった。ミカエルがそばでこんな風に笑うのを婚約した当初は珍しく思っていたが、今はもう意に介さない。
すでにカンバスの中には一人の女性が描かれていた。「これは踊っているのか?」とミカエルに尋ねさせるほどに、そのポーズは躍動感に溢れていた。
「外れてはおりませんが……ぶどう踏みをしているのです」
「ああ、この間の収穫祭か」
開拓が進んだシノンでは、地域をあげて長年葡萄の栽培に取り組んでいたが、このほど良質なワイン用の品種を生み出していた。収穫が安定するようになってまだ浅いが、年々、収穫祭の規模は大きくなっており、ミカエルはお忍びでなく国王として招かれるまでになった。そういったお祭り騒ぎはお忍びで楽しむのが好きな彼にしてみれば、あまり面白くはない催しだった。
収穫された葡萄は、選ばれた未婚の女性たちが、儀式として最初に踏むことになっている。女性達はいわゆる豊穣の女神を演じ、収穫を祝うのだ。
ミカエルはスケッチブックを眺めた。風景画を好むカタリナにしては、人物は珍しいと思った。カンバスのそれよりもスケッチブックの女性はより写実的だ。
「ん?」
その女性には見覚えがあったが、「女に興味は無い」がモットーの彼にはそれが誰であるのか、思い出すことは難しい。
「この女性は知り合いか?」
スケッチブックを色んな角度で見ながら、彼は尋ねた。カタリナはいたずらっぽく含み笑いする。
「そうですわ。誰だと思います?」
「わからん」
「少しは考えてからお返事なさいませ」
仏頂面のカタリナをよそに、ミカエルの興味はスケッチブックの他のページに向けられていた。やはり、描かれているのは風景が多い。残念なのは、モニカはともかくユリアンの絵はあるのに自分の絵が無いことだった。まったくけしからん、と彼はスケッチブックを元のページに戻してテーブルに放った。カタリナはわざわざミカエルの目につくところに彼を描いたものを置いておくほど迂闊ではない。
「今回はなぜ人物なのだ?」
至極率直な質問をぶつけてみた。カタリナは手を止めず、しかし何か思い出したように表情が柔らかになって、こう答えた。
「この女性が美しかったからです。とても美しくて、いつの間にか描いていました」
カタリナの脳裏にはカンバスに描かんとする光景がありありと浮かんでいた。
篝火が『彼女』の白い頬を照らし出していた。軽やかに葡萄を踏むすらりとした脚、揺れる髪とドレス。
それはとても幻想的で、カタリナの絵心をかき立てたのだ。
今ではロアーヌ王国の王妃が、カンバスや画材一式を揃えてアトリエにしている。彼女というのも、ロアーヌの王妃というのも、同一人物だ。
カタリナは大きなカンバスの前で一枚のスケッチをもとに素描に励んでいた。だがどうにも集中できない。「殿」彼女は素描を続けながら、自分の肩にその顎を乗せんばかりにカンバスを覗き込むミカエルを呼んだ。いつまでこうしているおつもりなのだろう、と少々心配になる。
「お首が疲れませんか? 私、一通り描ききるまでは止めませんよ」
「いや、見ていて飽きないものだな」
彼女は一つため息をついて、ゆっくりと瞬きした。
「政務はいかがなさいました?」
「とうに済ませてきたぞ。私は有能だからな」
人は変わるものだ。婚約してからだっただろうか、英邁で冷徹な君主とイメージしていたこの男性は、ようやくお互いの想いを確かめ合えるようになると、このように軽口は言うし、……少し甘えてくるようになった。表情はいつものように堅苦しいが。
「ご覧になるのでしたら、そこらの椅子にでも掛けてくださいませんか? そのように、お顔が近くにあっては、どうにも集中できません」
「なんだ照れているのか」
「もう!」
肩で振り払うようにして、少しだけ彼を睨みつける。すぐに顔はカンバスに向けるが、怒りなのか、それとも彼の言う通り照れなのか、カタリナの頬はばら色に染まる。ミカエルは軽く笑いながら、カタリナに言われた通り傍らの椅子に腰掛けた。
カタリナも変わらないではいなかった。ミカエルがそばでこんな風に笑うのを婚約した当初は珍しく思っていたが、今はもう意に介さない。
すでにカンバスの中には一人の女性が描かれていた。「これは踊っているのか?」とミカエルに尋ねさせるほどに、そのポーズは躍動感に溢れていた。
「外れてはおりませんが……ぶどう踏みをしているのです」
「ああ、この間の収穫祭か」
開拓が進んだシノンでは、地域をあげて長年葡萄の栽培に取り組んでいたが、このほど良質なワイン用の品種を生み出していた。収穫が安定するようになってまだ浅いが、年々、収穫祭の規模は大きくなっており、ミカエルはお忍びでなく国王として招かれるまでになった。そういったお祭り騒ぎはお忍びで楽しむのが好きな彼にしてみれば、あまり面白くはない催しだった。
収穫された葡萄は、選ばれた未婚の女性たちが、儀式として最初に踏むことになっている。女性達はいわゆる豊穣の女神を演じ、収穫を祝うのだ。
ミカエルはスケッチブックを眺めた。風景画を好むカタリナにしては、人物は珍しいと思った。カンバスのそれよりもスケッチブックの女性はより写実的だ。
「ん?」
その女性には見覚えがあったが、「女に興味は無い」がモットーの彼にはそれが誰であるのか、思い出すことは難しい。
「この女性は知り合いか?」
スケッチブックを色んな角度で見ながら、彼は尋ねた。カタリナはいたずらっぽく含み笑いする。
「そうですわ。誰だと思います?」
「わからん」
「少しは考えてからお返事なさいませ」
仏頂面のカタリナをよそに、ミカエルの興味はスケッチブックの他のページに向けられていた。やはり、描かれているのは風景が多い。残念なのは、モニカはともかくユリアンの絵はあるのに自分の絵が無いことだった。まったくけしからん、と彼はスケッチブックを元のページに戻してテーブルに放った。カタリナはわざわざミカエルの目につくところに彼を描いたものを置いておくほど迂闊ではない。
「今回はなぜ人物なのだ?」
至極率直な質問をぶつけてみた。カタリナは手を止めず、しかし何か思い出したように表情が柔らかになって、こう答えた。
「この女性が美しかったからです。とても美しくて、いつの間にか描いていました」
カタリナの脳裏にはカンバスに描かんとする光景がありありと浮かんでいた。
篝火が『彼女』の白い頬を照らし出していた。軽やかに葡萄を踏むすらりとした脚、揺れる髪とドレス。
それはとても幻想的で、カタリナの絵心をかき立てたのだ。