白夜
真っ向から受け止めた紫原は、まるで心の底を舐められているような感覚を覚えた。
取り分け暴かれて困るようなことなど1つも無いというのに、微かな居心地の悪さだ。
やがて、色の薄い唇が、ゆっくりと開かれる。
『僕だって、理解出来ません。』
『何が。』
『紫原君、どうしてそんなものばかり食べているんです。美味しいんですか、ソレ。大体味は濃いし、油でベタベタするし、食べ過ぎると気分悪くなるし。普通に食事3食取ってれば十分です。どうして君はそんなにお菓子に対して情熱を傾けられるんですか。』
ほっそりとした白い指先が指し示すのは、会話の最中、紫原が時折摘まんでいたポテトチップスの袋だ。
先日出た新商品で、紫原はこれを開けて食べるのを今日の部活の後の楽しみにしていた。
それを、心底不気味と言わんばかりに眉を顰めて指差された。紫原は普段ののんびりとした空気をピリリッと引き締めさせた。
『なぁに、黒ちん。俺に喧嘩売ってんの。』
『僕は僕の意見を述べただけです。』
『いくら黒ちんでもさぁ、捻り潰すよ。』
ゴール下の死神、と渾名される紫原のスイッチの入ったオーラの威圧感は常時の比では無い。
今だ体育館の床に身を横たえた黒子の真横に立ち、黒子を見下ろした紫原の目は据わっていた。
蛇の様に長い腕が黒子の身体に伸ばされようとしたその時だ。
『ね、そういうことですよ。』
『、はっ?』
ピタリと、紫原の動きが止まる。
何を言われたのか分からなかった。
『君はどうしてお菓子が好きなんですか。色々理由はあるのでしょうが、要は"好きだから"、なのでしょう。』
色の戻った黒子が光の灯った瞳で紫原を見上げた。
面を喰らった紫原は、黒子の言葉の意味を考えることもせず、促されるままに首を縦に振る。
『僕だって、理屈じゃないんです。下手だって良い、嫌味や陰口を言われたって良い、好きなんです、バスケ。君がお菓子が好きなことと一緒です。』
伸ばされたままの紫原の手を逆に取り、黒子は起こしてくれと紫原に頼んだ。
呆気に取られたままの紫原は言われるが儘に黒子を引き起こす。
同じ様に立っていても、やはり黒子は紫原を見上げざるを得ない。
それなのに、紫原は今、いつぞやのように黒子に膝枕して貰っているときのような、黒子に上から見下ろされている錯覚を覚えた。
『そして僕は、君達と一緒にやるバスケが、好き、なんです。どれだけ練習が辛くても、苦しくても。君達と一緒だから、頑張れる。』
そうして君達が待っていてくれる所まで全力で走って行けるんです、ありがとう。
そうやって密やかに笑んだ黒子の顔は、何もかもを受け止めて受け容れているようで、紫原は呆れ、そして胸が詰まる様な想いに突き動かされるまま黒子の髪をくしゃくしゃに撫で回した。
「―――、あぁーっ・・・」
陽炎は揺らめく。
過去は美談に擦り変わる。
薄汚れた、辛い思いさえも、美化して心の引き出しに仕舞われる。
あの時のあの子の、あの表情が忘れられない。
「もぉー、黒ちんの馬鹿ぁ・・・」
東京の空とは異なる、何所までも突き抜けて広がる蒼が、遠い誰かを思い起こさせるようで、無意味に紫原は蒼穹に手を翳してみた。
* * * * * *
「―――だから、来ちゃった。」
「いや、全く脈略繋がりませんよ。」
誠凛高校校門にて。
日の長い夏の、少し気温が落ちた夕方。
部活も終わり火神や日向といったバスケ部の面々勢揃いで校門を出ようと向かった先で、黒子は校門の柱に背を預ける見慣れた巨体を発見してしまい、目を瞠った。
どうしてここに。
黒ちん待ってた。
どうして東京に。
里帰り。親に久々にこっち帰りたいって言ったら、帰省費出してくれた。
学校は。
今日土曜日じゃん。昨日の夜の内に向こう出た。御蔭で今超眠い。
「で、秋田で空見上げてたら、急に黒ちんに逢いたくなったから。」
「君は相変わらず直球ですね。」
場所を移して、行きつけのマジバ。
黒子は相変わらずシェイクを飲んでおり、紫原はセットメニューと単品でパンケーキを頬張っている。
「だぁって、黒ちんが悪いし。俺の思い出に出てくる黒ちんが。」
「意味が分かりません。大体それは僕のせいじゃないです。」
ふぅと呆れの溜息を吐いた黒子はパン屑を付けた紫原の口元を拭ってやる。
そうした無意識の行動が人目を引くことは、黒子の影の薄さ故に、殆どない。
紫原は伸ばされた黒子の手を取りそのまま引き寄せた。
「紫原く、」
「黒ちんが、あんな顔で笑ったのが悪いんだよ。」
紫原は他人の機微を悟るのが苦手だ。
幼い頃から長身であるが故の同年代からの心無い言葉に傷付いてきた心が、予防線を張ることを早々に覚えたからだ。
その代わり紫原は、表情を見るだけである程度の心を汲めるようになってしまった。
だからこそ無関心を貫いた。誰かに深く関わるなど面倒で仕方無かった。
紫原が赤司に懐いて従ったのは、彼がそれまで紫原が関わって来た中で唯一、感情が読めなかった相手だからだ。
読めないのなら最初から邪推する必要が無い。それが黒であろうが白であろうが、赤司の発する言葉というのはそれを実現する価値があると思ったからだ。
そして紫原が黒子に関わろうと思ったのは、自身とは真逆の存在だと思ったからこそだ。
他者の言葉を受け入れて猶、透徹とした眼差し。
揺らぐことない、芯のある心根。
発される言葉は、嘘偽りを紡がない。彼の言葉もまた、紫原にとっては、信ずるに足るものだった。
あの時、黒子が浮かべた微笑は、確かに諦観と絶望を含んでいた。
彼は分かっていたのだろう、恐らく。入った亀裂の辿る先を。
紫原も感じていたように、別離へのカウントダウンを。
「・・・ねぇ、今は、ちゃんと笑ってる?」
「はい?」
「ちゃんと、息出来てる?」
酸素を取り込めない金魚のように、突き落とされた絶望の淵で喘いでいたりはしないだろうか。
黒子に手を差し伸べない紫原は、どこかで望んでいたのだ。
彼自らが地に立ち歩いて、紫原に並び立つことを。
否、寧ろ、立ち尽くしたままの紫原の手を引いてくれることを。
矛盾しているようだけれど、紫原は信じていた。
それが、彼が羨望した、強くて綺麗で儚い、黒子テツヤという人であったから。
「・・・・・・はい。」
ふわり、と、黒子は密やかに笑んだ。
淡い笑みはあの時と至極似ていたけれども、胸を掻き毟るような切なさは襲ってこない。
満ち足りたように笑う黒子に、紫原は泣きそうに顔を歪めた。
「黒、ちん。」
「はい。」
「逢いたかった、よ。」
「僕も、逢えて嬉しいです。」
ずっと信じていてくれて、ありがとうございます。
夏だというのに日焼け知らずの生白い細い手が、紫原の髪をゆるりと撫でた。
陽炎が、漸く実体を持って紫原の前に帰って来たことを知らせる、優しい手付きだった。