トリック・レトリック
それは時間にしてほんの10分程度の出来事。
『今から出て来れる?場所は…』
臨也さんが突拍子もなく無理難題を言ってくるのは、珍しいことじゃない。だから大概免疫はできてるほうだと思っていたけど、今回はさすがに驚いた。
ひととおりネットも廻って、さあそろそろ寝ようかな、なんて思い始めた頃、突然入ってきたメールには、随分と一方的な内容が書かれていた。
今から来れる?と尋ねておきながら、詳しい場所まできっちり指定されているそのメールはそれだけで完結していて、とても返信を許されるようなものじゃなかった。とはいえ、さすがに慣れてきている自分にも気づいたりして。
臨也さんと付き合っていて、彼に振り回されるのはいつものこと。今回も多分気まぐれで、たいした意味はないんだろう。やれやれと息を吐きながら着替えに袖を通した僕は、「今から家を出ます」と一言だけを返信して、文字通り部屋を出た。
「お連れ様がお待ちになられています」
指定されたファミレスは、アパートからさほど遠くない。とはいっても移動時間はかかるもので、着いたときには時計は4月1日の23:50を指していた。時間も遅いせいか、客はあまりいないようだ。家に帰るつもりのなさそうな学生や、仕事中と思しきライターの姿がちらほらと視界に入る程度だ。
店員に案内された方に目をやると、4人がけのテーブル席にかけた臨也さんが軽く手をあげて僕を呼んだ。
「こんばんは、臨也さん。チャットでも話してたから『さっきぶり』ですかね?」
「やあ、悪かったね、遅くに呼び出して」
「いえ、どうかしたんですか」
何か頼む?とメニューを差し出してくれた臨也さんの手を軽く遮る。臨也さんも何も注文していなさそうだったし、僕自身ももう寝る前だったので何か食べたり飲んだりしたい気持ちはなかった。代わりに運ばれてきた水を一気に半分ほど流し込むと、やけにほっとした。
「うん、ちょっとね。渡したいモノがあったんだ」
テーブルに両肘をついて楽しそうににこにこ笑ってた臨也さんが、おもむろに横に置いていたコートのポケットから何かを取り出して、テーブルの真中、ちょうど僕と臨也さんの間に置いた。
きれいにラッピングされた、シンプルな小さな箱。上品なリボンがかけられていて、片隅には控えめに「ティファニー」と。
…え?
「あ、あの、臨也さん?これ…」
よく考えれば、あの楽しそうな臨也さんの顔をみたときに察するべきだったのかもしれない。普段から何を考えているかよくわからない笑顔を浮かべている人だけど、これほど機嫌よさそうにしているのはかえって不吉な予感しかしない。まあ、そんなことを今更思っても手遅れで、僕は聞きたくないと思いつつも一応、僕と彼の間を横たわるその小さな箱について尋ねた。臨也さんは相変わらず楽しそうにそれを手にとると、意外にも自分でリボンをほどき、ラッピングを剥がしていく。包装の中からは予想どおり上品なケースが姿を現して、
カパッと音を立てて蓋が開く。
白いリングピローの上、当たり前のように、そこには銀色の指輪が鎮座していた。
「受け取ってくれる?」
「………」
ある程度のことは予測していたし、ある程度のことでは驚かないと思っていた。けれど、これはさすがにない。
折原臨也という人は、僕みたいな一般人の考えの遥か斜め上を行く人だってことを、たった今まで忘れていた。
臨也さんは相変わらずテーブルに両肘をついて、にこにこと楽しそうな(得体の知れない)笑みを浮かべている。僕はうまく働かない頭をフル回転させて、なんとか告げるべき言葉を探した。でも、この場にふさわしい言葉がどうしても思い浮かばない。
だいたい、中途半端なんだ、何でも。それも全部わざとだと思うけれど、真剣な告白にしては場所やシチュエーションがベタ過ぎるし、冗談で済ますにしてはプレゼントがリアルすぎて笑えない。これがもしどこのものとも知れないようなノーブランドのものか、もしくは逆にありえないくらい高価な指輪だとしたら、迷わず一笑に付すことができたのに。
よりにもよってこんな、本当に婚約相手に贈りそうなものを。
反応に困って両手を遊ばせてタイミングをはかっていると、ふと自分の腕時計が目についた。
「じょ、冗談ですよね?エイプリルフールだからでしょう?だからこうやって僕をからかって遊んでいるだけなんですよね?」
それは明らかに僕の逃げだった。臨也さんと付き合って、彼という人がわかって、振り回されるだけの日々、それでもそんな日常を悪くないと感じていたのは他でもない自分だったのに、
こうしてリアルに将来の話を持ち出されて、いままで考えもしなかったことに怖くなってしまったのも確か。これが、
今がよければいいと、身動きが取れない高校生の僕と、大人の臨也さんとの温度差なんだろうか。
臨也さんは意外にも、ふっと真剣な表情になって、それから悠然と笑ってみせた。
「さあ、どうかな。エイプリルフールだから俺が今日を選んだのか、それとももしかしたら偶然今日だったのかもしれないよ。エイプリルフールなんて慣習、意外と興味ない人も多いみたいだし?」
「え、じゃあ…」
「俺がどうなのかってことは、君が考えればいい。コイツを冗談やエイプリルフールの嘘にしたければこのまま逃がしてあげるけど、本気にして受け入れるならもう遠慮はしない。──離さない、一生」
パタン、
やけに耳につく音を立てて、臨也さんがケースの蓋を閉める。僕の返事だけを待って、彼はそれ以上何も言わなかった。
ぐるぐるといろんな思いが頭の中をかけめぐって、何も考えられなかった。思えばそんなの、いつものことなんだけど。
僕を振り回すだけ振り回して、自分は何事もなかったように振舞う、それが彼らしいと思ってはいたけど、彼が愛していると言う「人間」に対するものと同じ感情を自分に向けられるのもなんとなく納得がいかない。僕は臨也さんにとって特別であっていいはずなんだ。臨也さんが人間全体に向ける愛情と違う感情を僕に向けてくれているのなら尚更。なのに、臨也さんは僕を試して、結局僕はそれに振り回されるだけ。
臨也さんはずるい。考えることを放棄して感情に身を任せたら、それだけが脳を支配した。
「…臨也さんは、ずるいです」
「うん?」
口を開いた僕に興味深気な視線を向けた臨也さんは、テーブルに鎮座していた指輪のケースを手にとってまた蓋を開けたり閉めたりして遊んでいる。
この人に、届くんだろうか。過ぎったのはほんのすこしの不安と、それ以上にもっとちゃんと自分を見て欲しいという気持ち。
振り回されるだけなんて御免だ。そう考えると少しだけすっきりした。
「臨也さんはずるい。僕は臨也さんのそういうところが大嫌いです」
ぴたりと、一瞬臨也さんの手が止まる。かちり、と店の壁にかかっていた時計の分針が動く音がやけに耳をついた。
ふうん、と相変わらず楽しそうに肩を竦めてまた手を動かす。ああ、もう、ほんとに、
「僕を振り回すだけ振り回して、試すだけ試して、自分からは動かない。そういう貴方が僕は本当に大嫌…」
「俺もだよ」
『今から出て来れる?場所は…』
臨也さんが突拍子もなく無理難題を言ってくるのは、珍しいことじゃない。だから大概免疫はできてるほうだと思っていたけど、今回はさすがに驚いた。
ひととおりネットも廻って、さあそろそろ寝ようかな、なんて思い始めた頃、突然入ってきたメールには、随分と一方的な内容が書かれていた。
今から来れる?と尋ねておきながら、詳しい場所まできっちり指定されているそのメールはそれだけで完結していて、とても返信を許されるようなものじゃなかった。とはいえ、さすがに慣れてきている自分にも気づいたりして。
臨也さんと付き合っていて、彼に振り回されるのはいつものこと。今回も多分気まぐれで、たいした意味はないんだろう。やれやれと息を吐きながら着替えに袖を通した僕は、「今から家を出ます」と一言だけを返信して、文字通り部屋を出た。
「お連れ様がお待ちになられています」
指定されたファミレスは、アパートからさほど遠くない。とはいっても移動時間はかかるもので、着いたときには時計は4月1日の23:50を指していた。時間も遅いせいか、客はあまりいないようだ。家に帰るつもりのなさそうな学生や、仕事中と思しきライターの姿がちらほらと視界に入る程度だ。
店員に案内された方に目をやると、4人がけのテーブル席にかけた臨也さんが軽く手をあげて僕を呼んだ。
「こんばんは、臨也さん。チャットでも話してたから『さっきぶり』ですかね?」
「やあ、悪かったね、遅くに呼び出して」
「いえ、どうかしたんですか」
何か頼む?とメニューを差し出してくれた臨也さんの手を軽く遮る。臨也さんも何も注文していなさそうだったし、僕自身ももう寝る前だったので何か食べたり飲んだりしたい気持ちはなかった。代わりに運ばれてきた水を一気に半分ほど流し込むと、やけにほっとした。
「うん、ちょっとね。渡したいモノがあったんだ」
テーブルに両肘をついて楽しそうににこにこ笑ってた臨也さんが、おもむろに横に置いていたコートのポケットから何かを取り出して、テーブルの真中、ちょうど僕と臨也さんの間に置いた。
きれいにラッピングされた、シンプルな小さな箱。上品なリボンがかけられていて、片隅には控えめに「ティファニー」と。
…え?
「あ、あの、臨也さん?これ…」
よく考えれば、あの楽しそうな臨也さんの顔をみたときに察するべきだったのかもしれない。普段から何を考えているかよくわからない笑顔を浮かべている人だけど、これほど機嫌よさそうにしているのはかえって不吉な予感しかしない。まあ、そんなことを今更思っても手遅れで、僕は聞きたくないと思いつつも一応、僕と彼の間を横たわるその小さな箱について尋ねた。臨也さんは相変わらず楽しそうにそれを手にとると、意外にも自分でリボンをほどき、ラッピングを剥がしていく。包装の中からは予想どおり上品なケースが姿を現して、
カパッと音を立てて蓋が開く。
白いリングピローの上、当たり前のように、そこには銀色の指輪が鎮座していた。
「受け取ってくれる?」
「………」
ある程度のことは予測していたし、ある程度のことでは驚かないと思っていた。けれど、これはさすがにない。
折原臨也という人は、僕みたいな一般人の考えの遥か斜め上を行く人だってことを、たった今まで忘れていた。
臨也さんは相変わらずテーブルに両肘をついて、にこにこと楽しそうな(得体の知れない)笑みを浮かべている。僕はうまく働かない頭をフル回転させて、なんとか告げるべき言葉を探した。でも、この場にふさわしい言葉がどうしても思い浮かばない。
だいたい、中途半端なんだ、何でも。それも全部わざとだと思うけれど、真剣な告白にしては場所やシチュエーションがベタ過ぎるし、冗談で済ますにしてはプレゼントがリアルすぎて笑えない。これがもしどこのものとも知れないようなノーブランドのものか、もしくは逆にありえないくらい高価な指輪だとしたら、迷わず一笑に付すことができたのに。
よりにもよってこんな、本当に婚約相手に贈りそうなものを。
反応に困って両手を遊ばせてタイミングをはかっていると、ふと自分の腕時計が目についた。
「じょ、冗談ですよね?エイプリルフールだからでしょう?だからこうやって僕をからかって遊んでいるだけなんですよね?」
それは明らかに僕の逃げだった。臨也さんと付き合って、彼という人がわかって、振り回されるだけの日々、それでもそんな日常を悪くないと感じていたのは他でもない自分だったのに、
こうしてリアルに将来の話を持ち出されて、いままで考えもしなかったことに怖くなってしまったのも確か。これが、
今がよければいいと、身動きが取れない高校生の僕と、大人の臨也さんとの温度差なんだろうか。
臨也さんは意外にも、ふっと真剣な表情になって、それから悠然と笑ってみせた。
「さあ、どうかな。エイプリルフールだから俺が今日を選んだのか、それとももしかしたら偶然今日だったのかもしれないよ。エイプリルフールなんて慣習、意外と興味ない人も多いみたいだし?」
「え、じゃあ…」
「俺がどうなのかってことは、君が考えればいい。コイツを冗談やエイプリルフールの嘘にしたければこのまま逃がしてあげるけど、本気にして受け入れるならもう遠慮はしない。──離さない、一生」
パタン、
やけに耳につく音を立てて、臨也さんがケースの蓋を閉める。僕の返事だけを待って、彼はそれ以上何も言わなかった。
ぐるぐるといろんな思いが頭の中をかけめぐって、何も考えられなかった。思えばそんなの、いつものことなんだけど。
僕を振り回すだけ振り回して、自分は何事もなかったように振舞う、それが彼らしいと思ってはいたけど、彼が愛していると言う「人間」に対するものと同じ感情を自分に向けられるのもなんとなく納得がいかない。僕は臨也さんにとって特別であっていいはずなんだ。臨也さんが人間全体に向ける愛情と違う感情を僕に向けてくれているのなら尚更。なのに、臨也さんは僕を試して、結局僕はそれに振り回されるだけ。
臨也さんはずるい。考えることを放棄して感情に身を任せたら、それだけが脳を支配した。
「…臨也さんは、ずるいです」
「うん?」
口を開いた僕に興味深気な視線を向けた臨也さんは、テーブルに鎮座していた指輪のケースを手にとってまた蓋を開けたり閉めたりして遊んでいる。
この人に、届くんだろうか。過ぎったのはほんのすこしの不安と、それ以上にもっとちゃんと自分を見て欲しいという気持ち。
振り回されるだけなんて御免だ。そう考えると少しだけすっきりした。
「臨也さんはずるい。僕は臨也さんのそういうところが大嫌いです」
ぴたりと、一瞬臨也さんの手が止まる。かちり、と店の壁にかかっていた時計の分針が動く音がやけに耳をついた。
ふうん、と相変わらず楽しそうに肩を竦めてまた手を動かす。ああ、もう、ほんとに、
「僕を振り回すだけ振り回して、試すだけ試して、自分からは動かない。そういう貴方が僕は本当に大嫌…」
「俺もだよ」
作品名:トリック・レトリック 作家名:和泉