夢轍 [3]夢と幻と過去と今、開かれたもの1
混沌としていた。そこには軍も民間人も、政府塔も市街も工場も何も無い。思考を鈍らせる降りしきる雪もなければ、凍結した石畳もなく、人々は顔を上げ唾を飛ばし己の希望を、理想を、堂々と語っていた。まるで別世界だ。第一、ここに集う人々は生き生きとしている――そうだ、幼き日に故郷で見た外国人、別の言葉を物語る人々、そういう人々が持っていたもの。そして故郷のみならずザヴェートの、フェンデル人が持ちたくとも持てぬもの、そういうものを、ここに集う人々はしっかりと携えている。カーツはその空気に、そして地下に篭る熱気に、しばし圧倒されていた。
だから、何度も名を呼ばれていたことにも、熱心な視線を注がれていたことにも気付かずに、苦笑いする友人に肩を叩かれて漸く我に返った。
「こいつがお前に、話がしたいらしい」
「あ、ああ」
未だ意識が定まりきらず、仕方なくマリクが示す方に視線を向ければ、新品の軍服にまだ着られているような若々しい少年が、緊張と興奮の混じった表情で頭一つ下から見上げてきていた。
「カーツ技術少尉殿!俺は、コンドラトって言います。少尉と同じく出身はベラニック、です」
この場にはひどくそぐわない律儀な自己紹介の文言も、上気した頬と上擦る声と喧騒の中でようやくカーツの耳に届いたようなものなのだが、コンドラトの眼差しのひたむきさが率直にカーツの意識に刺さった。
「お前もあの町の生まれか」
「はい。そう、良い思い出はありませんが。だからこそ俺はマリク中尉殿が言う国の改革というものを必要だと考えています」
故郷を語る声は一瞬カーツと同じような勢いに落ちるも、コンドラトの言葉は強さを全く失わず、目の輝きなどは一層増していた。彼は、カーツと同じくあの寂とした町の出身だというのに、一体何が違うのだろう。この、希望とかいうものを真っ向から信ずる強さは、何処から来るのか。不思議で仕方がないな、とそのひたむきさを思った。
「お前、ベラニックの人間が、そういう言葉を使うのか」
「そりゃあ、ベラニックに生まれたからって絶望しなきゃいけないっていう理屈も法も、存在してませんよ。誰も、あの総統だってそんな事は言ってないんです。士官学校でも教えられませんでした」
真っ直ぐな眼差しとはきとした口ぶりが、いよいよ暴力染みた威力をもってカーツの思考を揺さぶった。以前マリクに同じようなことを何度も言われても、だから何だとしか思えなかった、そう感じた同じ頭だとは思えぬほど、同じ人間とは思えぬほどに内心で動揺している自分に、カーツは気付かざるを得なかった。コンドラトの言葉は、熱を含みながら途切れることは無い。
「俺、少尉が作られた銃剣は素晴らしいと思います。だから、そんな素晴らしいものを作るような人が罪人になるようなことはとてもおかしいし、帝都に凍死体が当たり前に転がるのも同じくらいおかしいと思うんです」
「どういう、ことだ」呻くように絞り出した声ですら、若人のやや高めの声に一刀両断されるようだ。
「同じ理不尽さです。兵隊の武器を作る人間にお金が回らないことは、民間人にパンを食べさせないことと、根っこは一緒じゃないですか。なのに、そういう不条理を抱えたまま、武器を持って兵隊に戦え、民間人は武器を作れと命じるってのはもっとおかしい。実験動物だって、対価を与えられるから行動を起こすんじゃないですか」
「…言われてみれば、その通りかもしれんな」
「生意気な言葉かもしれません。けれど、カーツ少尉にはどうしても、聞いて欲しかった。俺は本当に、少尉の作られた銃剣はすごいと思うんです」
弾丸のようにはじき出される言葉が漸く終止符を打つころには、士官候補生の顔つきときたらはっきりと上官に対して意見したのだという誇りのような気配さえ伺わせている。カーツは考えた、彼の中ではこれは感謝の意味を持つ言葉なのだろう。ひどく回りくどくて、そのくせ自分の主張を堂々と混ぜる傲慢さが、少年のように輝く瞳と同居すると何故こうも微笑ましいのだろうか。あぁ、その通りだ、この若い士官候補生の言う通りじゃないか。この国は不条理を抱えたまま理不尽さを貫こうとしている。その歪さは、いつしか帝国の輪郭すら不確定なものにしているのではないか。若き情熱というものは、こうも熱く真っ直ぐなのか。
じっと自分を見つめてくるコンドラトの瞳の深いところには、紛れも無い改革の光がある。強く、変革を望むものだ。そして変化を恐れぬ若さだ。壊すことを厭わぬ凶暴な炎の一端すら伺える。
初めて目の当たりにした改革の熱病のようなものに、カーツの心の奥底で何かがコトリと音を立てて動くような気がした。
ああ、既に機は十分に、そこにある。マリクはそういうことを、自分の言葉でこれ以上伝える術はないという顔をしている。これを、見せたかったのか。己の目で見て判断しろということか。無言で問うカーツの眼差しに、マリクは腕組みのまま、したり顔の笑みで頷く。まったく、この男は。
「そうか。俺が作ったものは、そんなにすごかったのか」
苦笑いを浮かべるカーツに、それまで怒りと勢いと信念にきらきらと顔を輝かせていた若者は、狐につままれたように驚いた顔をする。成る程、若い。だがカーツもまた、この士官候補生とそう年齢的には変わらないのだ。おかしなことばかりに気付く。もう一度、カーツは苦笑いをした。随分前に失ったものを、ひとつ、取り戻した心地だった。
作品名:夢轍 [3]夢と幻と過去と今、開かれたもの1 作家名:ひの