蛍
「剣心遅いなあ・・」つぶやいて小川のほとりに薫は一人立っていた。
もう夜も9時を過ぎただろうか。弥彦は既にがーがー健康的な寝息をたててふとんの中だ。薫は何となく胸騒ぎがして落ち着かず、剣心の姿が見えないかと家の前の道をうろうろしていた。大久保内務卿と会ってくるといったまま、剣心はまだ帰ってこない。その大久保卿が暗殺されたということは、たちまちのうちに東京中に広がっていた。神谷道場でもその話題で持ちきりだった。しかし会って話をする相手が殺されてしまったのだから、剣心としてはそのうち戻ってくるだろうと皆思っていた。恵は急患で医院に今夜は泊り込みらしい。左之助はその恵を手伝っている。弥彦は夕飯を食べた後、眠くなったらしく「剣心、すぐ帰ってくるさ」と早々にふとんに入ってしまった。
「あ・・・蛍・・・」
気がつけば小川から蛍が数匹舞い上がり、土手の木々の間を飛んでいた。
志々雄誠という幕末の亡霊が、明治政府に復讐しようとしている。京都を再び騒乱の地に戻そうとしている。ようやく平和な日々を歩み始めた日本に、再び血の雨を降らそうとしている。一週間ほど前に剣心と一緒に聞いた大久保卿の話を、薫は思い出していた。だからこそ、剣心の力が、剣心の人斬りとしての力が再び必要なのだと大久保卿は言った。志々雄を倒し、日本を救えるのは剣心しかいないと。
(でも、剣心は人斬りに戻ったりしない。戻らせたり、絶対しない)
薫は固く心に決めていた。
薫が会った頃は、剣心は既に十年もの間人を斬ることをやめ、無名の流浪人であった。頬の十字傷と、逆刃刀を抱えたまま。そして、幕末の頃の過去を背負ったまま。昔、京の地で、何があったのか、剣心が何をしてきたのか、聞くつもりはない。剣心が話したいと思わない限り、尋ねるつもりはなかった。聞かなくても、剣心の背負っている過去が薫には想像できないほど重いものであり、剣心の心に深い傷をつけていることはわかった。その頬の十字傷よりももっと深い傷を。だから剣心の笑顔はいつも切なかった。いつも哀しみを伴っていた。ここ数ヶ月一緒の家で暮らし、生活を共にしてきたけれど、剣心が薫に心からの笑顔を見せたことはなかったと思う。いつもやさしく笑っているけれど、その笑顔は、まるで薫との距離を保つために笑っているようで。
あれは剣心が神谷の屋敷で暮らし始めて2ヶ月がたった頃だろうか。薫が出稽古から帰ってくる途中、川のほとりに剣心が一人立っているのを見かけた。じっと水面をみつめている。
「け~んし~ん!どうしたの?」
薫は声をかけながら、自分も土手を下って川のほとりへ行った。
「薫殿、稽古終わったでござるか。ご苦労様」
剣心はやさしい笑顔を薫へ向けた。
「うん、剣心は?あ、買出し行ってきてくれたんだ。ありがと」
「いやいや、拙者は神谷道場の居候でござるから。せめて、食事の用意くらいしなければ。今日はかぼちゃの煮つけを作ろうと思うでござるよ。薫殿、かぼちゃが好きでござろう?」
「うん、大好き!わーい、うれしいなあ。剣心が来てくれてから、ごはんがおいしくって!」
「そういえば、薫殿、少し太ったような・・・」
「え!?そ、そんなことないわよ・・」
「しかし、頬のあたりがふくらんできたような・・」
「え!ええっ!!そ、そんなことないわよ!もう、剣心のばかっ!」
薫は思わず剣心を両手で押した。
「おろっ??」
剣心はバランスを崩して地面に倒れそうになる。あわてて薫は剣心の腕をつかもうとして、結局一緒に倒れてしまった。
「あ、ごめんなさい、剣心!大丈夫?」
「大丈夫でござる・・しかし、やっぱり、薫殿・・少し重くなったのでは・・」
「え~!!」
薫は急いで剣心の体の上から起き上がろうとして、かえって体勢を崩して剣心の腕の中に倒れこむ形になった。
「うわ・・」薫は急いで顔を上げた。剣心が薫を見上げてにっこりする。
「冗談でござるよ、薫殿。少しも重くなってはござらんよ。たとえ多少太ったとしても、薫殿は全然問題ないでござるよ」
「もう、剣心ったら!太っていませんよ!」
薫はぷーっと膨れた。
「ははは、そう膨れると、頬に肉がついた気がするでござるよ?」
「そんなことないわよっ!」
薫は思わず剣心に顔を近づけた。二人の顔はかなり接近して、鼻と鼻が触れそうだった。
「あ・・・」
初めてここまで近づいた二人の距離。薫は思わず頬が赤く染まった。剣心は笑顔を薫に向けていたが、その目から急に明るさが消えた。
「剣心・・・」
「・・・薫殿、すまぬ。拙者ふざけすぎたでござる」
そう言って、薫の背中にあった腕を解き、両手を薫の肩に置いて、自分の体から薫を離した。
「剣心・・・?」
「冗談でござるよ、薫殿は全然太ってないでござるから」
そう言って、剣心は薫をさらに離して、立ち上がろうとした。
「あ、剣心、待って・・」
薫は思わず剣心の手を握った。剣心は驚いたように薫を見る。
「剣心、あの・・・」
薫は何か大切なことを剣心に伝えようと思ったのだが、うまく言葉が出てこなかった。
いつも笑ってそばにいてくれる剣心。でも時々ふっと距離を置こうとする。さっきみたいに。剣心は笑みを浮かべていても、本当の笑みじゃない。だって目がいつも哀しそう。私といても・・・私たちといても・・・哀しみはなくならないの?剣心が過去に負った心の傷、私たちでは癒すことはできないの?これから、どれだけ長い間一緒にいても、剣心の傷は・・・私では癒せないの?
「剣心・・・私たちといて、楽しい?幸せ?」
薫は剣心に問いかけた。剣心ははっとしたように身をこわばらせた。薫は剣心の手を握ったまま、更に問うた。
「剣心、いつも笑っていてくれるけど、どこか無理しているみたいで・・。本当は家にひきとめたこと・・迷惑してる?私たちと一緒にいること・・・私と一緒にいること、剣心も望んでいることなの?」
「薫殿・・・」
剣心は驚いたような表情で薫をみつめていた。薫はそんな剣心をまっすぐに見つめ返した。いま、目をそらしてはいけない。いま、聞かなくちゃいけない。そんな気がした。
「薫殿。拙者は―」
剣心は薫の手を握り返した。
「十年流れてきたでござる。維新の年から十年・・・。薫殿と出会わなかったら、ずっと流浪の旅を続けていたでござろう。薫殿と出会わなかったら・・・」
剣心は薫の手を更にぎゅっと握った。
「薫殿と一緒にいると、拙者は自分の選んだ道が間違っていなかったのだと思うことができるでござる。薫殿や弥彦や恵殿や左々助、みんなが笑っている姿を見ると、拙者がいままで生きてきたことも、間違いでなかったと思えるでござる」
「剣心・・」
「薫殿、感謝しているでござる。薫殿のおかげで、皆にも会えた。この十年、これほどあたたかな気持ちで過ごす日々はなかったでござる」
「剣心・・・。本当にそう思っているなら、よかった・・・。だって、私たちだって剣心と出会えて、一緒にいることができて、すごく嬉しいから」
「薫殿・・・」
「剣心と出会えて、私、すごく嬉しいから」
薫は剣心の手を握り返して、にっこりと笑った。
「薫殿、拙者も・・・」
しかし、その後の言葉を剣心は飲み込んだ。
もう夜も9時を過ぎただろうか。弥彦は既にがーがー健康的な寝息をたててふとんの中だ。薫は何となく胸騒ぎがして落ち着かず、剣心の姿が見えないかと家の前の道をうろうろしていた。大久保内務卿と会ってくるといったまま、剣心はまだ帰ってこない。その大久保卿が暗殺されたということは、たちまちのうちに東京中に広がっていた。神谷道場でもその話題で持ちきりだった。しかし会って話をする相手が殺されてしまったのだから、剣心としてはそのうち戻ってくるだろうと皆思っていた。恵は急患で医院に今夜は泊り込みらしい。左之助はその恵を手伝っている。弥彦は夕飯を食べた後、眠くなったらしく「剣心、すぐ帰ってくるさ」と早々にふとんに入ってしまった。
「あ・・・蛍・・・」
気がつけば小川から蛍が数匹舞い上がり、土手の木々の間を飛んでいた。
志々雄誠という幕末の亡霊が、明治政府に復讐しようとしている。京都を再び騒乱の地に戻そうとしている。ようやく平和な日々を歩み始めた日本に、再び血の雨を降らそうとしている。一週間ほど前に剣心と一緒に聞いた大久保卿の話を、薫は思い出していた。だからこそ、剣心の力が、剣心の人斬りとしての力が再び必要なのだと大久保卿は言った。志々雄を倒し、日本を救えるのは剣心しかいないと。
(でも、剣心は人斬りに戻ったりしない。戻らせたり、絶対しない)
薫は固く心に決めていた。
薫が会った頃は、剣心は既に十年もの間人を斬ることをやめ、無名の流浪人であった。頬の十字傷と、逆刃刀を抱えたまま。そして、幕末の頃の過去を背負ったまま。昔、京の地で、何があったのか、剣心が何をしてきたのか、聞くつもりはない。剣心が話したいと思わない限り、尋ねるつもりはなかった。聞かなくても、剣心の背負っている過去が薫には想像できないほど重いものであり、剣心の心に深い傷をつけていることはわかった。その頬の十字傷よりももっと深い傷を。だから剣心の笑顔はいつも切なかった。いつも哀しみを伴っていた。ここ数ヶ月一緒の家で暮らし、生活を共にしてきたけれど、剣心が薫に心からの笑顔を見せたことはなかったと思う。いつもやさしく笑っているけれど、その笑顔は、まるで薫との距離を保つために笑っているようで。
あれは剣心が神谷の屋敷で暮らし始めて2ヶ月がたった頃だろうか。薫が出稽古から帰ってくる途中、川のほとりに剣心が一人立っているのを見かけた。じっと水面をみつめている。
「け~んし~ん!どうしたの?」
薫は声をかけながら、自分も土手を下って川のほとりへ行った。
「薫殿、稽古終わったでござるか。ご苦労様」
剣心はやさしい笑顔を薫へ向けた。
「うん、剣心は?あ、買出し行ってきてくれたんだ。ありがと」
「いやいや、拙者は神谷道場の居候でござるから。せめて、食事の用意くらいしなければ。今日はかぼちゃの煮つけを作ろうと思うでござるよ。薫殿、かぼちゃが好きでござろう?」
「うん、大好き!わーい、うれしいなあ。剣心が来てくれてから、ごはんがおいしくって!」
「そういえば、薫殿、少し太ったような・・・」
「え!?そ、そんなことないわよ・・」
「しかし、頬のあたりがふくらんできたような・・」
「え!ええっ!!そ、そんなことないわよ!もう、剣心のばかっ!」
薫は思わず剣心を両手で押した。
「おろっ??」
剣心はバランスを崩して地面に倒れそうになる。あわてて薫は剣心の腕をつかもうとして、結局一緒に倒れてしまった。
「あ、ごめんなさい、剣心!大丈夫?」
「大丈夫でござる・・しかし、やっぱり、薫殿・・少し重くなったのでは・・」
「え~!!」
薫は急いで剣心の体の上から起き上がろうとして、かえって体勢を崩して剣心の腕の中に倒れこむ形になった。
「うわ・・」薫は急いで顔を上げた。剣心が薫を見上げてにっこりする。
「冗談でござるよ、薫殿。少しも重くなってはござらんよ。たとえ多少太ったとしても、薫殿は全然問題ないでござるよ」
「もう、剣心ったら!太っていませんよ!」
薫はぷーっと膨れた。
「ははは、そう膨れると、頬に肉がついた気がするでござるよ?」
「そんなことないわよっ!」
薫は思わず剣心に顔を近づけた。二人の顔はかなり接近して、鼻と鼻が触れそうだった。
「あ・・・」
初めてここまで近づいた二人の距離。薫は思わず頬が赤く染まった。剣心は笑顔を薫に向けていたが、その目から急に明るさが消えた。
「剣心・・・」
「・・・薫殿、すまぬ。拙者ふざけすぎたでござる」
そう言って、薫の背中にあった腕を解き、両手を薫の肩に置いて、自分の体から薫を離した。
「剣心・・・?」
「冗談でござるよ、薫殿は全然太ってないでござるから」
そう言って、剣心は薫をさらに離して、立ち上がろうとした。
「あ、剣心、待って・・」
薫は思わず剣心の手を握った。剣心は驚いたように薫を見る。
「剣心、あの・・・」
薫は何か大切なことを剣心に伝えようと思ったのだが、うまく言葉が出てこなかった。
いつも笑ってそばにいてくれる剣心。でも時々ふっと距離を置こうとする。さっきみたいに。剣心は笑みを浮かべていても、本当の笑みじゃない。だって目がいつも哀しそう。私といても・・・私たちといても・・・哀しみはなくならないの?剣心が過去に負った心の傷、私たちでは癒すことはできないの?これから、どれだけ長い間一緒にいても、剣心の傷は・・・私では癒せないの?
「剣心・・・私たちといて、楽しい?幸せ?」
薫は剣心に問いかけた。剣心ははっとしたように身をこわばらせた。薫は剣心の手を握ったまま、更に問うた。
「剣心、いつも笑っていてくれるけど、どこか無理しているみたいで・・。本当は家にひきとめたこと・・迷惑してる?私たちと一緒にいること・・・私と一緒にいること、剣心も望んでいることなの?」
「薫殿・・・」
剣心は驚いたような表情で薫をみつめていた。薫はそんな剣心をまっすぐに見つめ返した。いま、目をそらしてはいけない。いま、聞かなくちゃいけない。そんな気がした。
「薫殿。拙者は―」
剣心は薫の手を握り返した。
「十年流れてきたでござる。維新の年から十年・・・。薫殿と出会わなかったら、ずっと流浪の旅を続けていたでござろう。薫殿と出会わなかったら・・・」
剣心は薫の手を更にぎゅっと握った。
「薫殿と一緒にいると、拙者は自分の選んだ道が間違っていなかったのだと思うことができるでござる。薫殿や弥彦や恵殿や左々助、みんなが笑っている姿を見ると、拙者がいままで生きてきたことも、間違いでなかったと思えるでござる」
「剣心・・」
「薫殿、感謝しているでござる。薫殿のおかげで、皆にも会えた。この十年、これほどあたたかな気持ちで過ごす日々はなかったでござる」
「剣心・・・。本当にそう思っているなら、よかった・・・。だって、私たちだって剣心と出会えて、一緒にいることができて、すごく嬉しいから」
「薫殿・・・」
「剣心と出会えて、私、すごく嬉しいから」
薫は剣心の手を握り返して、にっこりと笑った。
「薫殿、拙者も・・・」
しかし、その後の言葉を剣心は飲み込んだ。