ビター・トゥルー
「あなたは……」
ハリードは苦笑を浮かべた。
「目を離すとすぐどこかに行ってしまわれる。そのうち本当に私の手の届かない所に行ってしまうんじゃないかと時々、不安になります」
ハリードを見上げて、ファティーマは軽く微笑む。
「行かないわ」
ハリードの広い胸に顔をうずめて背中に手を回し、ため息のように言った。
「あなたを置いて、私はどこにも行かない」
広大な黄金の大地が果てしなくどこまでも広がっている。地平線はかすみながら空と交わり、延々と砂丘が連なる様は、ゆったりとうねる海のようにも見える。
だが、今のエレンに塔から景色を眺める余裕はなかった。いや、たとえ余裕があったとしても、高い所から景色を楽しむ趣味も彼女にはないのだが。
「ったく、なんでこんなにややこしいのよ」
辺りには誰もなく、何度目かの行き止まりの壁を蹴りつけんばかりの勢いでエレンは一人、怒鳴った。
マクシムスを倒し聖王遺物を取り戻したところで、責任者であるティベリウスに経緯を話しておこうというカタリナの意見に従って再び上階まで上がってきたのだが、いつのまにかハリードがいないことにエレンは気づいた。
この塔に足を踏み入れた時から、ハリードは感情を押さえつけるようにずっと無表情であり、積年の宿敵であるティベリウスを目の前にした時でさえ、一度も取り乱すことなく淡々と、目的を果たすべく行動に移した。
復讐を誓っていたはずなのに、なぜ、あっさりと許したのか。
エレンはそのことがずっと気になっており、同時に不安であったため、カタリナに断ってハリードを探しているのだった。
弓状に開いた壁をくぐり抜けたエレンは、数人の信者たちが目の前の階段を下りていこうとするのを見つけた。
聖地である塔内を駆け回り血で汚した直後に、信者たちに接触することの抵抗はあるものの、迷ってしまった以上仕方がない。エレンは声を張り上げてその者たちを呼び止めた。
「ごめんなさい、あの、色が黒くて長い髪を一つに結んだ、背の高い男の人を見かけなかった? 腰には曲刀を佩いてるんだけど」
信者たちはぎょっとしたように足を止め、それからためらうように互いの顔を見渡した。神王教団を隠蓑に悪事を働いていたマクシムスを追ってきたという事実をまだ知らないのか、または先ほどの魔物の襲来などによってすべてを知っていたとしても、敵であることには代わらないと警戒しているのかも知れない。
物怖じしないのは彼女の長所の一つでもあるのだが、やっぱり配慮がなさ過ぎたかな、と後悔した瞬間、一人の女性が頭巾を跳ね上げて小さな悲鳴を上げた。
「ひ、姫様っ」
「え?」
エレンはきょとんと、その年老いた女性を見つめ、隣りにいた別の女性が慌てて老女の腕を掴んだ。老女によく似た浅黒い肌と黒々とした眉を持つ、目鼻立ちのはっきりした女性だ。
「母さん、なに言ってるのよ。申し訳ありません」
老女の娘なのか、中年の女性は怯えたように頭を下げたが、老女は崩れるようにその場に膝をついた。狂女だろうか。
「生きておられたのですね……ファティーマ姫様」
床に頭をこすり付ける老女に、エレンは慌てて膝をついて視線を合わせた。
ファティーマ姫の名前は知っている。それはハリードが昔、いや、今もなお愛し続けている人の名だということも。 だけど、なぜこの場に彼女の名前が出てくるのか分からない。
「ちょ、ちょっと待って。ファティーマ姫って、もしかしてゲッシア王朝の……?」
恐る恐る顔を上げた老女は、しばらく黙ってエレンを凝視していたが、ふいに小さな息をついた。その顔には明らかな落胆の色がある。
「これは……申し訳ありません。……人違いでございました」
なんと答えてよいのか分からず、無言でいるエレンに老女は続けた。今度は少し、自分の早とちりを恥じるような、かすかな笑みを浮かべながら。
「姫様は、艶やかな漆黒の御髪と、黒曜石のように輝く瞳をお持ちでした。肌の色もあなた様とは全然違います。それになにより、姫様だけが年を取らないはずはありませんものね」
錯乱しているように見えたのは一瞬だけで、言葉使いも眼差しもしっかりしており、精神状態はまともなようだ。だが、エレンの頭は混乱したままだった。
「……誤解が解けたのはよかったんだけど、あの、どうしてあたしを見て、その……ファティーマ姫と間違えたの?」
話すうちに、はっと思い当たる。
「もしかしてあなたたち、ゲッシアの人?」
他国者が国王の娘の顔を見知っているほど、ゲッシア朝の王室は開けていなかったはずだ。
「そうなんでしょ?」
意外な出会いに動転したエレンは、矢継ぎ早に質問を投げ掛ける。リブロフだけでなく、こんな場所にも同胞がいると聞けばハリードは驚くだろう。
「どうしてここにいるの? ……もしかして、復讐のため? 信者のふりをして敵の内部に潜入ってわけ?」
信者たちは無言でエレンを見つめる。その目に警戒と緊張の色があることにエレンは気づき、安心させるように笑った。
「ああ、ごめん。あたしは味方だよ。あなたたちの王族の、ハリードの仲間なの」
「あなたは……」
ハリードは苦笑を浮かべた。
「目を離すとすぐどこかに行ってしまわれる。そのうち本当に私の手の届かない所に行ってしまうんじゃないかと時々、不安になります」
ハリードを見上げて、ファティーマは軽く微笑む。
「行かないわ」
ハリードの広い胸に顔をうずめて背中に手を回し、ため息のように言った。
「あなたを置いて、私はどこにも行かない」
広大な黄金の大地が果てしなくどこまでも広がっている。地平線はかすみながら空と交わり、延々と砂丘が連なる様は、ゆったりとうねる海のようにも見える。
だが、今のエレンに塔から景色を眺める余裕はなかった。いや、たとえ余裕があったとしても、高い所から景色を楽しむ趣味も彼女にはないのだが。
「ったく、なんでこんなにややこしいのよ」
辺りには誰もなく、何度目かの行き止まりの壁を蹴りつけんばかりの勢いでエレンは一人、怒鳴った。
マクシムスを倒し聖王遺物を取り戻したところで、責任者であるティベリウスに経緯を話しておこうというカタリナの意見に従って再び上階まで上がってきたのだが、いつのまにかハリードがいないことにエレンは気づいた。
この塔に足を踏み入れた時から、ハリードは感情を押さえつけるようにずっと無表情であり、積年の宿敵であるティベリウスを目の前にした時でさえ、一度も取り乱すことなく淡々と、目的を果たすべく行動に移した。
復讐を誓っていたはずなのに、なぜ、あっさりと許したのか。
エレンはそのことがずっと気になっており、同時に不安であったため、カタリナに断ってハリードを探しているのだった。
弓状に開いた壁をくぐり抜けたエレンは、数人の信者たちが目の前の階段を下りていこうとするのを見つけた。
聖地である塔内を駆け回り血で汚した直後に、信者たちに接触することの抵抗はあるものの、迷ってしまった以上仕方がない。エレンは声を張り上げてその者たちを呼び止めた。
「ごめんなさい、あの、色が黒くて長い髪を一つに結んだ、背の高い男の人を見かけなかった? 腰には曲刀を佩いてるんだけど」
信者たちはぎょっとしたように足を止め、それからためらうように互いの顔を見渡した。神王教団を隠蓑に悪事を働いていたマクシムスを追ってきたという事実をまだ知らないのか、または先ほどの魔物の襲来などによってすべてを知っていたとしても、敵であることには代わらないと警戒しているのかも知れない。
物怖じしないのは彼女の長所の一つでもあるのだが、やっぱり配慮がなさ過ぎたかな、と後悔した瞬間、一人の女性が頭巾を跳ね上げて小さな悲鳴を上げた。
「ひ、姫様っ」
「え?」
エレンはきょとんと、その年老いた女性を見つめ、隣りにいた別の女性が慌てて老女の腕を掴んだ。老女によく似た浅黒い肌と黒々とした眉を持つ、目鼻立ちのはっきりした女性だ。
「母さん、なに言ってるのよ。申し訳ありません」
老女の娘なのか、中年の女性は怯えたように頭を下げたが、老女は崩れるようにその場に膝をついた。狂女だろうか。
「生きておられたのですね……ファティーマ姫様」
床に頭をこすり付ける老女に、エレンは慌てて膝をついて視線を合わせた。
ファティーマ姫の名前は知っている。それはハリードが昔、いや、今もなお愛し続けている人の名だということも。 だけど、なぜこの場に彼女の名前が出てくるのか分からない。
「ちょ、ちょっと待って。ファティーマ姫って、もしかしてゲッシア王朝の……?」
恐る恐る顔を上げた老女は、しばらく黙ってエレンを凝視していたが、ふいに小さな息をついた。その顔には明らかな落胆の色がある。
「これは……申し訳ありません。……人違いでございました」
なんと答えてよいのか分からず、無言でいるエレンに老女は続けた。今度は少し、自分の早とちりを恥じるような、かすかな笑みを浮かべながら。
「姫様は、艶やかな漆黒の御髪と、黒曜石のように輝く瞳をお持ちでした。肌の色もあなた様とは全然違います。それになにより、姫様だけが年を取らないはずはありませんものね」
錯乱しているように見えたのは一瞬だけで、言葉使いも眼差しもしっかりしており、精神状態はまともなようだ。だが、エレンの頭は混乱したままだった。
「……誤解が解けたのはよかったんだけど、あの、どうしてあたしを見て、その……ファティーマ姫と間違えたの?」
話すうちに、はっと思い当たる。
「もしかしてあなたたち、ゲッシアの人?」
他国者が国王の娘の顔を見知っているほど、ゲッシア朝の王室は開けていなかったはずだ。
「そうなんでしょ?」
意外な出会いに動転したエレンは、矢継ぎ早に質問を投げ掛ける。リブロフだけでなく、こんな場所にも同胞がいると聞けばハリードは驚くだろう。
「どうしてここにいるの? ……もしかして、復讐のため? 信者のふりをして敵の内部に潜入ってわけ?」
信者たちは無言でエレンを見つめる。その目に警戒と緊張の色があることにエレンは気づき、安心させるように笑った。
「ああ、ごめん。あたしは味方だよ。あなたたちの王族の、ハリードの仲間なの」