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ビター・トゥルー

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 ハリードの名前を聞いて、動揺するように信者たちはどよめきを上げたが、先ほど老女を母と呼んだ中年の女性だけが、落ち着き払ってエレンに答えた。
「なんのことをおっしゃっておられるのか、さっぱり分かりません。母がゲッシア王朝の姫君の顔を知っているのは、ただの、……噂でございます」
「え?」
 エレンは面食らったように尋ね返した。
「うそ、だって……」
 エレンの言葉をさえぎり、女性はもう一度忍耐強く繰り返した。
「噂でございます。ファティーマ姫様のお美しさは、ナジュ砂漠に響き渡っておりましたから」
 エレンは黙った。先ほどの老女の言葉は懐かしさにあふれ、決して噂話だけの憶測ではないことを示している。おそらく老女はファティーマ姫本人に接していたに違いない。混乱する頭を整理しながらエレンは考え込んだ。
 ゲッシアの王宮深くに出入りしていた者が、神王教徒の長衣を着ているとするならば、一矢報いる以外に、それはどのような意味を持つのか。
 エレンの脳裏に、疑惑が閃光のように青白く浮かび上がった。
 山のように高い自尊心からか、ハリード自身はゲッシア王朝が滅亡した理由をあまり話さないのだが、エレンは以前、詩人から聞いたことがあった。
 栄華を極めていたゲッシア朝は宗教団体などに簡単に負ける国ではなく、ハマール湖のまさかの大敗には多くの疑問がある。王朝中枢に近い誰かが教団側に情報を漏らしていた可能性も大いに考えられる、と。
「……まさか、あんたたち、ゲッシア王朝を裏切ったってことはないでしょうね」
 直接エレンには関係のないことだが、これはハリードにとって重大な意味を持つ。武器も持たない女性たちを責めることは心苦しいが、彼女たちが教団に国を売ったのなら、許す訳にはいかない。エレンは鋭く言った。
「噂だなんて、そんな言い訳が通じると思ってんの? なんならハリードをここに呼んできて、あんたたちの顔を確認してもらってもいいのよ」
 その言葉を聞いて、娘に肩を抱かれていた老女は弾かれたようにエレンににじり寄った。
「お待ち下さい。私どもは本当に、ゲッシアの民などでは……」
「あなたの想像通り、私たちは、ゲッシアの民でした」
 一転して、開き直るように娘が言った。驚いて目をむいた母親に弱々しく首を振って見せ、エレンに覚悟を決めたように続ける。
「母は、王室御用達の仕立屋でした。何度かファティーマ姫様の採寸もしており、それで姫の御尊顔を見知っているのでございます。ですが」
 いったん言葉を切り、息を整えてから青ざめるエレンをまっすぐ見つめた。
「生まれ育った自分たちの国を裏切るなど、そんな卑怯なまねはしていません」
 両手を強く握り締めてエレンは怒鳴った。
「だったらどうしてここにいるのよ? ここはあんたたちの国を滅ぼした……」
「分かってます」
 仕立屋の娘はエレンの言葉を強い口調でさえぎった。
「よそ者であるあなたに言われるまでもなく、そのことは私たちが一番よく分かっております。でも、土地を奪われて、ほかにどこに行けばいいというのですか? 金のある者や体の丈夫な者はリブロフなどの諸国に逃げることができました。でも貧しい者や体の弱い者、老人、子供などは、ここに残るしかなかったのです。この地はご存知のように人間には過酷な地。集落を離れて生きることは不可能です。幸いにして、ティベリウス様は残された私たちを寛大なお心で受け入れて下さいました。生き延びるため、私たちにはそれしか方法がなかったのです」
 一気にまくし立てられて、エレンは言葉を失った。
 国を滅ぼされて被害を受けたのは兵だけでなく、民衆も同じ、いや、それ以上かも知れず、国家という保護を失った彼らの生きるすべは、生まれ育った土地を捨てて逃げ出すか、占領者に服従するかのどちらしかないということまで考えたことはなかったのだ。
 ただ、女性の口調に違和感を覚えた。ティベリウスの名を口にした時の女性の表情に憎しみはなく、逆に居住まいを正すような敬いを感じたのだ。
 よそ者という言葉にひるむものを覚えながら、エレンは注意深く尋ねた。
「仕方なくって言うんなら、あんたたちは教団の長衣を着ていながら、神王のことは信じてないのね?」
 女性は黙った。それは否定を表している。
 長年の間に、国を滅ぼされた恨みは消え、敵である教団の考えに染まってしまったのだろうか。エレンは荒々しく息を吐いた。
「待ってよ。あんたたちに愛国心ってものはないの? 自分たちの生活が守られるんなら、敵の保護でも構わないってわけ? 異教をたやすく信じるってわけ?」
 誇り高いはずである砂漠の民の不甲斐なさと、ハリードへの同情が苛立ちとなった。
「ハリードはずっと、ゲッシア王朝を守り切れなかった自分を責めて、神王教団に復讐を誓っていたんだよ? それは、あんたたちのためでもあったんだよ?」
「それはどうでしょうか」
 開き直るように娘が毅然と顔を上げ、母親が慌ててたしなめるのにも構わずに続けた。
「私たち民のためではなく、御自分のためじゃないでしょうか。少なくともティベリウス様は、神王様の名の元に人々はすべて平等であるとおおせになり、私たち信者と同じ、質素な生活をされておられます。マクシムスという裏切り者によって神王教団の名は汚されてしまいましたが、私たちがティベリウス様を信じ続けることに変わりはありません」
 その言葉は怒りを通り越して、エレンを嘆息させた。
「滅ぼされたゲッシア王朝と、滅ぼした神王教団のどちらが正しいのかは、あたしには分からない。でもこれだけは分かる。あんたたちはティベリウスを信じてるんじゃなくて、ただ、すがってるだけなのよ。ティベリウスがあんたたちの生活をみられなくなったら、あんたたちはさっさと他のなにかに乗りかえるんでしょう」
「すがってなにが悪いのですか? 弱い者がそうせざるを得ないのは仕方がないでしょう? それとも、一介の民に過ぎない私たちがゲッシア王朝に忠誠を誓い、共に滅びればよかったとでも?」
「そうじゃないっ」
 エレンは怒鳴り返した。エレンたちは自分たちの安全を顧みず、ゴドウィン男爵の反乱をミカエル侯爵に伝えるモニカ姫の護衛に付き従ったこともあり、この信者にそんな風に言われる筋合いはない。
 だがエレンが腹を立てた理由は、そんなことではなかった。

作品名:ビター・トゥルー 作家名:しなち