ブロークン・ウイング
修道女とゴンが去った後、恐る恐るシャールは小屋の扉を叩いた。
――返事はない。
しばらく待った後、もう一度叩こうと手を上げかけたシャールは、扉の向こうで誰かが息を殺してうかがっているような気配を感じた。やはり、誰かいるのだ。
声をひそめるようにシャールは言った。
「シャールです。近衛兵団攻撃隊長を務めていた、シャールです」
少しの沈黙の後、ゆっくりと扉が開いた。細く開けられた隙間から覗いたのは、ミューズを託したクラウディウス一族の、商人の夫人であった。
「シャール様っ、よくここがおわかりになりましたね」
安堵したのか、夫人は目に涙を浮かべてシャールの腕を取った。そのまま泣き崩れる。
「主人は先ほど店に戻りました。私たちの店も取り潰されるかも知れないそうです」
それに関してはなにも言えず、シャールは夫人に腕を取られたまま、落ち着くのを辛抱強く待った。ひとしきり泣いた後、夫人は慌ててシャールから離れて言った。
「申し訳ありません、取り乱してしまって。ミューズ様はご無事です。ただ、急激な変化と精神的な痛手からか、屋敷を出てからずっと体調が思わしくありません」
「ここにおられるのですね?」
夫人はうなずき、奥を振り返った。
「先ほどお休みになられました」
シャールはほっとし、ねぎらうように夫人に言った。
「わかりました。後は私にお任せ下さい。あなたも店に戻られた方がいい。これ以上、迷惑をかけるわけにはいきません」
「でも……」
夫人は迷っているようであったが、夫と店のことが気になるのだろう、申し訳なさそうにシャールに頭を下げた。
「それでは、お願いいたします。もし何か困ったことがあれば、見つからないようにうちの方にいらしてください。できる限りのことはいたしますから」
「ありがとうございます」
肩掛けを巻き、手早く身支度を整えながら夫人は言った。
「それと、主人が申すには、この戦いには教団が関わっているかも知れないそうです」
「神王教団のことですね? 私もそれは目にしました」
夫人は考えこむように言った。
「はい。……なんでも、この町に来た支部長は、特殊な能力を持つ者をそばに置いているそうです。よくわからないのですが、まったく別の姿に変装したりするとか……」
その言葉を聞いてシャールは思い出した。クレメンスが死んだことを聞く前に、陣中の守備兵長がシャールの姿を見て怪訝そうにしていたことを。暗殺者が教団から派遣されたとするならば、それはもしかしたらシャールの姿だったのかもしれない。ならばクレメンスが後頭部を斬りつけられていたことも理解できる。実の息子に対するような深い信頼をクレメンスがシャールに置いていたことは、周知の事実であった。
暗いためか、蒼白になっているシャールの表情に気付かぬまま夫人は小屋を去っていった。
茫然としたまま室内に足を踏み入れると、部屋の隅にほのかな明かりが灯された。二人の話し声で目が覚めたのであろう。寝台に半身を起こし、燭台を持ってこちらを見つめている人物を目にしたシャールは、思わずその場に片膝をつき頭を下げた。
「ミューズ様」
あまりにひどい主家の令嬢の境遇に胸を突かれ、すぐには言葉にならなかった。
シャールにとってクレメンスの愛嬢は常に美しく貴い存在であり、その姿と今の姿を比べると、あまりにもいたわしかった。
「シャール」
ミューズに名前を呼ばれ、慌ててシャールは言った。
「このような境遇になりましたこと、そしてお父上をお守りできなかったこと、深く、深く、お詫びいたします」
「シャール、もっと近くに来て。私に顔を見せてちょうだい」
低頭したままのシャールの言葉をさえぎり、燭台をそばの卓に置きながらミューズは言った。
シャールはためらい、立ち上がってもう少し傍に寄る。
「もっと。それじゃ顔が見えないわ」
ためらっているシャールに、ミューズは微笑みながら肩をすくめる。
「みっともない姿でごめんなさいね。でも、もう少し傍に寄ってもらった方が、声を張り上げなくて済む分楽なの」
これ以上遠慮することは逆に無礼に当たると判断したシャールは、意を決してミューズの寝台の横に膝をついた。
ミューズの腕がすっと伸び、右腕に巻かれた布の上にそっと手を置く。驚いたシャールは顔を上げてわずかに身を引いた。
「お止め下さい。汚のうございます」
宙に手を浮かせたままミューズは何も言わず、熱のために潤んだ瞳でじっとシャールの顔を見つめた。
寝乱れた髪は無造作にまとめられただけであり、病と心労でやつれた姿であるにも関わらず、それでも主家の姫君は神聖なほどの美しさであった。
ミューズはシャールの右腕に触れた手を次に、恐る恐るシャールの頬に当てた。その手の熱さに鈍い痛みを感じて、シャールは思い出す。
ルートヴィッヒに鞭で打たれた場所である。みみず腫れにでもなっているのかもしれない。
しかしミューズはそのことにも一言も触れようとはせず、静かな声で言った。
「生きて戻ってきてくれて、よかった」
シャールはミューズの瞳を見つめた。
シャールの視線をやさしく受け止めながら、ミューズは続ける。
「ごめんなさいね。ありがとう」
すべてを許すようなミューズの美しい瞳を見つめたまま、シャールは何も言えなかった。
内側でずっとこらえていたものが、堰を切るようにあふれそうになったのだ。
美しく、はかない微笑をそれ以上見つめることができず、シャールは頬に当てられたままのミューズの手を、左手と不自由な右手で包み、押し頂くように自らの額に当てた。
(私は、あなたをお守りするために生き残った、そう思ってもよいでしょうか?
あなたを守ることが私に与えられた使命であると、思ってもよいでしょうか?
お許しいただけるのならば、私は全身全霊をかけてあなたをお守りすることを誓います。
心の底からあなたが笑うことのできる安らぎの地へお連れすることを、ここに誓います。
――この、折れた翼で)
――終――
作品名:ブロークン・ウイング 作家名:しなち