ブロークン・ウイング
はっと目が覚めたシャールは、一瞬、ここがどこだかわからなかった。薄暗い小屋に明るい光が差し込んでいるのを見ると、クレメンスが討たれたことも、リブロフ軍に降伏したことも、すべて悪夢であるかのような錯覚を覚えた。
しかし右腕に巻かれた布に触れ、夢でないことを知る。
ゆっくりと体を起こしたシャールは、痛む節々の筋を慎重に伸ばした。日の差し込む方角から、夕暮れ近い事を知る。ずいぶん長い間眠っていたようである。
焼けるようにのどが乾いていたシャールは、音を立てぬようにそっと戸口まで移動した。辺りにひとけのないことを確認して、壊れかかった小屋を出る。もう少し日が暮れるのを待ったほうがよいのかもしれないが、長時間何も口にしておらず、これ以上は耐えがたかった。赤々と差す落陽にまぎれながら門の方角へと向かっていたが、突然、屋敷の扉が開き、シャールは茂みに隠れたまま動きを止めた。
体勢を低くしたまま扉に目を向けたシャールは、息をのんだ。屋敷から出てきたのは数人の、リブロフ軍の幹部らしき人間であったからだ。ここに隠れていることを突き止められたのかとシャールは思った。
しかし、辺りを警戒しているそぶりはなく、後から出てきた人物と談笑しているようである。続いて扉から姿を見せた者を見て、シャールは眉をひそめた。
それは、神王教団の教徒たちであった。その奇妙な長衣に見覚えがある。
クレメンスに布教を禁止されていたはずの教団が、王宮に近いこの屋敷を手に入れ、新たなピドナの支配者となったリブロフ軍と手を結んでいるというあまりの早業に、シャールは疑問を抱いた。
神王教団は、リブロフ軍に近衛兵団が敗れるということをあらかじめ予測していたのであろうか。
リブロフの幹部たちが去り、教徒たちが屋敷の中へ入ったことを確認してシャールは通りに出た。疑問は尽きないが、今はなによりも身を隠すことが先決である。
裏路地を選んで人目を避けながらシャールは旧市街へと向かった。平和維持のため常々巡回していたため、ピドナの町は隅々まで熟知している。
無事に旧市街にたどり着いたシャールは共同の井戸へと向かった。その頃にはすっかり日は落ちていて、常に井戸の周りで世間話に花を咲かせている女たちも、すでに家に帰っているようであった。
辺りを警戒しながら、ぎこちなく左手で釣瓶に水を汲んでいると、井戸の後ろから小さな声が聞こえた。
「けがをしたの?」
見ると、井戸の陰に隠れるように三つ、四つくらいの男の子がシャールを覗いていた。相手が幼い子供だと知ったシャールは、不器用に微笑んで見せる。
「大丈夫だよ」
笑みを見て安心したのか、男の子は井戸の後ろから出てきて茶色く変色した上着を指差す。腕を高く吊られていたため、伝った血が滲んでいたのだ。
「だけど、お腹から血が出てるよ」
「これは腕に受けた傷から滲んだだけだよ」
のどの渇きを癒した後、矢に傷つけられた肩の傷の血を洗い流していると、通りの方から呼び声が聞こえた。
「ゴン、どこにいるのー?」
「あ、せんせいだ」
声を聞いた男の子はシャールの体に隠れるように身を潜めた。うかがうようにシャールを見上げる。
「かくれんぼしてるんだ」
その様子がかわいらしく、シャールは笑みを浮かべたが、その者に見つかると厄介なことになるかも知れないと思った。敗走した近衛兵を探すリブロフ軍の指示は旧市街地にも届いているであろう。
「もう日も暮れた。心配しているだろうから、早く行っておあげ」
言いながら立ち上がった時、若い女性が姿を現した。身なりからかんがみるに修道女のようである。子供が傷を負った男の傍にいることを見た修道女は、顔を強張らせて立ち止まる。
シャールは素早く踵を返し、足早に立ち去ろうとした。その背中に、修道女は声をかける。
「もしかして、……シャール様ではありませんか?」
シャールは足を止めなかった。シャールの勇姿を知る者は旧市街地にも多い。ここでそうだとうなずけば、迷惑をかけることになるか、最悪の場合、リブロフ軍に引き渡されてしまうであろう。
修道女はなおも呼びかけた。
「お待ち下さいませ。もしかして、クラウディウスのお屋敷より逃げ出された方をお探しでは?」
その言葉にシャールの足は止まった。逃げ出された方とは、ミューズのことであろうか。子供の傍に近寄りながら修道女は口早に続ける。
「昨夜遅くに、我が修道院の近所に立派な身なりをした方たちがひそかに来られたようです。クレメンス様のお屋敷がリブロフ軍に襲撃されたことを聞いておりましたので、もしかすると逃げ出してこられたクラウディウスの方々かと……」
「ぼく、きょうの朝、見たよ。れーはいしょのめがみ様みたいにきれいな人が、窓のちかくで泣いてたよ」
ゴンと呼ばれた男の子の言葉に、シャールはもちろん、修道女もびっくりしたように目を見開いた。
「まったく。人のおうちを勝手に覗いちゃいけませんって、いつも言ってるでしょ」
叱られたゴンであったが、反省するそぶりは見せず、むしろ誇らしげな口調で言った。
「でも、ぼくのかおを見たら泣きやんで、にこって笑ってくれたよ」
「その家はどこにあるのです?」
うろたえてシャールは尋ねた。子供の言うことなら真実であろう。きっとそれはミューズに違いない。修道女はちょっとためらうようにシャールの顔を見つめていたが、ゴンの手を引いてうながした。
「どうぞ、こちらです」
迷路のように入り組んだ細い路地を抜け、旧市街地の住宅地より少し離れた場所にその家はあった。いや、家と呼ぶより小屋と呼ぶ方が正しいであろう。少し傾いたような小さなその小屋の扉は、打ちつけられているように固く閉ざされている。
「私たちは、ここで失礼します」
案内を終えて背を向けかけた修道女であったが、もう一度振り返って、シャールの顔をまっすぐに見つめた。
「ご安心下さいませ。このことは決して他言いたしません。私たち旧市街に住む者はみな、クレメンス様に多大な温情をかけてもらっておりました。たとえリブロフの者が王となっても、私たちはクレメンス様をいつまでも偲び続けます」
胸がつまったシャールは無言のまま頭を下げた。ピドナ中の人々に愛されていた亡き主人の人望の厚さに、尊敬と感謝の念を抱いたのだ。
作品名:ブロークン・ウイング 作家名:しなち