りんごのさきに
4
妻を、エリンを忘れたことなど、一日も無い。
けれど、空に少しずつ溶けていく雲のように、彼女の存在が薄くなっていったのだと気づいたのは、一日のほとんどを寝て過ごすようになってからだ。
あの手のぬくもりも、別れてしまった悲しみも忘れていない。
けれど、遠い。あの日から、何十年も何百年も経ったように思える。
エリンと分かれた場所と俺が歩いてきた今の場所。その分だけ、距離が出来てしまった。
「ジェシ」
「分かっています」
「頼んだ」
開かれた扉からは、白く広がった真昼の曇り空が見える。
ずっと、この空の下を俺は歩いてきた。
物思いにふけっていると、ジェシがゆっくりと口を開いた。
「わたしが、あの木を植えたとき、『ああ、リンゴの実がついたとき、わたしは、絶対に泣くだろうな』と思ったのです。実りの季節のたびに、涙をこぼしてしまうのだろうと」
似たようなことを、ジェシも考えていたのだろうか。俺は視線だけをその顔に向ける。しっかりとした顔つきだった。
「もう泣きはしないか」
「いいえ、泣きます。ただ、今は心の中だけで」
俺が歩いてきた道の上に浮かぶ、曇った空はもう晴れることは無い。
けれど、この世界を生きていくしかない。
生きれるように、俺の身体と心は、慣れてしまったのだろう。
「生き物の順応能力って、なかなか侮れませんね」
でもこれは、きっとかなしいことではない。人間がもつ、強さなのだろう。
「人間は、しぶといな」
けれど、俺がそんなしぶとさを持てたのは、ジェシとエリンが居たからだ。
一人ではなかったから、ここまで歩いてこれた。
ジェシもこれから、俺と距離をとって、歩き出す。
俺たちが残したものを引き継いで。
そう考えると、目頭が熱くなる。
「あの時、母が生きていたとしたら」
こぼれるままにした涙を見ながら、ジェシは言葉を吐き出す。
「わたしたちは、また違った道を進んでいたのだろうと、今はそう思えるのです」
淡々と、静かに語ったジェシに、俺は小さくうなずいた。
あともう少し。
りんごを後にし、歩いてきた。
その道は、ほんとうに幸せだったものだと、伝えに行こう。
おわり。
***
最初、うっかり指物師を物差師と間違えたのは内緒です。
物差し作ってるイアルもまあそれはそれで面白そうだが。
獣の奏者は、とにかくもう家族の全てが愛しかった作品でした。