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りんごのさきに

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 妻を、エリンを忘れたことなど、一日も無い。

 けれど、空に少しずつ溶けていく雲のように、彼女の存在が薄くなっていったのだと気づいたのは、一日のほとんどを寝て過ごすようになってからだ。

 あの手のぬくもりも、別れてしまった悲しみも忘れていない。

 けれど、遠い。あの日から、何十年も何百年も経ったように思える。

 エリンと分かれた場所と俺が歩いてきた今の場所。その分だけ、距離が出来てしまった。

「ジェシ」

「分かっています」

「頼んだ」

 開かれた扉からは、白く広がった真昼の曇り空が見える。

 ずっと、この空の下を俺は歩いてきた。

 物思いにふけっていると、ジェシがゆっくりと口を開いた。

「わたしが、あの木を植えたとき、『ああ、リンゴの実がついたとき、わたしは、絶対に泣くだろうな』と思ったのです。実りの季節のたびに、涙をこぼしてしまうのだろうと」

 似たようなことを、ジェシも考えていたのだろうか。俺は視線だけをその顔に向ける。しっかりとした顔つきだった。

「もう泣きはしないか」

「いいえ、泣きます。ただ、今は心の中だけで」

 俺が歩いてきた道の上に浮かぶ、曇った空はもう晴れることは無い。

 けれど、この世界を生きていくしかない。

 生きれるように、俺の身体と心は、慣れてしまったのだろう。

「生き物の順応能力って、なかなか侮れませんね」

 でもこれは、きっとかなしいことではない。人間がもつ、強さなのだろう。

「人間は、しぶといな」

 けれど、俺がそんなしぶとさを持てたのは、ジェシとエリンが居たからだ。

 一人ではなかったから、ここまで歩いてこれた。

 ジェシもこれから、俺と距離をとって、歩き出す。

 俺たちが残したものを引き継いで。

 そう考えると、目頭が熱くなる。

「あの時、母が生きていたとしたら」

 こぼれるままにした涙を見ながら、ジェシは言葉を吐き出す。

「わたしたちは、また違った道を進んでいたのだろうと、今はそう思えるのです」

 淡々と、静かに語ったジェシに、俺は小さくうなずいた。





 あともう少し。

 りんごを後にし、歩いてきた。

 その道は、ほんとうに幸せだったものだと、伝えに行こう。















 おわり。




***





 最初、うっかり指物師を物差師と間違えたのは内緒です。

 物差し作ってるイアルもまあそれはそれで面白そうだが。





 獣の奏者は、とにかくもう家族の全てが愛しかった作品でした。


作品名:りんごのさきに 作家名:huku