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愛しいのに哀しくて

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「平古場凛くん。君、テニスに興味はありませんか」

 時計の秒針だけが響く暗い部屋で、声が聞こえた気がした。
 あまりにも懐かしい声に、心の奥底に眠っていた記憶を呼び起こされた。木手と初めて出会った日、初めて名前を呼ばれてお互いを認識し合った日。第一印象は最悪だった気がする。たぶん、お互いに。
 それからどれだけの日々を共に過ごして来ただろう。苦しいことや辛いことも多かったが、それ以上に楽しいことも沢山あった。自然と緩む口元を自覚して、平古場はその一番の原因である男を見下ろした。
 腰掛けているベットが体重の移動で小さく軋む音を立てたが、木手は眠りから覚める様子はなかった。顔の横に無造作に置かれた手首に、鬱血の跡が色濃く残っている。唯一、平古場の存在を刻み付けることが許された場所、それが手首だった。リストバンドで隠れるからという理由に、木手なりの譲歩だと取るべきなのかと、悩んだのは随分昔のことだったと懐かしくなる。平古場の視界に映る上半身には他に跡は無く、鍛えられた滑らかな肌があるだけだった。しおらしい態度で約束を守っているふりはしていても、木手の意識があやふや時に、木手自身も簡単には気がつかない様な場所に、印を刻み込んでいるので、制限されることにそれほど不満がある訳ではなかった。随分と神経が図太くなったと苦笑いが漏れた。
 シーツの上を滑る様に、木手の手が動いたけれど、それ以上動くことも目を覚ます気配もなかった。小さく呻いた声は出会った頃と少しも変わらない。そういえば、出会った時にはもう、木手は声変わりが済んでいたことを思い出した。木手は平古場が知るよりもずっと前から出会っていたと言っていたが、平古場にはその記憶はなかった。
 それを、何度悔やんだかは分からない。幼馴染である甲斐や、小学校が一緒だった田二志が、この低く深く響く声より前を知っているのだと思うと形容しがたい黒い感情が胸に渦巻いた。だからだろうか、誰にも聞かせた事の無いだろう情交の際に耳に熱く響く、苦痛と快楽の狭間を漂う声に酷く煽られるのは。

 指先で閉じられた唇にそっと触れた。
 眠るその顔は、現実の全てから開放され、無防備で心の底まで透けて見えるのではないかと思えた。呼吸に合わせて上下する胸が、穏やかな眠りに包まれていることを伝えてくる。こうして傍で寝顔を見つめるのは何度目だろうか、そう考えたと同時に、後何度この顔を見ることが出来るのだろうかと不安になった。
 そう遠くない未来に、お互いの進む道は別れることになるだろうと、心のどこか片隅で平古場は感じていた。木手の目指す道は、平古場が思っているよりもずっとずっと高く遠い。その道を並び歩く覚悟が今の平古場にあるかと問われれば、肯定を返すことが出来ない。
 将来の展望など見えない。
 そんなこと、考えたこともなかった。
 木手の傍で、全国大会出場の夢を誓い合った。そして、全国の地へと降り立った。傍で共に戦ったからこそ平古場は知っていた。

 木手は夢を現実にする力があることを。

 平古場は、木手のその背中について行くことしか出来なかったと、今なら分かる。心の底の柔らかな部分がぎゅっと締め付けられた様に痛く苦しかった。息が詰まって呼吸が上手く出来ず、唇に触れていた指先が小さく震えた。

 並び立ちたい。
 その背を追越したい。

 そう思ってずっと戦ってきた。それなのに、実際には平古場は与えられるだけで、何一つとして木手に与えることは出来なかった。事実は、違うのかもしれない。人と人の繋がりに一方的な関係など無いはずだと、そう思わなければ全てが崩れ去ってしまいそうで怖かった。
 木手に何の影響も与えることが出来ず、ただ置いていかれるだけならば、始めから平古場自身が何も出来ない、他人に影響を与えることの出来ない人間だと思っていた方が傷つかなくていい。これ以上、木手と平古場の間にある距離を知りたくなかった。
 ただ穏やかに眠る、この現実から離れた木手を永遠に眺めていたかった。 
 触れた唇が微かに動いて小さな熱い吐息が指に触れた。起きたのだろうかと、少しだけ残念に思いながら顔を覗き込み、指の腹に伝わる唇の柔らかな感触を味わう様に、ゆっくりとなぞり指を離した。
作品名:愛しいのに哀しくて 作家名:s.h