03:スプーン三杯の記憶
時計の短針が3を指すのを見て、身構えた自分がいたことに臨也は気付いた。実家とも、そして池袋に住んでいたころのマンションとも異なる造りの、今の住まい。それでも、そのドアを音を立てて開き、そこから「おやつ!」と叫んで飛び出してくる二人の子どもの姿が脳裏に思い浮かんで、臨也はキーボードを叩いていた手を止めた。実際、叫ぶのはその片割れだけだとわかっていたけれど。もう一人はといえば、そっと服の袖を掴んで見上げてくるのだ。どちらが悪質かは、判断が付かない。付かなかった。目頭に当てた指先は、冷え切っていた。マグカップのコーヒーもまた、冷え切っている。文書を保存して、ノートパソコンの電源を落とすと、臨也はデスクチェアに深く沈み込んだ。そんな臨也を気に掛けることなく黙々と作業に勤しむ波江は、優秀な助手と言えたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「波江、……お腹すかない?」
「貴方、こんなとこばかり子どもなのね。言っておくけど嫌よ。貴方の前で料理したらろくなことにならないんだもの」
「そこまでわかってるなら、何か買っておいてくれてもいいのに」
恨み言を聞かせてみたところで、波江は眉一つ動かさなかった。けれども書類を整理する手だけは止まらない。それが手を休めている自分に対する当てつけのように思えて、臨也は肩をすくめる。後ろめたさなんて感じていないふりをして、実はその裏。もっとも、そんな裏なんてあるはずもなく。そしてその有無に関して波江が気に掛けるわけもなく。つまらない一人遊び。まるで機械を相手にしているようだ、と思って、そんな自分の考えに苦笑する。機械は愛を囁かない。
数日前のことを波江は未だに引き摺っているのだろうか。臨也は数日前の出来事を思い出して、それから内心で首を振った。波江の作る甘すぎるアップルパイに対して、臨也がしたことといえば、レモンを入れたことぐらいだ。ただし大量に。甘ったるい匂いは、記憶を遡るきっかけであり、毒だった。矢霧波江という女にとって、そのアップルパイを作るという行為自体が重要だったわけではない。その行為の対象である弟が大事であるわけで、その弟が必要ないと口にした時点で、その行為は彼女の中で正当性を失っている。その証拠に、レモンの酸味で台無しになったりんごのフィリングは、驚くほどあっさりと、彼女の手によって捨てられた。いっそ、元々作るのをやめる理由を探していたかのように。それは、邪推か。
いつまでたっても返事が返らないことを確認して、臨也が立ち上がる。そうだ、おやつを作ろう。そんなことを声に出して呟いたわけでもないのに、そこで、ようやく波江の視線は臨也に向いた。
「この書類は?」
「ああ、そこの引き出しの……」
「はい」
ああ、本当優秀な助手だ。手渡された封筒を眺めて、臨也は溜息を付いた。封筒の口は寸分の歪みもなく閉じられていて、文句の付けようがない。封筒を引き出しに仕舞ってしまえば、もう波江は何も言わなかった。愛という部品さえなければ機械と称して良いだろうその様子に溜息がこぼれ落ちたのは、詰まるところ、臨也が人間という生き物を愛していたからだった。そう、予想をはねのけうる可能性を。臨也の中で、理性が人間だと判断する一方で感情がそれを否定する生き物はいくらか存在する。波江はそこには含まれない。
作品名:03:スプーン三杯の記憶 作家名:きり