雨風食堂 Episode1
並盛中の放課後は、今日も変わらず平和だった。
校庭に向けて開け放たれた窓からは、にぎやかな声が飛び交っているのが聞こえてくる。それを聞きながら、シャマルは持ち込んだゴシップ詩を手持無沙汰にめくっていた。
――――それにしたって、こんな平和でいいもんかねぇ。
医者であると同時に、天才と呼ばれた殺し屋であるシャマルにとって、遠い海を渡った島国の学校で保健室の先生をやる自分など、想像だにしていなかった。生まれつきの体質のせいで、幼い頃から死と隣り合わせだったし、医者としても殺し屋としても、シャマルは普通の人間よりも多く、生と死の境界線を見てきた。
一般的には、こんな穏やかな昼下がりこそが日常なのだと頭では理解している。けれどシャマルには、まるで甘いメレンゲのように、ふわふわと頼りなく思えてならないのだ。この中学の保健の先生という職業もそれなりに楽しんでいるし、決して退屈だと言うのではない。ただ、いつまでもこの場所にいることはできないのだろう、と漠然と知っているのだ。いつか終わるものだとわかっているからこそ、こんなにも現実感がないものなのだろうか。
――――あーあ、カワイイ女の子でもこないかねぇ………。
頬杖をつきながら雑誌のグラビアに目を落とし、シャマルは心の中で切実にぼやいた。だが残念ながら、現実にシャマルの大きな期待は裏切られてしまったのだった。
「おっさん、消毒貸して!」
ガラッと音を立てて勢いよく開いた扉に、からりと明るい大声。シャマルは少しだけ顔を上げ、ちらりとそちらを横目で見て、はぁ、と溜め息を吐いた。
――――一番面倒くさいタイプがきやがった。
内心ではそう思ったが、口にまでは出さなかった。彼はシャマルの反応などお構いなしにずかずかと入ってきて、棚を指さして言った。
「なぁ、消毒はどこに入ってるんだ? あと、絆創膏も」
野球のユニフォームをまとったその少年は、相変わらず無邪気で愛想のよい笑顔だった。しかしその笑顔とは対照的に、彼の片方の肘は大袈裟なほど血がにじんでいた。
「お前さん、前の傷も完治してねぇのに、そんな怪我ばっかりしていていいのかよ。大会が近いんじゃなかったのか?」
先日の六道骸たちとの一戦から日も浅い。本当なら、こんな風に部活動に参加していること自体が大きな問題なのだが、そこには敢えて口を挟む気はなかった。少年は、少し決まり悪そうに笑い、頬を指でかいた。
「前のとは違って、これは練習中のアクシデントってやつだし、今回はおおめに見てくれよ。本当は、こういう怪我をしないようにするのも自己管理の内ってことになるんだろうけどさ」
「別に、お前らの試合がどうなろうと俺は知ったこっちゃないさ。それよりも山本。お前さん、消毒するんだったら、その前にそっちでちゃんと傷口洗えよ。化膿するぞ」
「サンキュー!」
屈託のない笑顔に、シャマルは自分が余計な世話を焼いてしまったことを自覚する。こんな風に口を出すのだって、本来なら自分の範疇外だ。
――――だからこいつは面倒なんだ。
シャマルが日頃から男は診ないと公言して憚らないことを、山本少年はよく理解している。そんな保健医など非常識だと文句も言わないし、こうして怪我をして保健室にやってきたにも関わらず、消毒はどこだと訊ねはしても、消毒をしてくれと頼んではこない。
シャマルの知る限り、山本は物わかりがよくて素直な、年相応の少年らしい少年だ。だが、本当にそれだけの優等生であれば、あのリボーンが一目置くはずはないいのである。シャマルもこの道に入ってからそれなりに長い。薄々感じている部分もあるが、そこまでの確信は持てていない。
「消毒は、右の棚の一番下にある。絆創膏は、そこの抽斗の中だ。あとは勝手に自分でやれ」
「おお、あったあった。サンキュ―な、おっさん」
「いちいち礼なんかすんじゃねぇよ。当て擦りか」
するとそれを聞いた山本は、一瞬きょとんとして首を傾げてから、ああそういう意味か、と呟いて破顔した。
「そういう意味じゃないって。おっさん、素直じゃねーのな」
「うるせぇよ。ほら、やることやって、とっとと出てけ。俺は忙しいんだ」
「忙しいって、どうせナンパしてるかエロ本読んでるかなんじゃねーの?」
「馬鹿野郎。ナンパという行為の崇高さが理解できねぇってのは、お前さんがまだ尻の青いガキだって証拠なんだよ」
「ふーん? 何だかよくわかんねぇけど、まぁいいや。俺は野球やれたらそれで十分」
山本が筋金入りの野球馬鹿だということは、シャマルも聞いている。時々顔を出してくれる女生徒たちからも名前が出ることがあり、腹立たしいことに、相当もてるのだということも知っている。しかし本人はこの通りまったくその手のことに興味がないらしく、そこがいいとも言えるのだろうが、シャマルにしてみれば、まったく青春を無駄にしているとしか思えない。
山本は素直に、慣れない手つきで肘の傷を消毒していた。利き腕の怪我なので、やりにくい事この上ないのだろうが、だからと言って手を貸してやる気はまったくなかった。男子生徒たちに給料泥棒と謗られようと、このポリシーを改める気だけはない。
だからシャマルは山本の存在など無視して、また雑誌に視線を戻したのだが、そこに山本が突然話しかけてきた。
「なぁ。そういえば、おっさんは獄寺が小さい頃からの知り合いなんだよな?」
思いがけない名前が出てきたことに驚いて、つい顔を上げてしまった。だが、当の山本はどうにか絆創膏をきれいに貼ろうと苦戦しているところで、こちらを見てはいなかった。
「それがどうかしたのか? 何だ、あいつの昔の恥ずかしい話ならいくらでもしてやるぜ」
「そんなんじゃねーって。別に獄寺をからかうネタを知りたいとかじゃなくてさ。単純に、あいつの小さい頃ってどんなんだったのかなぁ、って思っただけ。ホラ、獄寺って、誰にでも毛を逆立てた猫みてーな所あるじゃん? あれって昔っからそうなのか?」
山本の言いえて妙な表現に、シャマルは思わずこみ上げた笑いを噛み殺した。もしもこの場に本人がいたら、血相を変えて怒鳴り散らすのが目に浮かぶ。
「さぁ、どうかな……。でも、簡単に誰にでも懐くような性格でないのは確かかもな」
だがそれは、彼の生い立ちがそうさせたという部分が大きい。周囲の人間に迂闊に心を許したりしてしまえば、それがすぐに生命の危機に繋がってしまうこともある。マフィアが生きる世界というのは、そういうものだ。
――――そんな場所で生きていくには、あいつは真っ直ぐすぎる。
だから、自分の中に表と裏を作り、相手の思惑を図りながら世を渡るということができない。そのために、常に自分を取り囲む世界に対して張りつめた状態のまま、威嚇するように構えてしまうのである。
「でも、ツナだけは特別だよな」
「あれはまぁ……、本当の本当に特別なんだよ」
初めて沢田に対する獄寺を見たとき、シャマルは純粋に驚いた。何もかも苦手で意気地もないダメツナとあだ名される沢田は、本来なら、獄寺が最も嫌うタイプの人間だ。そう思って、以前獄寺に、何故沢田をボンゴレ十代目として認めたのか、訊ねたことがある。
「何で、だと……?」
校庭に向けて開け放たれた窓からは、にぎやかな声が飛び交っているのが聞こえてくる。それを聞きながら、シャマルは持ち込んだゴシップ詩を手持無沙汰にめくっていた。
――――それにしたって、こんな平和でいいもんかねぇ。
医者であると同時に、天才と呼ばれた殺し屋であるシャマルにとって、遠い海を渡った島国の学校で保健室の先生をやる自分など、想像だにしていなかった。生まれつきの体質のせいで、幼い頃から死と隣り合わせだったし、医者としても殺し屋としても、シャマルは普通の人間よりも多く、生と死の境界線を見てきた。
一般的には、こんな穏やかな昼下がりこそが日常なのだと頭では理解している。けれどシャマルには、まるで甘いメレンゲのように、ふわふわと頼りなく思えてならないのだ。この中学の保健の先生という職業もそれなりに楽しんでいるし、決して退屈だと言うのではない。ただ、いつまでもこの場所にいることはできないのだろう、と漠然と知っているのだ。いつか終わるものだとわかっているからこそ、こんなにも現実感がないものなのだろうか。
――――あーあ、カワイイ女の子でもこないかねぇ………。
頬杖をつきながら雑誌のグラビアに目を落とし、シャマルは心の中で切実にぼやいた。だが残念ながら、現実にシャマルの大きな期待は裏切られてしまったのだった。
「おっさん、消毒貸して!」
ガラッと音を立てて勢いよく開いた扉に、からりと明るい大声。シャマルは少しだけ顔を上げ、ちらりとそちらを横目で見て、はぁ、と溜め息を吐いた。
――――一番面倒くさいタイプがきやがった。
内心ではそう思ったが、口にまでは出さなかった。彼はシャマルの反応などお構いなしにずかずかと入ってきて、棚を指さして言った。
「なぁ、消毒はどこに入ってるんだ? あと、絆創膏も」
野球のユニフォームをまとったその少年は、相変わらず無邪気で愛想のよい笑顔だった。しかしその笑顔とは対照的に、彼の片方の肘は大袈裟なほど血がにじんでいた。
「お前さん、前の傷も完治してねぇのに、そんな怪我ばっかりしていていいのかよ。大会が近いんじゃなかったのか?」
先日の六道骸たちとの一戦から日も浅い。本当なら、こんな風に部活動に参加していること自体が大きな問題なのだが、そこには敢えて口を挟む気はなかった。少年は、少し決まり悪そうに笑い、頬を指でかいた。
「前のとは違って、これは練習中のアクシデントってやつだし、今回はおおめに見てくれよ。本当は、こういう怪我をしないようにするのも自己管理の内ってことになるんだろうけどさ」
「別に、お前らの試合がどうなろうと俺は知ったこっちゃないさ。それよりも山本。お前さん、消毒するんだったら、その前にそっちでちゃんと傷口洗えよ。化膿するぞ」
「サンキュー!」
屈託のない笑顔に、シャマルは自分が余計な世話を焼いてしまったことを自覚する。こんな風に口を出すのだって、本来なら自分の範疇外だ。
――――だからこいつは面倒なんだ。
シャマルが日頃から男は診ないと公言して憚らないことを、山本少年はよく理解している。そんな保健医など非常識だと文句も言わないし、こうして怪我をして保健室にやってきたにも関わらず、消毒はどこだと訊ねはしても、消毒をしてくれと頼んではこない。
シャマルの知る限り、山本は物わかりがよくて素直な、年相応の少年らしい少年だ。だが、本当にそれだけの優等生であれば、あのリボーンが一目置くはずはないいのである。シャマルもこの道に入ってからそれなりに長い。薄々感じている部分もあるが、そこまでの確信は持てていない。
「消毒は、右の棚の一番下にある。絆創膏は、そこの抽斗の中だ。あとは勝手に自分でやれ」
「おお、あったあった。サンキュ―な、おっさん」
「いちいち礼なんかすんじゃねぇよ。当て擦りか」
するとそれを聞いた山本は、一瞬きょとんとして首を傾げてから、ああそういう意味か、と呟いて破顔した。
「そういう意味じゃないって。おっさん、素直じゃねーのな」
「うるせぇよ。ほら、やることやって、とっとと出てけ。俺は忙しいんだ」
「忙しいって、どうせナンパしてるかエロ本読んでるかなんじゃねーの?」
「馬鹿野郎。ナンパという行為の崇高さが理解できねぇってのは、お前さんがまだ尻の青いガキだって証拠なんだよ」
「ふーん? 何だかよくわかんねぇけど、まぁいいや。俺は野球やれたらそれで十分」
山本が筋金入りの野球馬鹿だということは、シャマルも聞いている。時々顔を出してくれる女生徒たちからも名前が出ることがあり、腹立たしいことに、相当もてるのだということも知っている。しかし本人はこの通りまったくその手のことに興味がないらしく、そこがいいとも言えるのだろうが、シャマルにしてみれば、まったく青春を無駄にしているとしか思えない。
山本は素直に、慣れない手つきで肘の傷を消毒していた。利き腕の怪我なので、やりにくい事この上ないのだろうが、だからと言って手を貸してやる気はまったくなかった。男子生徒たちに給料泥棒と謗られようと、このポリシーを改める気だけはない。
だからシャマルは山本の存在など無視して、また雑誌に視線を戻したのだが、そこに山本が突然話しかけてきた。
「なぁ。そういえば、おっさんは獄寺が小さい頃からの知り合いなんだよな?」
思いがけない名前が出てきたことに驚いて、つい顔を上げてしまった。だが、当の山本はどうにか絆創膏をきれいに貼ろうと苦戦しているところで、こちらを見てはいなかった。
「それがどうかしたのか? 何だ、あいつの昔の恥ずかしい話ならいくらでもしてやるぜ」
「そんなんじゃねーって。別に獄寺をからかうネタを知りたいとかじゃなくてさ。単純に、あいつの小さい頃ってどんなんだったのかなぁ、って思っただけ。ホラ、獄寺って、誰にでも毛を逆立てた猫みてーな所あるじゃん? あれって昔っからそうなのか?」
山本の言いえて妙な表現に、シャマルは思わずこみ上げた笑いを噛み殺した。もしもこの場に本人がいたら、血相を変えて怒鳴り散らすのが目に浮かぶ。
「さぁ、どうかな……。でも、簡単に誰にでも懐くような性格でないのは確かかもな」
だがそれは、彼の生い立ちがそうさせたという部分が大きい。周囲の人間に迂闊に心を許したりしてしまえば、それがすぐに生命の危機に繋がってしまうこともある。マフィアが生きる世界というのは、そういうものだ。
――――そんな場所で生きていくには、あいつは真っ直ぐすぎる。
だから、自分の中に表と裏を作り、相手の思惑を図りながら世を渡るということができない。そのために、常に自分を取り囲む世界に対して張りつめた状態のまま、威嚇するように構えてしまうのである。
「でも、ツナだけは特別だよな」
「あれはまぁ……、本当の本当に特別なんだよ」
初めて沢田に対する獄寺を見たとき、シャマルは純粋に驚いた。何もかも苦手で意気地もないダメツナとあだ名される沢田は、本来なら、獄寺が最も嫌うタイプの人間だ。そう思って、以前獄寺に、何故沢田をボンゴレ十代目として認めたのか、訊ねたことがある。
「何で、だと……?」
作品名:雨風食堂 Episode1 作家名:あらた