チェンジリング - 2
アーサーは階段を降りきる3歩前で足を止め、手すりからから身を乗り出して玄関に転がるものたちを見た。
オレンジに暖かく光る照明の下、単行本ほどの大きさの黒いエナメルバッグがつるりとした光沢を浮かべ、放り出された腕に巻き付く時計は豪奢なダイヤモンドの輝きを嫌みなほど主張する。丁寧に扱わなかったのだろう、麻生地の細長い布袋に入ったワインの瓶が何本か割れて、その液体が黒々と玄関のカーペットを汚していた。
離れていてもわかるその甘ったるいにおいに、アーサーはかすかに眉をひそめる。ただのワインではないとわかったからだ。彼女が寂しくて泣いているときにすがるもののにおいがした。高くて、よくない混ぜもの。人の手を経て作られ人を壊す、人工的な――ひどく人間くさいにおい。
玄関で黒いドレスと真珠を輝かせながら眠るロングヘアの美女をどうにかしなくちゃいけないと、アーサーは思った。彼女を自室へ連れて行き、カーペットを拭いて洗ってドライヤで乾かし、それからまだ割れていないワインの瓶を壊して、持って帰ってきたときにすべて割れていたかのように見せかけなくちゃいけないと考えた。いつもの通り。
それにしても、ここまで正体をなくしてよく家に戻ってこられたものだと、アーサーは思う。誰かに送ってもらっている訳でもないのだろうに、毎度不思議に思っていることだ。ここには彼女が楽しくなるようなものは、なにもないはずなんだけどな。
「お母さんって、大変だ」
はく息にのせて細くそうつぶやくと、アーサーは残りの三段をとっとっとっ、とリズミカルに下り、彼女のそばに近づいた。
細長い麻袋の取っ手をぎゅっと握りしめたまま眠る拳を、まるで赤子をいたわるような優しさでゆるやかにほどいて、アーサーは麻袋を取り上げた。袋の口を開いて中を覗けば、二本の割れた瓶の破片と、無事だった一本が斜めに倒れているのが見えた。
アーサーが袋を持ち上げると、割れた瓶に残っていた液がぼたぼたと溢れ、甘ったるいにおいがこみ上げる。胸を圧迫されるような、呼吸するのにひどく抵抗を感じるような気分に陥った。今回のは揮発性があるらしい。
アーサーは、麻袋を左手に提げて玄関のドアを細く押し開いた。胸の苦しさを追い出す春の風が吹き込んで、室内の停滞した香りを吹き飛ばす。アーサーは玄関のドアに手を当てたまま、後ろを振り返った。彼女は夜の空気に一瞬身じろいだが、眠りは深いようだった。
音を立てないように、玄関のドアの取っ手を丁寧に操作する。麻袋を持って夜の庭へ出た。空には満月に3日ほど足りない明るい月と、それを取り巻く星が空気の層を通して、呼吸をするように瞬いていた。
首都から離れた郊外の広い土地で、周りに人がいないと分かっていても やはり大声を上げるにははばかられる優しい夜の空気だった。アーサーは微笑を浮かべながら、小さくスカボロー・フェアのメロディを鼻歌に乗せて、代々の住人が踏み固めてきた庭園への道をゆく。瓶を割る音が聞こえないくらいの遠くへ行かねばならなかった。3分足らずの道程。
庭園の入り口からは、黒に塗りつぶされるでもなく、かといってダイヤモンドのようにギラギラと周りを圧倒する光でもなく、闇と寄り添うような、鈍く多彩な色が見えた。
月の光がじんわりと庭園の輪郭を映し出す。幾重にも葡萄の房のように垂れ下がった葉や花が月影を濃くする藤棚。ほとんど闇に沈みながらも、月の光を受けてかすかに赤や白を映し出すイングリッシュローズの花弁。
アーサーは、庭園の入り口脇にある、いつもは腰掛けに使っている大きな岩に左手を置いて滑らせるように撫でた。ここらでは余りお目にかかれない、水に削られて丸くなった艶のある石。きっと何十年か何百年か前に、誰かがわざわざここまで持ってきたのだろう。
アーサーは、割れていない一本のワインの首を、麻袋に包んだまま右手で持ち、軽く勢いをつけて、瓶の腹を腰掛け石に叩きつけた。
銃声にも似た軽い、はじける音。
麻袋が溢れた液で膨らみ、繊維の間から黒く甘い液体を吐き出した。
「・・・悪りィ、夜中に空気悪くして。今はあんまり近づかないほうがいいぞ」
アーサーは、そうひとりごちて、麻袋を自分の目線の高さまで持ち上げた。
麻袋の中身はすっかり抜けきって、袋を振れば気まぐれにぽたりと黒を零すばかりになっていた。アーサーは庭園からきびすを返し、自宅の玄関へ向かった。
帰りも、アーサーは踏み固まった土の道をゆく。空を見上げると、月に霞のような薄い雲がかかっているところだった。ふと、東洋の伝説を思い出して、あの雲はなんの味がするか考えたら笑えてきた。ビネガーと塩味だってさ。我ながらおかしいや、確かにフィッシュアンドチップスは好物だけど。
硝子の欠片が詰まった麻袋を玄関先に置くと、ドアを開いて室内のぼんやりとした明かりを踏みしめる。
閉塞した、甘ったるい残り香。未だに汚れたカーペットの隣で眠る彼女を部屋へ連れて行こうと近づいてみれば、喉をやられそうな強い煙草のにおいもした。
「起きて 母さん。ここじゃ風邪引くよ」
アーサーは、蝶の羽に触れるときのように 軽く優しく彼女の肩を叩く。う・・・と呻くだけで目を開かない彼女を、目を細めて見遣る。
アーサーは天井を振り仰いだ。暗闇の中に、暖かい光。自分には見える、友人達の居場所だ。
それと言葉が降ってくる。良くない言葉。
気持ちは分かるよ、でも、とアーサーは密やかにつぶやいた。
「・・・お母さんを悪く言わないで」
アーサーは、何かを堪えるように潤んだ瞳をきつく細めて、哀しげな小声でささやく。
「なあ、お願いだ。仕方ないんだよ、かわいそうなんだ」
確かにこの人は賢くない。ああそうだ。警察が許さない生き方をしている。でも、賢くなれない気持ちも分かるんだ。自分で自分を痛めつけなきゃ、息が出来なくなる気持ちが分かるんだ。だって自分が居ることが、息をしにくくしているんだもの。
呼吸をするたびに、肺がきしむ。酸素が粘る。心臓が鼓動を打つたびに体のどこかが捻れていく。そのひどく不自由で痛い感覚が俺にも分かるから。
「みんな」
「――ねえ、誰とお話しているのかしら?アーサー」
その瞬間思ったことは
あっ、と息をのむ思いだけ。
でも、その一呼吸には、万感の後悔が詰まっていて、次に呼吸をしたときには じわり、と自然に涙が湧いていた。
彼女は、上半身だけを起こすと、アーサーの首に両手を巻き付けて笑った。座って?、とアーサーに微笑みながらささやくと、アーサーは顔を伏せながらその場で体育座りになる。顔を伏せながら、右腕に涙のあとを押しつけて拭いた。
「ねえ、アーサー。私の荷物はどこ?」
「・・・外。ぜんぶ、割れてたから外に出した」
「そうなの。うふふ、ありがとう。アーサーは優しいね」
彼女はアーサーの頭を優しく撫でた。
彼女のはく息はひどく甘い。むせかえる人間のにおい。人間の業のにおい。その甘さが、拳となってアーサーの胸を何度も打ち付ける。息が次第に浅くなる。肺の抵抗感が高まっていく。
オレンジに暖かく光る照明の下、単行本ほどの大きさの黒いエナメルバッグがつるりとした光沢を浮かべ、放り出された腕に巻き付く時計は豪奢なダイヤモンドの輝きを嫌みなほど主張する。丁寧に扱わなかったのだろう、麻生地の細長い布袋に入ったワインの瓶が何本か割れて、その液体が黒々と玄関のカーペットを汚していた。
離れていてもわかるその甘ったるいにおいに、アーサーはかすかに眉をひそめる。ただのワインではないとわかったからだ。彼女が寂しくて泣いているときにすがるもののにおいがした。高くて、よくない混ぜもの。人の手を経て作られ人を壊す、人工的な――ひどく人間くさいにおい。
玄関で黒いドレスと真珠を輝かせながら眠るロングヘアの美女をどうにかしなくちゃいけないと、アーサーは思った。彼女を自室へ連れて行き、カーペットを拭いて洗ってドライヤで乾かし、それからまだ割れていないワインの瓶を壊して、持って帰ってきたときにすべて割れていたかのように見せかけなくちゃいけないと考えた。いつもの通り。
それにしても、ここまで正体をなくしてよく家に戻ってこられたものだと、アーサーは思う。誰かに送ってもらっている訳でもないのだろうに、毎度不思議に思っていることだ。ここには彼女が楽しくなるようなものは、なにもないはずなんだけどな。
「お母さんって、大変だ」
はく息にのせて細くそうつぶやくと、アーサーは残りの三段をとっとっとっ、とリズミカルに下り、彼女のそばに近づいた。
細長い麻袋の取っ手をぎゅっと握りしめたまま眠る拳を、まるで赤子をいたわるような優しさでゆるやかにほどいて、アーサーは麻袋を取り上げた。袋の口を開いて中を覗けば、二本の割れた瓶の破片と、無事だった一本が斜めに倒れているのが見えた。
アーサーが袋を持ち上げると、割れた瓶に残っていた液がぼたぼたと溢れ、甘ったるいにおいがこみ上げる。胸を圧迫されるような、呼吸するのにひどく抵抗を感じるような気分に陥った。今回のは揮発性があるらしい。
アーサーは、麻袋を左手に提げて玄関のドアを細く押し開いた。胸の苦しさを追い出す春の風が吹き込んで、室内の停滞した香りを吹き飛ばす。アーサーは玄関のドアに手を当てたまま、後ろを振り返った。彼女は夜の空気に一瞬身じろいだが、眠りは深いようだった。
音を立てないように、玄関のドアの取っ手を丁寧に操作する。麻袋を持って夜の庭へ出た。空には満月に3日ほど足りない明るい月と、それを取り巻く星が空気の層を通して、呼吸をするように瞬いていた。
首都から離れた郊外の広い土地で、周りに人がいないと分かっていても やはり大声を上げるにははばかられる優しい夜の空気だった。アーサーは微笑を浮かべながら、小さくスカボロー・フェアのメロディを鼻歌に乗せて、代々の住人が踏み固めてきた庭園への道をゆく。瓶を割る音が聞こえないくらいの遠くへ行かねばならなかった。3分足らずの道程。
庭園の入り口からは、黒に塗りつぶされるでもなく、かといってダイヤモンドのようにギラギラと周りを圧倒する光でもなく、闇と寄り添うような、鈍く多彩な色が見えた。
月の光がじんわりと庭園の輪郭を映し出す。幾重にも葡萄の房のように垂れ下がった葉や花が月影を濃くする藤棚。ほとんど闇に沈みながらも、月の光を受けてかすかに赤や白を映し出すイングリッシュローズの花弁。
アーサーは、庭園の入り口脇にある、いつもは腰掛けに使っている大きな岩に左手を置いて滑らせるように撫でた。ここらでは余りお目にかかれない、水に削られて丸くなった艶のある石。きっと何十年か何百年か前に、誰かがわざわざここまで持ってきたのだろう。
アーサーは、割れていない一本のワインの首を、麻袋に包んだまま右手で持ち、軽く勢いをつけて、瓶の腹を腰掛け石に叩きつけた。
銃声にも似た軽い、はじける音。
麻袋が溢れた液で膨らみ、繊維の間から黒く甘い液体を吐き出した。
「・・・悪りィ、夜中に空気悪くして。今はあんまり近づかないほうがいいぞ」
アーサーは、そうひとりごちて、麻袋を自分の目線の高さまで持ち上げた。
麻袋の中身はすっかり抜けきって、袋を振れば気まぐれにぽたりと黒を零すばかりになっていた。アーサーは庭園からきびすを返し、自宅の玄関へ向かった。
帰りも、アーサーは踏み固まった土の道をゆく。空を見上げると、月に霞のような薄い雲がかかっているところだった。ふと、東洋の伝説を思い出して、あの雲はなんの味がするか考えたら笑えてきた。ビネガーと塩味だってさ。我ながらおかしいや、確かにフィッシュアンドチップスは好物だけど。
硝子の欠片が詰まった麻袋を玄関先に置くと、ドアを開いて室内のぼんやりとした明かりを踏みしめる。
閉塞した、甘ったるい残り香。未だに汚れたカーペットの隣で眠る彼女を部屋へ連れて行こうと近づいてみれば、喉をやられそうな強い煙草のにおいもした。
「起きて 母さん。ここじゃ風邪引くよ」
アーサーは、蝶の羽に触れるときのように 軽く優しく彼女の肩を叩く。う・・・と呻くだけで目を開かない彼女を、目を細めて見遣る。
アーサーは天井を振り仰いだ。暗闇の中に、暖かい光。自分には見える、友人達の居場所だ。
それと言葉が降ってくる。良くない言葉。
気持ちは分かるよ、でも、とアーサーは密やかにつぶやいた。
「・・・お母さんを悪く言わないで」
アーサーは、何かを堪えるように潤んだ瞳をきつく細めて、哀しげな小声でささやく。
「なあ、お願いだ。仕方ないんだよ、かわいそうなんだ」
確かにこの人は賢くない。ああそうだ。警察が許さない生き方をしている。でも、賢くなれない気持ちも分かるんだ。自分で自分を痛めつけなきゃ、息が出来なくなる気持ちが分かるんだ。だって自分が居ることが、息をしにくくしているんだもの。
呼吸をするたびに、肺がきしむ。酸素が粘る。心臓が鼓動を打つたびに体のどこかが捻れていく。そのひどく不自由で痛い感覚が俺にも分かるから。
「みんな」
「――ねえ、誰とお話しているのかしら?アーサー」
その瞬間思ったことは
あっ、と息をのむ思いだけ。
でも、その一呼吸には、万感の後悔が詰まっていて、次に呼吸をしたときには じわり、と自然に涙が湧いていた。
彼女は、上半身だけを起こすと、アーサーの首に両手を巻き付けて笑った。座って?、とアーサーに微笑みながらささやくと、アーサーは顔を伏せながらその場で体育座りになる。顔を伏せながら、右腕に涙のあとを押しつけて拭いた。
「ねえ、アーサー。私の荷物はどこ?」
「・・・外。ぜんぶ、割れてたから外に出した」
「そうなの。うふふ、ありがとう。アーサーは優しいね」
彼女はアーサーの頭を優しく撫でた。
彼女のはく息はひどく甘い。むせかえる人間のにおい。人間の業のにおい。その甘さが、拳となってアーサーの胸を何度も打ち付ける。息が次第に浅くなる。肺の抵抗感が高まっていく。
作品名:チェンジリング - 2 作家名:速水湯子