宵霧草子
今は昔、渡辺綱や坂田金時といった源頼光四天王と呼ばれる猛者共が茨城童子や酒呑童子を筆頭とする鬼共と苛烈な死闘を繰り広げていた頃。その影に隠れるようにして、ひとつの噂が京の都を騒がせていた。
「また、出たんだとよ」
「またかい?あんたホラを吹いてんじゃないだろうね」
「そんなわけ有るか!奴ぁ、本物だ。己れも一度見たが、あれはこの世のモンじゃねぇ。」
「ハンッ!『宵霧の稚児』なんて只の出任せだろうに、嗚呼、これだから肝っ玉の小さい奴は・・・」
街行く、年若い男女の話す声が耳に入る。
最近は、こんな話ばかりだ。『霧野の御稚児』『蜉蝣童子』『霧の童』など、呼び方は様々だがそれの指しているものは一つだ。この、都を出て、東の方へ13町ほど歩くと深い谷がある。そこは、湿気がひどく明け方や宵の口になると霧がもうもうと立ち込めるのだが、近頃そこで宵霧と共に五つばかりの幼い童子が出るらしい。しかも、向こうが声をかけるまで此方からその者の姿は疎か気配すら感じ取ることも叶わぬというのだから奇っ怪な話だ。
と、赤司大臣(あかしのおとど)は思った。
しかし、その話には続きがある。実は、この童子に声を掛けられたものは谷の中へ吸い込まれるように落ちてしまうのだそうだ。と、も言われているらしいが先程の男の話が正しいなら必ず死ぬというわけではないのだろう。
「なるほど、少し興味がわいた。」
その正体を調べるのも悪くはないだろう。
それから、三日後のこと。
赤司大臣は紫原敦という自分の従兄弟の中納言を呼びつけ、「『蜉蝣童子』の正体を調べてこい。」と命じた。大臣の方が、位が上だから中納言に用を頼むのは大したことではないが、只の噂話を調べるだけならば卑官(ひかん)の下男・下女を遣えば良いだろうに・・・なぜ貴族であるところの自分が行かなくてはならないのか、と紫原中納言(むらさきばらのちゅうなごん)も問うには問うた。が、例によって赤司大臣の笑み――そう、邪気のない幼子のような表情に、香や焚物の如く纏わりつくような威圧感を孕んでいた――を向けられたが最後、中納言は首を縦に振るうしかなかった。
「はぁ、めんどいな~」
中納言はあまりの退屈さに、愚痴をこぼした。
巳の刻を過ぎた辺り、人気のない谷にはもう霧が出ていてもちろんのこと寒い。そのことがしょうもない苛つきに拍車を掛けている。
大体、中納言は本来の執務も、こういった調べ事も嫌いなのだ。ただ、ぼうっと菓子を貪っている間が唯一の至福で、それ以外に興味などない。今日だって、大臣からの私的な依頼さえなければ片付いた政(まつりごと)を気にせずに、久しぶりに甘味屋をめぐっていたはずなのだ。
そして、その苛つきは、自然、事の元凶たる妖ものへ向く。
「なんでも良いからさっさと出てきて来れないかなぁ。」
そうすれば、自分はさっさと帰れるのだ。
中納言には武道の心得や嗜みはなく、また護身用の刀の類も携えてはいなかったが、そのあまりに巨大な身の丈とそれに釣り合う力もあり、腕っ節には自信があった。ましてや、相手は妖とはいえ童子や稚児――つまりまだ幼い容姿――故に、中納言はこれから遭遇するものに恐れなど一切抱いてはいなかった。
と、中納言が待ちくたびれた頃だった。周囲に漂っていた霧が一箇所に集いだし小さな人の形をとり始めた。これには、中納言も目を瞠り、見ていることしかできない。それはふわふわとした綿雪を固めるのと同じくらいの時間を要して幼子(おさなご)の姿になった。
しかも、ただの幼子ではない。白地の着物は袖に淡い青のかすりがった模様が施され、その袂には銀(しろがね)の小さな鈴が幾つか括りつけられている。目が醒めるほど鮮やかな藍色の袴は引き摺るほどに長い。なぜか色素の淡く短い髪には、髪飾りが止めてあった。それも幼子の纏っているもの同様に見事な意匠である。白と銀の紐を花の形に結い、中心に鈴を付け、残りの長い部分はは垂れ下げられている。
と、その子が瞼を震わせて、ゆっくりと目を開いた。澄んだ水面のような淡い色だった。そして、その袂から扇子を取り出し、色の薄い唇を被ってから言葉を紡ぐ。
「もし、君もボクを恐れる者ですか?」
凛とした不思議な響きだった。そして、とこか寂し気なその声に合わせるように鈴がシャランと鳴る。
しかし、中納言は我に帰り、応え(いらえ)た。
「否。」
すると、幼子はあどけない仕草で小首を傾げ(かしげ)て、再び問う。
「では、捕らえに?」
「否。俺は、従兄弟の赤司大臣の命でお前を調べに参った。」
中納言は、自分の姿を見ても物怖じしない幼子を少し気味悪く思いつつ、威圧するような口調で応える。
「調べに、ですか。」
と、幼子はその童顔にあまり似つかわしくないシワを寄せ困った顔をした。
だが、そんなことはお構いなしに中納言は懐から懐紙と別の懐紙に包まれた筆を取り出し、いつでも大臣に伝えるべきことを書けるように構える。
「先ず(まず)、何故この谷に住む?」
「わかりません」
「元の名は何と?」
「わかりません」
わからないことだらけか、しかし、さすがに次の質問には答えられるだろう。
「何故、人を殺す?」
「殺してなんかいない!ボクは、ただ、声を掛けただけだ!」
憤ったように、幼子が叫ぶ。だが、いくら容姿が整っていようと所詮は妖。人間と相入れる訳がない、と中納言は切り捨てる。
「どうだか。」
「本当です。本当なんです。ここは、とても寂しい。だから、ボクは少しでも人と話がしたかった。けど、皆ボクを見て『化け物』って、叫んで、この霧の中で足を踏み外して谷底へ落ちてしまうんです。」
相手が嘘を言っているようには見えない上、それも十分に有り得る話なので判別がつかない。それに何より、この妖はどうも、人間くさい。
「貴なる君、お願いします。ボクは只、人に近付きたかっただけで、危害を加えるつもりはなかったんです。」
「貴なる君?」
「えぇ、そうです。だって、紫は高貴な身分しか許されないという忌み色でしょう?」
「そうだけど、俺のこの髪や目は生まれた時からだし」
あまりに、純粋そうな様子に毒気を抜かれてしまい中納言は口調が元に戻ってしまう。
「・・・そうでしたか。」
ああ、調子が狂う。妖って周りが言うから、もっと不吉でおどろおどろしいのを想像していたのに。と、しゅんと項垂れる相手を見やりつつ中納言は思う。これじゃぁ、赤ちんと会う前の自分のようだ。
そして、しばし考え中納言は冠が乱れるのも気にせず、頭をガシガシとかき回す。それが済むと、彼は冠を被り直して何かを吹っ切った様な笑みを先程まで邪険にしていた幼子に向ける。
「めんどいし、もう、いーや。」
「えっ?」
きょとんとする幼子を両の腕で大切そうに抱えると、中納言は言い放った。
「今から、大臣の家に行くから。」
「は、い?なっ、何故ですか!や、やめてください。ボクのような妖がそのようなところへ入ったら、狩られてしまいますっ」
「んー?だからさぁ、実際に見て、俺が大丈夫だったって様子を見れば分かってくれるんじゃないかな?」
「そんな、てきとうな。」
「それに、赤ちんって綺麗なもの好きだし。」
「えっ!?」
「また、出たんだとよ」
「またかい?あんたホラを吹いてんじゃないだろうね」
「そんなわけ有るか!奴ぁ、本物だ。己れも一度見たが、あれはこの世のモンじゃねぇ。」
「ハンッ!『宵霧の稚児』なんて只の出任せだろうに、嗚呼、これだから肝っ玉の小さい奴は・・・」
街行く、年若い男女の話す声が耳に入る。
最近は、こんな話ばかりだ。『霧野の御稚児』『蜉蝣童子』『霧の童』など、呼び方は様々だがそれの指しているものは一つだ。この、都を出て、東の方へ13町ほど歩くと深い谷がある。そこは、湿気がひどく明け方や宵の口になると霧がもうもうと立ち込めるのだが、近頃そこで宵霧と共に五つばかりの幼い童子が出るらしい。しかも、向こうが声をかけるまで此方からその者の姿は疎か気配すら感じ取ることも叶わぬというのだから奇っ怪な話だ。
と、赤司大臣(あかしのおとど)は思った。
しかし、その話には続きがある。実は、この童子に声を掛けられたものは谷の中へ吸い込まれるように落ちてしまうのだそうだ。と、も言われているらしいが先程の男の話が正しいなら必ず死ぬというわけではないのだろう。
「なるほど、少し興味がわいた。」
その正体を調べるのも悪くはないだろう。
それから、三日後のこと。
赤司大臣は紫原敦という自分の従兄弟の中納言を呼びつけ、「『蜉蝣童子』の正体を調べてこい。」と命じた。大臣の方が、位が上だから中納言に用を頼むのは大したことではないが、只の噂話を調べるだけならば卑官(ひかん)の下男・下女を遣えば良いだろうに・・・なぜ貴族であるところの自分が行かなくてはならないのか、と紫原中納言(むらさきばらのちゅうなごん)も問うには問うた。が、例によって赤司大臣の笑み――そう、邪気のない幼子のような表情に、香や焚物の如く纏わりつくような威圧感を孕んでいた――を向けられたが最後、中納言は首を縦に振るうしかなかった。
「はぁ、めんどいな~」
中納言はあまりの退屈さに、愚痴をこぼした。
巳の刻を過ぎた辺り、人気のない谷にはもう霧が出ていてもちろんのこと寒い。そのことがしょうもない苛つきに拍車を掛けている。
大体、中納言は本来の執務も、こういった調べ事も嫌いなのだ。ただ、ぼうっと菓子を貪っている間が唯一の至福で、それ以外に興味などない。今日だって、大臣からの私的な依頼さえなければ片付いた政(まつりごと)を気にせずに、久しぶりに甘味屋をめぐっていたはずなのだ。
そして、その苛つきは、自然、事の元凶たる妖ものへ向く。
「なんでも良いからさっさと出てきて来れないかなぁ。」
そうすれば、自分はさっさと帰れるのだ。
中納言には武道の心得や嗜みはなく、また護身用の刀の類も携えてはいなかったが、そのあまりに巨大な身の丈とそれに釣り合う力もあり、腕っ節には自信があった。ましてや、相手は妖とはいえ童子や稚児――つまりまだ幼い容姿――故に、中納言はこれから遭遇するものに恐れなど一切抱いてはいなかった。
と、中納言が待ちくたびれた頃だった。周囲に漂っていた霧が一箇所に集いだし小さな人の形をとり始めた。これには、中納言も目を瞠り、見ていることしかできない。それはふわふわとした綿雪を固めるのと同じくらいの時間を要して幼子(おさなご)の姿になった。
しかも、ただの幼子ではない。白地の着物は袖に淡い青のかすりがった模様が施され、その袂には銀(しろがね)の小さな鈴が幾つか括りつけられている。目が醒めるほど鮮やかな藍色の袴は引き摺るほどに長い。なぜか色素の淡く短い髪には、髪飾りが止めてあった。それも幼子の纏っているもの同様に見事な意匠である。白と銀の紐を花の形に結い、中心に鈴を付け、残りの長い部分はは垂れ下げられている。
と、その子が瞼を震わせて、ゆっくりと目を開いた。澄んだ水面のような淡い色だった。そして、その袂から扇子を取り出し、色の薄い唇を被ってから言葉を紡ぐ。
「もし、君もボクを恐れる者ですか?」
凛とした不思議な響きだった。そして、とこか寂し気なその声に合わせるように鈴がシャランと鳴る。
しかし、中納言は我に帰り、応え(いらえ)た。
「否。」
すると、幼子はあどけない仕草で小首を傾げ(かしげ)て、再び問う。
「では、捕らえに?」
「否。俺は、従兄弟の赤司大臣の命でお前を調べに参った。」
中納言は、自分の姿を見ても物怖じしない幼子を少し気味悪く思いつつ、威圧するような口調で応える。
「調べに、ですか。」
と、幼子はその童顔にあまり似つかわしくないシワを寄せ困った顔をした。
だが、そんなことはお構いなしに中納言は懐から懐紙と別の懐紙に包まれた筆を取り出し、いつでも大臣に伝えるべきことを書けるように構える。
「先ず(まず)、何故この谷に住む?」
「わかりません」
「元の名は何と?」
「わかりません」
わからないことだらけか、しかし、さすがに次の質問には答えられるだろう。
「何故、人を殺す?」
「殺してなんかいない!ボクは、ただ、声を掛けただけだ!」
憤ったように、幼子が叫ぶ。だが、いくら容姿が整っていようと所詮は妖。人間と相入れる訳がない、と中納言は切り捨てる。
「どうだか。」
「本当です。本当なんです。ここは、とても寂しい。だから、ボクは少しでも人と話がしたかった。けど、皆ボクを見て『化け物』って、叫んで、この霧の中で足を踏み外して谷底へ落ちてしまうんです。」
相手が嘘を言っているようには見えない上、それも十分に有り得る話なので判別がつかない。それに何より、この妖はどうも、人間くさい。
「貴なる君、お願いします。ボクは只、人に近付きたかっただけで、危害を加えるつもりはなかったんです。」
「貴なる君?」
「えぇ、そうです。だって、紫は高貴な身分しか許されないという忌み色でしょう?」
「そうだけど、俺のこの髪や目は生まれた時からだし」
あまりに、純粋そうな様子に毒気を抜かれてしまい中納言は口調が元に戻ってしまう。
「・・・そうでしたか。」
ああ、調子が狂う。妖って周りが言うから、もっと不吉でおどろおどろしいのを想像していたのに。と、しゅんと項垂れる相手を見やりつつ中納言は思う。これじゃぁ、赤ちんと会う前の自分のようだ。
そして、しばし考え中納言は冠が乱れるのも気にせず、頭をガシガシとかき回す。それが済むと、彼は冠を被り直して何かを吹っ切った様な笑みを先程まで邪険にしていた幼子に向ける。
「めんどいし、もう、いーや。」
「えっ?」
きょとんとする幼子を両の腕で大切そうに抱えると、中納言は言い放った。
「今から、大臣の家に行くから。」
「は、い?なっ、何故ですか!や、やめてください。ボクのような妖がそのようなところへ入ったら、狩られてしまいますっ」
「んー?だからさぁ、実際に見て、俺が大丈夫だったって様子を見れば分かってくれるんじゃないかな?」
「そんな、てきとうな。」
「それに、赤ちんって綺麗なもの好きだし。」
「えっ!?」