雨風食堂 Episode9
久しぶりの学校の空気は、何だかふわふわとしていて、少し気恥ずかしいような不思議な感覚だった。
変装してちゃっかり忍び込んできたハルやビアンキたちのおかげで昼休みは大騒ぎだったけれど、少し前までは当たり前でうんざりしていたような日常があったことを、初めて思い出した気分だった。
――――それに気づかせるために、今日は学校に行けなんて言ったのかな、リボーンのやつ。
いつも大切なことは口にして教えてくれないのが、あの家庭教師のやり方だ。いくら頭が悪いと言っても、そのくらいのことがわからないほど馬鹿ではない。
――――いつもそうだよな、お前は。
くすりと小さく笑い、綱吉はポケットに入れておいたお守りを、そっと取り出して掌にのせた。手作り感のあふれているところがいかにも京子らしくて、ひどく愛しい。そっと指でつまみあげて幸せを噛み締めるようにお守りを眺めていたら、からりと明るい声が出し抜けに響いた。
「おっ! それ、笹川たちが作ってくれたお守りだよな! 俺もさっき昼休みにもらったぜ〜」
「や…、山本! びっくりさせないでよ、もう!」
休み時間中のざわつく教室の中で、誰も周りは二人の遣り取りになど注意を払っている様子はなかった。これ幸いと綱吉の前にあった空席に勝手に座って、山本はにこにこと笑ってこちらを覗き込んできた。
「わりーな。お前が鼻の下伸ばしてデレ―ってしてっから、ついからかいたくなってさ」
「ええっ!? 別に、は……鼻の下とか伸ばしてないしっ!」
「ハハハハ、冗談だって! おもしれーなー、ツナ」
顔を真っ赤にして動揺した自分を見て一人で大笑いする山本に、何だか一気に脱力してしまった綱吉は、がくりと机の上に突っ伏した。
「あのねぇ、山本……。この状況で疲れる冗談はやめてよ……」
すると、さすがに悪かったと思ったのか、山本は拝むように両手を顔の前で勢いよく合わせた。
「悪かったよ、ツナ。鼻の下伸ばしてたってのは冗談だけどさ、お守り見てるお前が、あんまり嬉しそうな顔してたもんで、つい。……怒ったか?」
そうやって小首を傾げてみせても、顔が笑っているので本気で謝る気があるのか疑わしい。でも、それも全部、綱吉が怒ってなどいないとわかっているからなのだろう。
山本は鈍感で相手のことなどお構いなしにどんどん踏み込んでいくようなタイプに見られがちだが、決してそんなことはないのだ。どういうタイミングで何をしたら相手を傷つけるのか、わかりやすく言うなら、その人物の地雷の場所を本能的に察知することに長けているのだ。
それに加えて、生来のポジティブ思考と明るさで、見ているだけでも何となく楽しい気分になれる。だから山本の周りには、いつでもたくさんの人であふれているのだ。
それを羨ましいと思うことが一度もなかったわけではない。でも、妬むというほどの強い気持さえ以前の自分にはなくて、どうせ手が届くことのない世界の話だと、最初から決めつけていた。
――――あきらめることだけは、昔から得意だったんだ。
もちろん、そんなものは何の役にも立ちはしない。始める前から、どうせできやしないと、色んなものをあきらめてきた。そうやって自分が捨ててきた可能性を、今ならもう少し拾い上げることができるだろうか、と思う。
――――今の俺には、あきらめられないものがたくさんある。
大切なひとたちを守りたい。仲間たちが傷つくのはもう見たくない。この平和な日常を壊したくない。そんなに大それたものではない。ただ、自分の手が届く限りの小さな幸せを失いたくないだけなのだ。
「ねぇ、山本………」
お守りをのせた自分の掌を見つめながら、綱吉は山本の名前を呼んだ。山本はやさしく微笑んで首を傾げる。
「ん?」
いつだってこうして、呼べば届く場所に山本がいてくれることで、自分はどれだけ救われているのだろうかと怖くなることがある。
「山本は、いきなりあんなリングを押し付けられて、ボンゴレだとか守護者だとか言われて、一方的にわけの分からない戦いに巻き込まれて、嫌じゃなかった? その……、俺に気を遣うことなんてないんだよ。本当に、山本の思っていることを、教えてほしいんだ」
「ツナ………」
山本は思いつめた綱吉の様子に、声を失っているようだった。
雨の守護者戦で山本に背負わせたものの大きさを、絶対に忘れることはないだろうと綱吉は思う。自分だってもちろん望んでこんな戦いをしているわけではないけれど、山本は本来マフィアなんてものとはまるで無縁の場所に生きている人間なのだ。それを、自分の側にいたばかりに、巻き込んで、歪ませてしまった。
――――本当は謝って許されるようなことじゃないってわかってるけど。
今夜の戦いに勝利して、必ずまた平穏な毎日を取り戻して見せるという覚悟はもうできている。だが、勝利の先に今までのような平和が待っていたとしても、この戦いで起きたことまですべて洗い流すことはできない。やがて時の流れとともに癒える傷もあるけれど、決して消えることなく、その人を苛み続ける傷もあるのだ。
山本の答えを待つ間、綱吉の頭にはそんなことがぐるぐると堂々巡りを続けていた。掌のお守りをぎゅうっと握りしめて、綱吉は無意識のうちに少しずつ俯いていった。
「おい、ツナ! 顔を上げろよ、ホラ!」
「え……っ、うわっ!」
突然ばちりと両頬を掌で挟まれて、ぐいっと強引に顔を上げさせられた。目の前にはまっすぐにこちらを見つめる山本の笑顔があって、それを見ただけで、ふっと心が軽くなったのがわかった。
「ツナ。お前、あんまり俺を見くびんなよ。この期に及んで嫌々付き合ってると思われてるんだとしたら、ちょっとショックだぜ。あのリングだって、俺が自分で望んで受け取ったんだ。それはツナだって覚えてるだろ?」
「それは………、そうだけど」
「勘違いすんなよ、ツナ。これは俺が選んで、俺が背負うもんだ。お前が抱え込むものじゃないんだぜ。だから、そんな風に怖い顔しないで、もっと頼れよ。最近のお前、すげー頑張ってるしさ。ちょっとくらい誰かに甘えたってバチは当たんねーと思うぜ?」
にぃっと笑って、山本は綱吉の顔を挟んでいた両手をパッと離して、まるで手品師が種も仕掛けもないことを強調するみたいに、ひらひらと振って見せた。
甘えるなんて、あきらめるのと同じくらい得意分野だったなと思い、何故だか笑えてきた。まさか他人に、もっと甘えろなんて言われる日が来るとは思っていなかった。
――――もっとしっかりしろ、甘えるな、ってのはよく言われたけどね。
そうやって怒られていた頃と今で、何かが劇的に変わったとは思えない。相変わらず臆病だし、自信なんてこれっぽっちもない。けれど、以前なら逃げ出すことしかできなかった自分が、今はXANXUSとの戦いまであとわずかであることに、怯える気持ちもなく冷静でいられる。
これまでの戦いの中で、仲間も、敵も、たくさんの者が血を流した。
――――終わらせなくちゃいけない。
そしてそれができるのは自分だけなのだ。
「俺……、ちゃんと頑張れてるのかな」
ぽつりとそんなことを呟くと、山本は少し驚いたように大袈裟に笑って、豪快に綱吉の肩を叩いた。
変装してちゃっかり忍び込んできたハルやビアンキたちのおかげで昼休みは大騒ぎだったけれど、少し前までは当たり前でうんざりしていたような日常があったことを、初めて思い出した気分だった。
――――それに気づかせるために、今日は学校に行けなんて言ったのかな、リボーンのやつ。
いつも大切なことは口にして教えてくれないのが、あの家庭教師のやり方だ。いくら頭が悪いと言っても、そのくらいのことがわからないほど馬鹿ではない。
――――いつもそうだよな、お前は。
くすりと小さく笑い、綱吉はポケットに入れておいたお守りを、そっと取り出して掌にのせた。手作り感のあふれているところがいかにも京子らしくて、ひどく愛しい。そっと指でつまみあげて幸せを噛み締めるようにお守りを眺めていたら、からりと明るい声が出し抜けに響いた。
「おっ! それ、笹川たちが作ってくれたお守りだよな! 俺もさっき昼休みにもらったぜ〜」
「や…、山本! びっくりさせないでよ、もう!」
休み時間中のざわつく教室の中で、誰も周りは二人の遣り取りになど注意を払っている様子はなかった。これ幸いと綱吉の前にあった空席に勝手に座って、山本はにこにこと笑ってこちらを覗き込んできた。
「わりーな。お前が鼻の下伸ばしてデレ―ってしてっから、ついからかいたくなってさ」
「ええっ!? 別に、は……鼻の下とか伸ばしてないしっ!」
「ハハハハ、冗談だって! おもしれーなー、ツナ」
顔を真っ赤にして動揺した自分を見て一人で大笑いする山本に、何だか一気に脱力してしまった綱吉は、がくりと机の上に突っ伏した。
「あのねぇ、山本……。この状況で疲れる冗談はやめてよ……」
すると、さすがに悪かったと思ったのか、山本は拝むように両手を顔の前で勢いよく合わせた。
「悪かったよ、ツナ。鼻の下伸ばしてたってのは冗談だけどさ、お守り見てるお前が、あんまり嬉しそうな顔してたもんで、つい。……怒ったか?」
そうやって小首を傾げてみせても、顔が笑っているので本気で謝る気があるのか疑わしい。でも、それも全部、綱吉が怒ってなどいないとわかっているからなのだろう。
山本は鈍感で相手のことなどお構いなしにどんどん踏み込んでいくようなタイプに見られがちだが、決してそんなことはないのだ。どういうタイミングで何をしたら相手を傷つけるのか、わかりやすく言うなら、その人物の地雷の場所を本能的に察知することに長けているのだ。
それに加えて、生来のポジティブ思考と明るさで、見ているだけでも何となく楽しい気分になれる。だから山本の周りには、いつでもたくさんの人であふれているのだ。
それを羨ましいと思うことが一度もなかったわけではない。でも、妬むというほどの強い気持さえ以前の自分にはなくて、どうせ手が届くことのない世界の話だと、最初から決めつけていた。
――――あきらめることだけは、昔から得意だったんだ。
もちろん、そんなものは何の役にも立ちはしない。始める前から、どうせできやしないと、色んなものをあきらめてきた。そうやって自分が捨ててきた可能性を、今ならもう少し拾い上げることができるだろうか、と思う。
――――今の俺には、あきらめられないものがたくさんある。
大切なひとたちを守りたい。仲間たちが傷つくのはもう見たくない。この平和な日常を壊したくない。そんなに大それたものではない。ただ、自分の手が届く限りの小さな幸せを失いたくないだけなのだ。
「ねぇ、山本………」
お守りをのせた自分の掌を見つめながら、綱吉は山本の名前を呼んだ。山本はやさしく微笑んで首を傾げる。
「ん?」
いつだってこうして、呼べば届く場所に山本がいてくれることで、自分はどれだけ救われているのだろうかと怖くなることがある。
「山本は、いきなりあんなリングを押し付けられて、ボンゴレだとか守護者だとか言われて、一方的にわけの分からない戦いに巻き込まれて、嫌じゃなかった? その……、俺に気を遣うことなんてないんだよ。本当に、山本の思っていることを、教えてほしいんだ」
「ツナ………」
山本は思いつめた綱吉の様子に、声を失っているようだった。
雨の守護者戦で山本に背負わせたものの大きさを、絶対に忘れることはないだろうと綱吉は思う。自分だってもちろん望んでこんな戦いをしているわけではないけれど、山本は本来マフィアなんてものとはまるで無縁の場所に生きている人間なのだ。それを、自分の側にいたばかりに、巻き込んで、歪ませてしまった。
――――本当は謝って許されるようなことじゃないってわかってるけど。
今夜の戦いに勝利して、必ずまた平穏な毎日を取り戻して見せるという覚悟はもうできている。だが、勝利の先に今までのような平和が待っていたとしても、この戦いで起きたことまですべて洗い流すことはできない。やがて時の流れとともに癒える傷もあるけれど、決して消えることなく、その人を苛み続ける傷もあるのだ。
山本の答えを待つ間、綱吉の頭にはそんなことがぐるぐると堂々巡りを続けていた。掌のお守りをぎゅうっと握りしめて、綱吉は無意識のうちに少しずつ俯いていった。
「おい、ツナ! 顔を上げろよ、ホラ!」
「え……っ、うわっ!」
突然ばちりと両頬を掌で挟まれて、ぐいっと強引に顔を上げさせられた。目の前にはまっすぐにこちらを見つめる山本の笑顔があって、それを見ただけで、ふっと心が軽くなったのがわかった。
「ツナ。お前、あんまり俺を見くびんなよ。この期に及んで嫌々付き合ってると思われてるんだとしたら、ちょっとショックだぜ。あのリングだって、俺が自分で望んで受け取ったんだ。それはツナだって覚えてるだろ?」
「それは………、そうだけど」
「勘違いすんなよ、ツナ。これは俺が選んで、俺が背負うもんだ。お前が抱え込むものじゃないんだぜ。だから、そんな風に怖い顔しないで、もっと頼れよ。最近のお前、すげー頑張ってるしさ。ちょっとくらい誰かに甘えたってバチは当たんねーと思うぜ?」
にぃっと笑って、山本は綱吉の顔を挟んでいた両手をパッと離して、まるで手品師が種も仕掛けもないことを強調するみたいに、ひらひらと振って見せた。
甘えるなんて、あきらめるのと同じくらい得意分野だったなと思い、何故だか笑えてきた。まさか他人に、もっと甘えろなんて言われる日が来るとは思っていなかった。
――――もっとしっかりしろ、甘えるな、ってのはよく言われたけどね。
そうやって怒られていた頃と今で、何かが劇的に変わったとは思えない。相変わらず臆病だし、自信なんてこれっぽっちもない。けれど、以前なら逃げ出すことしかできなかった自分が、今はXANXUSとの戦いまであとわずかであることに、怯える気持ちもなく冷静でいられる。
これまでの戦いの中で、仲間も、敵も、たくさんの者が血を流した。
――――終わらせなくちゃいけない。
そしてそれができるのは自分だけなのだ。
「俺……、ちゃんと頑張れてるのかな」
ぽつりとそんなことを呟くと、山本は少し驚いたように大袈裟に笑って、豪快に綱吉の肩を叩いた。
作品名:雨風食堂 Episode9 作家名:あらた