疼くくらいなら知りたくもなかった -1-
疼くくらいなら知りたくもなかった -1-
大学二年生の頃から同棲生活を始めた。相手は経済学科に所属している同年の男子。僕は理学の生物系に属しているのだが、彼とはサークルが同じで知り合った。
中学生の頃からサックスが好きでジャズ系の研究会に入ってみると、そこは様々な人種が入り混じっていた。ただ仲間が欲しくて入って来た人、僕のように音楽がやりたいと思って入って来た人、音楽は好きだがどちらかと言えば自分の能力を誇示する為に入って来た人。大学って面白いな、と感想を抱いた。医学部以外の学科が一つのキャンパスに集結しているこの大学は、それはもう大勢の人間と出会う。それでも縁がある人は限られて、僕にとっての縁の中に彼は入り込んできた。
人見知りが激しい僕はなかなかそのサークルでも孤立しかけていた。人と話すのは苦手だ。やっぱり。何を言われるか分かったもんじゃない。嫌なことを言われたくない。傷つきたくない。自分が他人から得られる評価が良いものではないことは、自分が一番良く分かっている。それでもサックスを捨て切れなかったから、ここに来たのだけれど。明らかに僕の苦手な人間には到底、目を合わせることすら不可能だった。
彼は、僕の苦手なタイプだった。髪を染め、ピアスも空けて、訳の分からないアクセサリーを付けて。雑誌なんかに載っていそうなファッションを着こなす。しかし人当たりは非常に良かった。だからか顔はとてつもなく広い。入学した歳も同じだったはずなのに、あっという間に彼の携帯の連絡先は大学関係者で二百件を越えていたらしい。僕が一人隅っこでサックスの手入れをしていた時、反対にわいわいと会話しているメンバーの口から聞こえてきた。それだけの連絡先を得て一体どうするんだろう、と呆然としてしまう。僕の携帯なんて家族か地元で親しい友達かで、三十件にも満たなかった。
どうしてそんな僕と彼が交流を持ったのかと言えば、大学に入学してサークルにも入り半年が経った、夏休み期間中のある日の飲み会が原因だった。男女比がほぼ等しい僕のサークルでは、普通の飲み会も女子会や男子会なんてものもザラに開かれる。そういった場があまり得意ではない僕は、参加率としてはかなり低かったのだが、その飲み会の会場がとあるバーで、演奏しながら酒を飲もうという企画的なものだったから、非常に興味が湧いた。彼が立案者だった。
小さいバーだったからか、思ったよりも格安で貸切にすることが出来て、皆で楽器を持ち込んでローテーションに演奏する。おそらくバーでは日常的にジャズ演奏が開かれているのか、舞台設備はしっかり整っていた。普段、あまり互いに聞き合うようなことをしていなかったものだから、それぞれの演奏を聞きながら様々な意見が飛んだ。案外上手いね、だとか、ちょっとうるさすぎる、だとか。それがまた新鮮で、僕は胸が高鳴るのを感じた。酒を飲んでふざけている連中もいたけれど、サークル仲間の演奏をちゃんと聞こうとする人はそういう空気を出してくれている。
特に誰かと組んで練習することもしていなかった僕は、ただ一人で舞台に上がる。サックスだけの演奏なんてプロなら聞き応えがあるのかもしれないけれど、とは思いつつも自分だけの音楽が空間を占めるのは悪い気がしない。日頃からほとんど交流なんてしていない人達の前で演奏するというのは緊張以外の何モノも生まないと思っていたのに。想像以上に僕は興奮していた。
もしかすれば僕の演奏なんて誰も聞いてくれないかもしれない、でも、目の前の人達の耳には届くはずだ。と思えばそれほど怖いことでは無かった。元々、評価なんて受けられるとは思っていない。僕の番なんてそもそも用意されるほど価値のあるものなのかすら分からない。それでも、与えられたモノがあるならば、最大限を尽くせば良い。照明の光が眩しかったけれど、まるで僕だけがその世界にいるようで。不思議な感覚だった。あぁ、舞台に立つとはこういうことか。スッとサックスをスタンバイする。
僕の演奏が始まると、まるでバーの空気が止まったような気がした。
えっ、と思って目の前を見ると、場に居る全員の顔がこちらを向いていた。ドッと汗が出る。何か、不味いことをしてしまっただろうか。それでも演奏を止めるわけにはいかない。さっきまでの自信が一気に崩れ落ちる気がした。やはり、人なんてそう簡単に変われるものじゃない。
どうにかテーマの部分を吹き終えて見せ場である即興部分へ入ろうとした時。もはや空間を埋める空気に耐え切れなくなろうとしていた。誰も喋らない。なんなんだ。バーにおけるジャズ音楽というものは言わばBGMだ。お客さんが集中して聞かなければならない大々的な演奏会とは訳が違う。皆が様々な話を繰り広げる、そこに添えられる花のようなものだ。店の雰囲気を作るための大切な要素。それが、今は全くない。
精神的な作用は演奏にも当然、影響する。何とか自分のスタイルを貫き通そうと心を持ち直そうとしたとき。
舞台に上がってくる人影があった。
「続けろ」
彼だ。
僕の指が止まろうとしたのを、どうやら見逃さなかったようで。命令されるように言われて、僕は必死に演奏を続ける。直後、後ろからドラムの音が聞こえてきた。驚いた。驚いたけれど、まるで背中を押されるような音に同時に、安堵した。
彼とは一切、練習なんてしたこともなかった。彼の音を聞いたことも、僕は無かった。日頃、あまり部室で会うことは無かった。おそらく生活リズムが違うんだろう、と思っていた。
それなのに、僕にとってその音はまるで、呼吸するのと同じくらい何の躊躇いもなく、僕の一部となっていくような気がした。心地よい。そう、心地よい。
初めてセッションしたとは思えない音で、僅か数分の演奏は終了した。瞬間、拍手が沸き上がる。意味が分からなかった。呆然としてしまう。ただ、汗だくになった僕はフラフラした足取りで振り返る。お礼を言わなければならない。こんな僕と共に演奏してくれた彼に対して。
「ありがとう」
頬を汗が伝う、疲労の浮かぶ顔で、それでも笑って言った。苦手なタイプの人間であろうと何だろうと、感謝することがあればちゃんとそれを伝えなければならない。
スティックを直してドラムの置かれた場所から退散しようとしていたようで、それでも彼はこちらを見ていた。その顔には笑みが浮かんでいる。
「それはこっちのセリフだ。思わず参戦しちまった」
一緒に舞台を下りれば多くのサークルメンバーに駆け寄られる。凄い良かった、と。ほとんどの人達に言われて、呆気に取られた。
ただ僕は、いつも通りに演奏しただけだ。だが良く考えると、一人で部室にいる時に練習していたし、誰かが来ればサックスの手入れをしていた。あまり、積極的にサークルの誰かに聞いてもらおうと思ったことは無かった。つまり彼らにとって僕の演奏は新鮮であったはず。もしかすれば僕に対して持っていたイメージが元々低くて、それなのに思ったよりも演奏が出来たことに対して評価を得たのかもしれない。
大学二年生の頃から同棲生活を始めた。相手は経済学科に所属している同年の男子。僕は理学の生物系に属しているのだが、彼とはサークルが同じで知り合った。
中学生の頃からサックスが好きでジャズ系の研究会に入ってみると、そこは様々な人種が入り混じっていた。ただ仲間が欲しくて入って来た人、僕のように音楽がやりたいと思って入って来た人、音楽は好きだがどちらかと言えば自分の能力を誇示する為に入って来た人。大学って面白いな、と感想を抱いた。医学部以外の学科が一つのキャンパスに集結しているこの大学は、それはもう大勢の人間と出会う。それでも縁がある人は限られて、僕にとっての縁の中に彼は入り込んできた。
人見知りが激しい僕はなかなかそのサークルでも孤立しかけていた。人と話すのは苦手だ。やっぱり。何を言われるか分かったもんじゃない。嫌なことを言われたくない。傷つきたくない。自分が他人から得られる評価が良いものではないことは、自分が一番良く分かっている。それでもサックスを捨て切れなかったから、ここに来たのだけれど。明らかに僕の苦手な人間には到底、目を合わせることすら不可能だった。
彼は、僕の苦手なタイプだった。髪を染め、ピアスも空けて、訳の分からないアクセサリーを付けて。雑誌なんかに載っていそうなファッションを着こなす。しかし人当たりは非常に良かった。だからか顔はとてつもなく広い。入学した歳も同じだったはずなのに、あっという間に彼の携帯の連絡先は大学関係者で二百件を越えていたらしい。僕が一人隅っこでサックスの手入れをしていた時、反対にわいわいと会話しているメンバーの口から聞こえてきた。それだけの連絡先を得て一体どうするんだろう、と呆然としてしまう。僕の携帯なんて家族か地元で親しい友達かで、三十件にも満たなかった。
どうしてそんな僕と彼が交流を持ったのかと言えば、大学に入学してサークルにも入り半年が経った、夏休み期間中のある日の飲み会が原因だった。男女比がほぼ等しい僕のサークルでは、普通の飲み会も女子会や男子会なんてものもザラに開かれる。そういった場があまり得意ではない僕は、参加率としてはかなり低かったのだが、その飲み会の会場がとあるバーで、演奏しながら酒を飲もうという企画的なものだったから、非常に興味が湧いた。彼が立案者だった。
小さいバーだったからか、思ったよりも格安で貸切にすることが出来て、皆で楽器を持ち込んでローテーションに演奏する。おそらくバーでは日常的にジャズ演奏が開かれているのか、舞台設備はしっかり整っていた。普段、あまり互いに聞き合うようなことをしていなかったものだから、それぞれの演奏を聞きながら様々な意見が飛んだ。案外上手いね、だとか、ちょっとうるさすぎる、だとか。それがまた新鮮で、僕は胸が高鳴るのを感じた。酒を飲んでふざけている連中もいたけれど、サークル仲間の演奏をちゃんと聞こうとする人はそういう空気を出してくれている。
特に誰かと組んで練習することもしていなかった僕は、ただ一人で舞台に上がる。サックスだけの演奏なんてプロなら聞き応えがあるのかもしれないけれど、とは思いつつも自分だけの音楽が空間を占めるのは悪い気がしない。日頃からほとんど交流なんてしていない人達の前で演奏するというのは緊張以外の何モノも生まないと思っていたのに。想像以上に僕は興奮していた。
もしかすれば僕の演奏なんて誰も聞いてくれないかもしれない、でも、目の前の人達の耳には届くはずだ。と思えばそれほど怖いことでは無かった。元々、評価なんて受けられるとは思っていない。僕の番なんてそもそも用意されるほど価値のあるものなのかすら分からない。それでも、与えられたモノがあるならば、最大限を尽くせば良い。照明の光が眩しかったけれど、まるで僕だけがその世界にいるようで。不思議な感覚だった。あぁ、舞台に立つとはこういうことか。スッとサックスをスタンバイする。
僕の演奏が始まると、まるでバーの空気が止まったような気がした。
えっ、と思って目の前を見ると、場に居る全員の顔がこちらを向いていた。ドッと汗が出る。何か、不味いことをしてしまっただろうか。それでも演奏を止めるわけにはいかない。さっきまでの自信が一気に崩れ落ちる気がした。やはり、人なんてそう簡単に変われるものじゃない。
どうにかテーマの部分を吹き終えて見せ場である即興部分へ入ろうとした時。もはや空間を埋める空気に耐え切れなくなろうとしていた。誰も喋らない。なんなんだ。バーにおけるジャズ音楽というものは言わばBGMだ。お客さんが集中して聞かなければならない大々的な演奏会とは訳が違う。皆が様々な話を繰り広げる、そこに添えられる花のようなものだ。店の雰囲気を作るための大切な要素。それが、今は全くない。
精神的な作用は演奏にも当然、影響する。何とか自分のスタイルを貫き通そうと心を持ち直そうとしたとき。
舞台に上がってくる人影があった。
「続けろ」
彼だ。
僕の指が止まろうとしたのを、どうやら見逃さなかったようで。命令されるように言われて、僕は必死に演奏を続ける。直後、後ろからドラムの音が聞こえてきた。驚いた。驚いたけれど、まるで背中を押されるような音に同時に、安堵した。
彼とは一切、練習なんてしたこともなかった。彼の音を聞いたことも、僕は無かった。日頃、あまり部室で会うことは無かった。おそらく生活リズムが違うんだろう、と思っていた。
それなのに、僕にとってその音はまるで、呼吸するのと同じくらい何の躊躇いもなく、僕の一部となっていくような気がした。心地よい。そう、心地よい。
初めてセッションしたとは思えない音で、僅か数分の演奏は終了した。瞬間、拍手が沸き上がる。意味が分からなかった。呆然としてしまう。ただ、汗だくになった僕はフラフラした足取りで振り返る。お礼を言わなければならない。こんな僕と共に演奏してくれた彼に対して。
「ありがとう」
頬を汗が伝う、疲労の浮かぶ顔で、それでも笑って言った。苦手なタイプの人間であろうと何だろうと、感謝することがあればちゃんとそれを伝えなければならない。
スティックを直してドラムの置かれた場所から退散しようとしていたようで、それでも彼はこちらを見ていた。その顔には笑みが浮かんでいる。
「それはこっちのセリフだ。思わず参戦しちまった」
一緒に舞台を下りれば多くのサークルメンバーに駆け寄られる。凄い良かった、と。ほとんどの人達に言われて、呆気に取られた。
ただ僕は、いつも通りに演奏しただけだ。だが良く考えると、一人で部室にいる時に練習していたし、誰かが来ればサックスの手入れをしていた。あまり、積極的にサークルの誰かに聞いてもらおうと思ったことは無かった。つまり彼らにとって僕の演奏は新鮮であったはず。もしかすれば僕に対して持っていたイメージが元々低くて、それなのに思ったよりも演奏が出来たことに対して評価を得たのかもしれない。
作品名:疼くくらいなら知りたくもなかった -1- 作家名:Cloe