悪い虫
燕はその日、やけに口数が多かったと思う。
一方で話の前後が微妙に繋がらない、支離滅裂なことを呟いていたり。
有体に言えば、まあ、様子がおかしかった。
赤べこが看板になって戸締りを済ませた店の者たちに笑顔でお辞儀をして別れてはいたが、彼らに背を向けた途端大きく息を吐く。
…これも普段の燕にはないことで。
妙たちにもう話し声が聞こえないだろうところまで歩いてきたところで、後ろを歩く少女―三条燕に彼―明神弥彦は声をかけた。
「お前、熱でもあるのか?」
「え?」
驚いたように弥彦をみつめた燕の顔色は別段悪くない。ただ、その目になんだか力がない。
「そんなことないと思うけど、私、どこか変だった?」
自覚がないのか燕は戸惑った口調で弥彦に問うてきた。
「おかしいと思うから聞いてるんだろ。熱は…」
「!」
弥彦が無造作に手を伸ばそうとすると、燕がさらに驚いたように身を引いた。
あからさまにそんな動きを取られてしまうと腕を伸ばした弥彦のほうも恥ずかしい。
弥彦は差し出しかけた腕をすっと下ろして歩を前に進めることにした。
「お前がなんでもないって言うなら別にいいけどよ。ホラさっさと歩け。夜風でホントに熱出すぞ。」
燕から顔を背けてしまった弥彦は気が付かなかった。
「はい。」
しおらしく返事をする燕が小さく微笑んでいたことに。
―明治十四年十一月のある日。
少年と少女の物語―。
あくる日は日曜日で赤べこは休みだ。
仕事を気にせず思う存分竹刀を振れる貴重な休日で、剣術の師の神谷薫をはじめ道場で修練する面々にも師範代としての指導をアテにされている貴重な日曜日だが、弥彦はどうしても剣に集中することができなかった。
稽古をおろそかにしているわけでは無論ないが、いつも以上のやる気はどうやっても絞り出せそうにない。
決断は早かった。
「薫、悪い。今日は上がらせてくれ。」
上座で検分に回っていた薫は弥彦の目を見て頷くと、あっさりと弥彦の早引けを許した。
門下生の中には落胆の色を見せる者もあったが、薫は厳しい声音で各々の稽古に励むよう門下生たちを叱咤する。
薫のその様子に、弥彦が浮足立っていることに薫はとうに気づいていたと弥彦も悟る。
叩き出されることもなく早引けできたことを僥倖と思い、弥彦は神前に頭を下げた。
あわただしく神谷道場の門を出ようとするところに背後から声がかかった。
「弥彦。」
同じ師範代の塚山由太郎である。
首だけ由太郎のほうに向けて目で続きを促すと、由太郎は淡々とした調子で薫からの伝言を伝えた。
「今日は目を瞑ってあげるから、牛久行の件は早々に返事をするように、だって。」
「牛久!?」
伝言はおそらく「牛久で知己が営む道場から招かれているので顔を出して来い」の意だ。
だが簡単に行けと言われるには牛久は遠い。片道一日の旅程だろう。
心底嫌そうな態度を見せる弥彦に由太郎は軽く片目を瞑ってみせた。
「お前はそのために稼いでるんだろう?留守は任せておけよ。燕ちゃんに悪い虫がつかないように俺がきっちり見張っておくさ。」
言いたいことだけ言うと由太郎はくるりと踵を返して道場に戻っていってしまった。
だから弥彦は由太郎に伝えられなかった言葉を手をかけた門扉に向かって吐き捨てた。
「一番悪い虫はお前だろうが。」
道場を出るとまっすぐに三条家へと向かった。
明神家も三条家も出自こそ士分ではあるが懐事情は明るいものではない。三条家は雑然とした下町の長屋の一角に過ぎないし、明神家に至っては"家"とは名ばかり。弥彦の両親はすでに亡くそのときのどさくさで住んでいた長屋からも追い出されてしまい、紆余曲折を経て年上の悪友が住んでいた長屋の部屋を譲り受けるまで"明神家"はなかったのだから。
もっともそんな境遇なので養わなければならない弟妹がいなかったことを弥彦は幸いだったと思っており、古ぼけた長屋の部屋も父母の位牌と己の誇りを守るに十分な広さではあるので今の暮らしに大きな不満はない。
将来を考えれば今後考えてゆかねばならぬことはあろうが、そんなことはそのときに考えれば良いのだ。
だから弥彦は何も考えずに三条家の戸口をほとほとと叩き、ひと声かけて長屋に入っていったのである。
戸を開けるとすぐに床に臥せっている燕が視界に飛び込んできた。
「邪魔するぞ。」
一瞬だけ眉をしかめると、弥彦は燕の返事を待たずに部屋へ上がった。
枕元にそっと腰を下ろすと燕が細い声で応えをした。
「弥彦君…。」
「おふくろさんは?」
「奉公先の、御用で…。」
「ああいい、喋るな。」
よろよろと身を起こそうとする燕を制し、弥彦はそっと燕の額に手を伸ばす。
額はだいぶ、熱かった。
「水飲むか。」
「自分で…。」
「馬鹿言うな。」
枕もとの水差しの水は心もとなかったが、土間にある水瓶にはまだ水があるようだった。
湯呑に水を汲んでやり、ついでに水差しにも水を満たしてやる。
横になったままでは飲みにくかろうと燕の背中を支えて上半身を起こしてやる。
いつもよりずっと近くにある燕の細い身体が子どものそれのように熱を発しているのが薄い寝間着越しに伝わってくる。
湯呑を手渡すと燕は弱々しく水を飲む。
ほの暗い部屋の中で小さく動く燕の白い喉が視界に入ってしまい、弥彦はつい目をそらした。
「ありがとう、弥彦君。」
湯呑を口元から離すと燕は弱々しい声音で礼を言った。
それを意図的に無視して弥彦はぼやき口調を作る。
「やっぱり熱あったんじゃねえか。隠そうとしやがって。」
「ごめん…。」
燕の声の調子が下がったことに弥彦はうろたえる。
「馬鹿ヤロ。怒ってねえよ。」
答えながら弥彦はそう答える自分に違和感を感じていた。
燕との会話が滑らかに運ばない。
生来内気な燕と強気が過ぎる(と自分でもたまに思う)弥彦の間で会話が弥彦の説教口調一色になってしまうことは出会ったころからしばしばあったが、さすがに最近はそんなことはなかったと思う。
燕が不必要にビクビクと弥彦の顔色を窺うようなことがだんだんと減り、弥彦がおどおどとする燕に抱いた苛立ちをあからさまに言葉にすることもだんだんと減ってきたためだろうと、なんとなくそう感じていた。
実際、弥彦が苛立ちを正直に表明した後に燕に悲しみを正直に表明されると弥彦としては非常にやりにくい状況になってしまうことが多々あるため、そうならないように気を遣ってきたのだが…。
(なんか、今日の俺、戻ってないか?以前に…。)
体調を崩して寝込んでいる少女に気を遣わせるのではなんのための見舞いかわからない。
自分は何をしに来たつもりなのか。
(いや、とにかくコイツを休ませねえと。)
落ち込むのはやめにして燕の手から湯呑を抜き取ると、弥彦は燕の身体をそっと横たえた。
「寝てろ。」
「うん…。」
頭が枕に到達したことで燕はほっとしたように吐息を漏らした。
その息の熱さがまだ近くにあった弥彦の顎にかかる。
弥彦はあわてて顔を遠ざけた。
燕はそんな弥彦の様子にはとても気が回らないようで、目を伏せて深く息を吐いていた。
その息遣いが弥彦の聴覚に不思議な刺激を与えてくる。
一度弥彦はぎゅっと目を瞑ってから、平静を装って燕に声をかけた。
「食いたいモンとか、あるか?」
一方で話の前後が微妙に繋がらない、支離滅裂なことを呟いていたり。
有体に言えば、まあ、様子がおかしかった。
赤べこが看板になって戸締りを済ませた店の者たちに笑顔でお辞儀をして別れてはいたが、彼らに背を向けた途端大きく息を吐く。
…これも普段の燕にはないことで。
妙たちにもう話し声が聞こえないだろうところまで歩いてきたところで、後ろを歩く少女―三条燕に彼―明神弥彦は声をかけた。
「お前、熱でもあるのか?」
「え?」
驚いたように弥彦をみつめた燕の顔色は別段悪くない。ただ、その目になんだか力がない。
「そんなことないと思うけど、私、どこか変だった?」
自覚がないのか燕は戸惑った口調で弥彦に問うてきた。
「おかしいと思うから聞いてるんだろ。熱は…」
「!」
弥彦が無造作に手を伸ばそうとすると、燕がさらに驚いたように身を引いた。
あからさまにそんな動きを取られてしまうと腕を伸ばした弥彦のほうも恥ずかしい。
弥彦は差し出しかけた腕をすっと下ろして歩を前に進めることにした。
「お前がなんでもないって言うなら別にいいけどよ。ホラさっさと歩け。夜風でホントに熱出すぞ。」
燕から顔を背けてしまった弥彦は気が付かなかった。
「はい。」
しおらしく返事をする燕が小さく微笑んでいたことに。
―明治十四年十一月のある日。
少年と少女の物語―。
あくる日は日曜日で赤べこは休みだ。
仕事を気にせず思う存分竹刀を振れる貴重な休日で、剣術の師の神谷薫をはじめ道場で修練する面々にも師範代としての指導をアテにされている貴重な日曜日だが、弥彦はどうしても剣に集中することができなかった。
稽古をおろそかにしているわけでは無論ないが、いつも以上のやる気はどうやっても絞り出せそうにない。
決断は早かった。
「薫、悪い。今日は上がらせてくれ。」
上座で検分に回っていた薫は弥彦の目を見て頷くと、あっさりと弥彦の早引けを許した。
門下生の中には落胆の色を見せる者もあったが、薫は厳しい声音で各々の稽古に励むよう門下生たちを叱咤する。
薫のその様子に、弥彦が浮足立っていることに薫はとうに気づいていたと弥彦も悟る。
叩き出されることもなく早引けできたことを僥倖と思い、弥彦は神前に頭を下げた。
あわただしく神谷道場の門を出ようとするところに背後から声がかかった。
「弥彦。」
同じ師範代の塚山由太郎である。
首だけ由太郎のほうに向けて目で続きを促すと、由太郎は淡々とした調子で薫からの伝言を伝えた。
「今日は目を瞑ってあげるから、牛久行の件は早々に返事をするように、だって。」
「牛久!?」
伝言はおそらく「牛久で知己が営む道場から招かれているので顔を出して来い」の意だ。
だが簡単に行けと言われるには牛久は遠い。片道一日の旅程だろう。
心底嫌そうな態度を見せる弥彦に由太郎は軽く片目を瞑ってみせた。
「お前はそのために稼いでるんだろう?留守は任せておけよ。燕ちゃんに悪い虫がつかないように俺がきっちり見張っておくさ。」
言いたいことだけ言うと由太郎はくるりと踵を返して道場に戻っていってしまった。
だから弥彦は由太郎に伝えられなかった言葉を手をかけた門扉に向かって吐き捨てた。
「一番悪い虫はお前だろうが。」
道場を出るとまっすぐに三条家へと向かった。
明神家も三条家も出自こそ士分ではあるが懐事情は明るいものではない。三条家は雑然とした下町の長屋の一角に過ぎないし、明神家に至っては"家"とは名ばかり。弥彦の両親はすでに亡くそのときのどさくさで住んでいた長屋からも追い出されてしまい、紆余曲折を経て年上の悪友が住んでいた長屋の部屋を譲り受けるまで"明神家"はなかったのだから。
もっともそんな境遇なので養わなければならない弟妹がいなかったことを弥彦は幸いだったと思っており、古ぼけた長屋の部屋も父母の位牌と己の誇りを守るに十分な広さではあるので今の暮らしに大きな不満はない。
将来を考えれば今後考えてゆかねばならぬことはあろうが、そんなことはそのときに考えれば良いのだ。
だから弥彦は何も考えずに三条家の戸口をほとほとと叩き、ひと声かけて長屋に入っていったのである。
戸を開けるとすぐに床に臥せっている燕が視界に飛び込んできた。
「邪魔するぞ。」
一瞬だけ眉をしかめると、弥彦は燕の返事を待たずに部屋へ上がった。
枕元にそっと腰を下ろすと燕が細い声で応えをした。
「弥彦君…。」
「おふくろさんは?」
「奉公先の、御用で…。」
「ああいい、喋るな。」
よろよろと身を起こそうとする燕を制し、弥彦はそっと燕の額に手を伸ばす。
額はだいぶ、熱かった。
「水飲むか。」
「自分で…。」
「馬鹿言うな。」
枕もとの水差しの水は心もとなかったが、土間にある水瓶にはまだ水があるようだった。
湯呑に水を汲んでやり、ついでに水差しにも水を満たしてやる。
横になったままでは飲みにくかろうと燕の背中を支えて上半身を起こしてやる。
いつもよりずっと近くにある燕の細い身体が子どものそれのように熱を発しているのが薄い寝間着越しに伝わってくる。
湯呑を手渡すと燕は弱々しく水を飲む。
ほの暗い部屋の中で小さく動く燕の白い喉が視界に入ってしまい、弥彦はつい目をそらした。
「ありがとう、弥彦君。」
湯呑を口元から離すと燕は弱々しい声音で礼を言った。
それを意図的に無視して弥彦はぼやき口調を作る。
「やっぱり熱あったんじゃねえか。隠そうとしやがって。」
「ごめん…。」
燕の声の調子が下がったことに弥彦はうろたえる。
「馬鹿ヤロ。怒ってねえよ。」
答えながら弥彦はそう答える自分に違和感を感じていた。
燕との会話が滑らかに運ばない。
生来内気な燕と強気が過ぎる(と自分でもたまに思う)弥彦の間で会話が弥彦の説教口調一色になってしまうことは出会ったころからしばしばあったが、さすがに最近はそんなことはなかったと思う。
燕が不必要にビクビクと弥彦の顔色を窺うようなことがだんだんと減り、弥彦がおどおどとする燕に抱いた苛立ちをあからさまに言葉にすることもだんだんと減ってきたためだろうと、なんとなくそう感じていた。
実際、弥彦が苛立ちを正直に表明した後に燕に悲しみを正直に表明されると弥彦としては非常にやりにくい状況になってしまうことが多々あるため、そうならないように気を遣ってきたのだが…。
(なんか、今日の俺、戻ってないか?以前に…。)
体調を崩して寝込んでいる少女に気を遣わせるのではなんのための見舞いかわからない。
自分は何をしに来たつもりなのか。
(いや、とにかくコイツを休ませねえと。)
落ち込むのはやめにして燕の手から湯呑を抜き取ると、弥彦は燕の身体をそっと横たえた。
「寝てろ。」
「うん…。」
頭が枕に到達したことで燕はほっとしたように吐息を漏らした。
その息の熱さがまだ近くにあった弥彦の顎にかかる。
弥彦はあわてて顔を遠ざけた。
燕はそんな弥彦の様子にはとても気が回らないようで、目を伏せて深く息を吐いていた。
その息遣いが弥彦の聴覚に不思議な刺激を与えてくる。
一度弥彦はぎゅっと目を瞑ってから、平静を装って燕に声をかけた。
「食いたいモンとか、あるか?」