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悪い虫

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燕のまぶたがゆるゆると持ち上げられ、潤んだ瞳が弥彦を捕らえる。
熱で真っ赤になった唇が小さく言葉を紡ぐ。
「今、食べたくないの…。」
燕の言葉が耳を通って弥彦の脳に届くまでにいくらか時間がかかった。
弥彦の言葉をじっと待たれている気配に気づき、弥彦はぐっと息を吐いてから意を決したように右手を燕の顔の上に持って行った。
燕のまぶたの上に掌を乗せる。
「わかったから、寝てろ。」
燕にはまぶたの上の掌は冷たく感じるのだろう。
「うん…。」
小さく答えた燕の口元はゆるい微笑をたたえているようだった。

ほどなくして燕は眠りに落ちた。
が、弥彦は退出する機会を完全に失ってしまい、ずっと燕の枕元に座している。
極力、心を無にして座している。
少しでも心に隙を作ってしまうと、常とは異なる燕に気を取られてしまう。
真っ赤な唇。
細くて白い喉。
少し浅い呼吸。
小さく上下を繰り返す薄い布団。
この寒さの中、額に浮かんだ玉のごとき汗。
乱れた髪。
それらは弥彦が普段意識しないようにしている燕の"からだ"をどうしても想起させる。
(邪念だ。散れ。考えるな。考えるな。)
少年の肉体を制御するのは生半ではない。
固く目を瞑って視覚情報を制御しても、耳から入ってくる燕の苦しそうな寝息は、燕を寝かしつけるまでに見てしまったいろいろな燕の情報をより誇張して脳に訴えかけてくる。
弥彦の男としての本能を刺激してやまないそれら…。
正直、弥彦はもうこの長屋から逃げ出したくなっていた。
道場で竹刀を振って、この長屋での出来事を記憶から消してしまいたい気持ちになっていた。
厠に駆け込んで処理することもできようが、それはあまりにも人間として醜悪な気がした。
恋うた女とはいえ、病に苦しむ彼女を見て手淫を欲するなど、あさましいにもほどがあろう。
弥彦も知らなかったのだ。
熱を出している女がこんなにも艶っぽく欲情に値するものだなどということは…。
袴の下で存在を誇示しようとする自身が情けない。
(散ってくれ。頼む。考えるな。)
その思念にずっと捉われていたため、潤んだ瞳を宙に彷徨わせていた燕に気づくのが遅れた。
衣擦れの音にはっとして、弥彦は固く閉ざしていたまぶたを開いた。
燕は身を起こそうとしているようだった。
「馬鹿、無理すんなって。」
慌てて助け起こすと、燕が細い声を出した。
「ゆめ…。」
「夢?」
「ううん…。」
燕がゆるく首を左右に振ると細い黒髪がさらさらと揺れた。
それを見ないようにして、弥彦は水差しの水を湯呑に移し、そっと燕の手に握らせてやった。
「ホラ飲めよ。熱下がんねーぞ。」
「ありがとう…。」
燕がまたこくこくと水を飲む。
うっかりと白い喉を見なくて済むよう、弥彦は顔を伏せた。
ややあって、燕が小さく声を上げる。
「でも…。」
顔を上げると燕の潤んだ瞳がまっすぐに弥彦を見ていた。
今日初めてまともに燕に見られた気がする。
それはつまり熱にうかされた燕の常とは異なる瞳を正面から観るのが弥彦にとっても初めてだということである。
燕の黒目がちな瞳は美しいと常々思ってはいたが、こうしてぼんやりと潤んだ瞳はさらに、弥彦の心を惑わせる不思議な何かを纏っていて…その瞳にしっかりと見つめられて、弥彦は目をそらせなくなっていた。
すると薄暗い部屋の中でも常よりさらに白いとわかる肌や赤く色づいた唇も自然と視界に入ってきて、その妖しさが弥彦の鼓動を跳ね上げる。
弥彦の内心など知る由もない燕はとても気遣わしげにこう言った。
「伝染っちゃうよ、ここにいると…弥彦君にも…。」
予想もしていない言葉だった、というのは弥彦の勝手な感想だと思う。
体調の悪い燕を見て意識が淫らなほうへ転がっていったのは弥彦の勝手だ。
そこにさらに都合の良いことを燕が言ってくれるかもしれないと無意識下で期待していたのだからそれは身勝手と言うよりほかない。
弥彦自身そのことに気づいたから、強がったように口をへの字にして答えるよりなかった。
「伝染らねえよ。ちゃんと鍛えてるんだからよ。むしろお前、俺に伝染して早く治したほうがいいんじゃないか。」
弥彦のいつもどおりの憎まれ口に安心したのか、燕がふふっと小さく笑った。
「でも、伝染らないんでしょう?」
「そ。伝染らねえから、伝染していいんだよ。」
弱々しいながらも燕が笑顔を見せたことに弥彦も安堵した。
少し寝て回復してきたのなら、そんなに悪化させずに治すことができるだろう。
「水、もう少し飲むか?」
「ううん、今はいい。」
「そっか。じゃあもう少し寝とけ。後で小国先生ン所で薬もらってきてやっからよ。」
「え…。」
燕の眉が僅かに曇る。
弥彦はぽんと燕の頭に手を置いた。
「その位の金は貰ってるから心配すんな。そんなことよりお前はちゃんと治すほうが先だろ。わかったな。」
口調こそ命令口調に近かったが弥彦の瞳は穏やかで、燕は今度こそ安心して目を伏せた。
「うん…。」

翌朝も朝稽古の後で心配して燕の家まで様子を見に行ったが、すでに燕は赤べこへ出勤するための支度を整えていた。
「お前、無理して起きたんじゃないのか?大丈夫か?」
弥彦が声をかけると燕は笑って否定した。
「大丈夫だよ。お薬が効いたみたいだから。ありがとう、弥彦君。」
「…無理すんじゃねえぞ。」
「はい。」
弥彦を見つめて微笑む瞳からは妖しげな艶っぽさが消えて、常と同じ輝きが宿っていた。
気力の宿ったその瞳に心底ほっとするとともに…弥彦は小さな罪悪感を覚えた。
昨日の燕が脳裏から離れず起床時に寝間着がヒドイことになっていたのは弥彦だけの秘密だ。

燕と赤べこへの道すがら、昨日の由太郎のすまし顔が弥彦の脳裏をよぎる。
(悪い虫…。)
歩を止めて、弥彦は天を仰いだ。
(俺のことか…。)
「弥彦君?」
止まってしまった弥彦を訝しんだ燕の声に、弥彦は動作で答えて歩き出した。
頭にぽんと置かれた弥彦の手を、燕が不思議そうにみつめていた。

<了>
作品名:悪い虫 作家名:春田 賀子