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ゆらのと

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「それぐれェなら、こっちのほうから出て行く」
松陽との喧嘩はきっかけにしかすぎない。
それまでずっと今の状態がこわくて、逃げ出したくて、けれども居心地が良くてふんぎりがつかなかったのだ。
「てめーみたいないい家のお坊ちゃんには、俺の気持ちはわからねェだろうがな」
良家の子息らしい身なりの桂をジロリと見た。
桂は眉根を寄せ、声を失ったように立ちつくしている。
しかし、ふと、その足が動いた。
去っていけばいい。
そう銀時は思った。
松陽が主宰している塾の塾生の中でただひとり、桂だけが他の塾生に対するのと同じように銀時に話しかけてきた。
それをずっとわずらわしく思っていた。
他の塾生のように、自分から遠く離れていてくれたほうが、気が楽だ。
けれど。
桂の足は帰る方向ではなく、銀時のほうへ動いた。
距離が縮まる。
その予想に反した桂の行動に、銀時は眼を見張る。
桂は一切臆することなく近づいてきて、足を止めると、口を開く。
「ありえないことだと思うが、もし、おまえがいつか捨てられたら」
しっかりと銀時を見据えて、続ける。
「そのときは、俺が拾う」
耳を疑った。
信じられない。
そう思った。
銀時がぼうぜんとする一方で、桂はふたたび口を開く。
「そして、おまえを捨てない。絶対だ」
断言した。
さらに、その手があげられる。
銀時に触れた。
次の瞬間、距離が無くなった。
桂がまた一歩近づいたのだ。
飛び込んでくるように、胸にぶつかってきた。
背中に桂の手がまわされるのを感じる。
どうしたらいいのかわからない。
戸惑う。
すると。
「俺はおまえを絶対に捨てない」
そう桂が言った。
背中にまわされている手が動く。なでるように。小さなその手は優しい。
触れている胸に温もりを感じる。
桂の体温だ。
心地いい。
心にまで温もりが届く。
ダメだ、と思う。
しかし。
もしおまえが捨てられたらそのときは俺が拾う。
そう桂は言ったのだ。
絶対に捨てない。
そうも言った。
それを信じるのか。
信じて、裏切られたら。
だが。
これまで、こんなふうに自分を優しく両の腕に抱いてくれた者が他にいただろうか。
信じてもいいと思った。
いや、違う。
信じて、いつか裏切られてもいい。
そう思った。
伝わってくる温もりに、胸が苦しくなった。
ぎゅっと締めつけられているような痛みを感じる。
けれど、それは、つらいからではなくて。
嬉しかった。
嬉しくて、嬉しくて。
そう思っていることを否定したくても否定することができない。
強ばっていた心が氷が溶けるように溶けていくのを感じる。
胸の感情が大きく揺れ動いて、どうしようもない。
銀時は桂の背に手をまわした。
そうしたいと思うままに、自分の腕の中にある細い身体を抱きしめる。
よりいっそう桂の体温が伝わってくる。
その温もりがこんなに心地よいものであることを、心を強くしてくれるものであることを、今まで知らなかった。
泣きそうになった。


桂があんなことを言い、手を伸ばしてきたのは、正義感と優しさからだったのだろう。
同じ状況であれば他の者にもそうしたのかもしれない。
特別な感情はなかったのかもしれない。

だが、銀時には、あのときが始まりだった。










作品名:ゆらのと 作家名:hujio