ゆらのと
第一部 三、
「銀時」
眼のまえに立ちふさがるようにある戸の向こうへと、桂は呼びかけた。
反応を待つ。
しかし、家の中からはなんの音も聞こえてこない。
その代わりのように、風が吹き、甘い香りがふわりと漂ってきた。
酔いそうな、強い香りだ。
ついその香のほうに眼が行った。
庭で、金木犀が濃い緑色の葉の上に鮮やかな橙色の小さな花を星のようにいくつも咲かせている。
松陽が植えた樹だ。
庭には金木犀以外にも木々が植えられている。
植樹は趣味のひとつだった。
それを桂は思い出す。
しかし、松陽のことを語るとき、すべて過去のことになる。
松陽はもういないから。
死んでしまった。
それも、処刑されたのだ。
危険な思想犯として。
松陽は攘夷を唱えていた。
だが、それは天人の存在を頭ごなしに否定するものではなかった。
天人の持つ技術には眼を見張るほど優れたものがあり、そうしたものは積極的に取り入れるべきだと考えていた。
そして、技術を取り入れるだけではなく、天人と友好的につきあうことも考えていたらしい。
だだし、それは、対等な立場であればの話である。
天人が来襲して江戸城に大砲を撃ち込んで幕府に開国させたことがすべての発端であり、それは天人と幕府の関係を象徴する出来事でもあった。
対等な立場ではない。
幕府は天人の力を恐れ、言いなりになっている。
天人の求める不平等な条約を締結し、その結果、この国の民の生活は苦しくなった。
これでは侵略されているのと同じだ。
そう考えた松陽は、とりあえず天人をこの国からいったん追い出すことを主張した。
松陽には無邪気なところがあり、また、正しいと信じたことについてはなにがあっても折れず、なにも恐れずに堂々と発言した。
攘夷志士たちは松陽の思想に共鳴し、その思想を実践した。
だが、それにより、天人は松陽を危険な存在として見なすようになった。
そして、幕府は天人の意向に従い、松陽を捕らえた。
島流しになるだろう、というのが大方の予想だった。
松陽は幕府に逆らうような思想を唱えたが、実践はしていない。
もう二度と会えないかも知れない島流しですら、塾生たちにとってはつらいものであったが、それでも生きてさえいればと思うようになった。
だが。
松陽に下されたのは、死罪、だった。