あなたのことがきにかかる
ミルクティ色のソファは二人で選んだものだ。
ギルベルトはそこに座って何かするのが好きだった。
一週間かけて少しずつ読み続けてきたハードカバーの分厚い本をようやく読み終わり、何かにとても集中していた後にこぼれがちな大きなため息をついた。
読書を始める前に淹れたコーヒーはマグカップの底で冷たくなっており、ついさっきまでお気に入りのぬいぐるみで遊んでいたはずのベルリッツは、他の犬たちとどこか眠そうに呼吸している。
自分で思っていたよりも、随分長い間読書に熱中していたようだ。
「けっこう面白かったぜー…」
呟いたところで答える者もいない。時刻は午後10時を回っていた。
犬たちの散歩を済ませ、夕食の準備をし、弟が帰ってくるまでの暇つぶしとして本を読み始めたはずが、いつのまにか一般的な夕食の時間はとうに過ぎ、分厚い本も読み終えてしまった。
「ルツのやつ遅えなあ」
ソファの近くのテーブルに置いていた携帯を確認しても、連絡らしきものは入っていないようだ。
ここ最近、仕事が立て込んでいるようで、こういうことは少なくなかった。
ちぇっちぇと舌を鳴らしながら、携帯で自分のブログを開く。
『こないだイギリスの野郎に借りた本、結構面白かったぜー!』
『読んでたら夕飯冷めちまった』
ごく短い書き込みを済ませた後、ダイニングテーブルの上の夕食はそのままにギルベルトはシャワーを浴びることにした。
弟はきっとこの時間も仕事に追われているのだろうか。今時珍しいぐらいに真面目な男だが、それでも就業時間とそうでない時間の線引きはきっちりつけたがる方だ。今頃きっと眉間に深い皺を寄せていることだろう。おぼろげな記憶に残る、遠い時代の自らの祖父にもあたる人によく似たその仕草。同僚を怯えさせていなければいいが。
シャワーを済ませ、さっぱりした状態でおざなりに髪を拭いていると、家の門を開ける音がした。即座にバスルームから出たギルベルトは、前髪から水滴を滴らせながらペタペタとスリッパの音を響かせ玄関に向う。
同じく家主の帰還を察したのだろう、せわしなく尻尾を振りながら三匹の犬たちが玄関をうろうろしている。警戒心の欠片も見せていないその様子は、たった今この家に到着したのが、今までギルベルトが待っていたその人であることを証明していた。
帰ってきたのは解っているが、鍵はかけたままにしておく。
以前、インターフォンを鳴らされるまでもなく鍵と扉を開けて叱られたことがあるのだ。
兄さん。
どうして扉を開けたんだ。ここにいるのは、俺じゃなかったかもしれないのに。
俺がお前のこと間違えるはずねえだろ!とむくれたギルベルトは、その時も傍にいた愛犬達に「なー、お前らだってここにいるのがルツだってわかってたよなー!」と話しかける。
関心が自分の方を向いたことにただただ尻尾を振って喜ぶ犬たちとは逆に、帰宅したばかりの弟はほんのわずかに眉尻を下げて、もう一度言った。
にいさん。
ただそれだけだった。
それでもギルベルトはそれ以来、弟の言いつけをしっかりと守っている。
鍵穴に鍵を差し込む音がした。
そうして扉がゆっくりと開く。それと同時に犬たちが飛び出して行った。
「よ、おかえり」
軽い言葉で出迎えたギルベルトに、ルートヴィヒは憂鬱そうな表情で、小さく「ああ、ただいま」と言った。
「大分疲れてるみてえだなあ」
「いや、そうでもないんだ」
「鏡で自分の顔見てから言いやがれ」
今のお前、イタリアちゃんあたりが見たら泣いてるぜー?
ケセケセと笑いながらリビングに向おうとするギルベルトを、ルートヴィヒは引き止めた。
「兄さん、夕飯は?」
「あ?ああ、できてるぜ。そう大したもんでもないけど、あたためなおすか―――」
「兄さん、そうじゃない」
妙に必死な様子の弟に、ギルベルトは訝しげな様子で向き直った。
「なんだ、どうしたんだよ」
「どうして食べなかったんだ」
「は?」
きょとんとした表情で聞き返す兄に、ルートヴィヒは言い募るように続けた。
「もう十一時近いんだぞ。こんな時間まで食事をとらないなんて、体に悪いじゃないか」
「いや、それが読書に熱中しててよ」
「食欲がなかったのか?」
「違うって」
「ならばどうして」
「おい、落ち着けよルツ。どうしたんだ」
諌めるようにそう言うギルベルトに、ルートヴィヒは俯いて黙り込む。
その足元では、犬たちが不安げな様子で二人を見つめていた。
「ルツ」
何も言わないままの弟の手を握ると、ギルベルトはリビングに入るように促した。
「このまま玄関に突っ立ってたって仕様がねえ。部屋に入ろうぜ」
そうして手を引けば、素直に付いて来る。
昔から、我侭が下手な子供だった。
「なんかあったのか、ルツ?」
数時間前まで自分が座っていたものと同じソファに座って俯いている弟に、カミツレのお茶を差し出してやりながらギルベルトは問う。
ほのかに甘い香りのするその飲み物は飲まれる気配もなく、それが入った温かいマグがただ弟の指を暖めるだけだ。
今のお前をそんなにまで悩ませているものは何だ?
お前はもう無力な子供じゃない、こんなに大きく立派に育った大人なんだ。
むやみやたらに他人を当てにするような奴じゃ、絶対ない。
俺はそのことを、一番知ってる。
そんな奴が、なあ、ちょっとぐらい甘えたことを言ったって、俺は決してそれを我侭だなんて思わない。
というか、お前はもっとお兄様に我侭を言うべきだ。
…子供のころ、あんなに我慢したんだからさ。
「…俺はさ、お前にもっと色々聞いてやるべきだったよな」
未だ黙ったままでいたルートヴィヒは、兄の言葉にはっとしたように顔を上げた。
「兄さん、何を」
「いろんなこと我慢しがちなガキだってこと、わかってたはずなのに、何にもしてやらなかった」
「そんなことはない」
ルートヴィヒが立ち上がる。
「お前って、本当に言いたいことは、ちっちぇえころから言うのが苦手だよなあ。どうでもいいことは結構なんでもずけずけ言うのによお」
ルートヴィヒの大きな掌が、ギルベルトの両肩を包んだ。
「普段、もっとちゃんと掃除をしろとか、甘いものばかり食うなとか、そういうのあんま聞かないでいるけどよ、お前がそんな何かして欲しそうな顔してんのに、何すればいいか全然わかんねえと、流石の俺様も結構へこむんだぜ」
「兄さん、大丈夫か」
「『大丈夫か』じゃねえよ!心配してんのは俺だよ」
「そうだな、すまない、兄さん」
そう言ってほんの少し、それでもしっかりとギルベルトにもわかるように微笑んだルートヴィヒを見て、ギルベルトも笑った。
「ようやく笑ったな。せっかく仕事も終えて家に帰ってきたっていうのに辛気臭え顔しやがって、食欲が失せるだろうが」
「兄さん、今から食べるのか?」
「あんま食べる気なかったのに、お前の心配して余計な頭使ったら腹減ってるの思い出したぜ!」
それを聞いてルートヴィヒは何故か嬉しそうに笑った。
「そうか、すまなかったな」
何故だか解らないが、弟は元気を取り戻したようだ。
それならいい。今はそれだけでいい。
その後服を着替えたルートヴィヒと、深夜のダイニングで軽い夕食を取ると、どちらから言うでもなく同じベッドに入った。
ギルベルトはそこに座って何かするのが好きだった。
一週間かけて少しずつ読み続けてきたハードカバーの分厚い本をようやく読み終わり、何かにとても集中していた後にこぼれがちな大きなため息をついた。
読書を始める前に淹れたコーヒーはマグカップの底で冷たくなっており、ついさっきまでお気に入りのぬいぐるみで遊んでいたはずのベルリッツは、他の犬たちとどこか眠そうに呼吸している。
自分で思っていたよりも、随分長い間読書に熱中していたようだ。
「けっこう面白かったぜー…」
呟いたところで答える者もいない。時刻は午後10時を回っていた。
犬たちの散歩を済ませ、夕食の準備をし、弟が帰ってくるまでの暇つぶしとして本を読み始めたはずが、いつのまにか一般的な夕食の時間はとうに過ぎ、分厚い本も読み終えてしまった。
「ルツのやつ遅えなあ」
ソファの近くのテーブルに置いていた携帯を確認しても、連絡らしきものは入っていないようだ。
ここ最近、仕事が立て込んでいるようで、こういうことは少なくなかった。
ちぇっちぇと舌を鳴らしながら、携帯で自分のブログを開く。
『こないだイギリスの野郎に借りた本、結構面白かったぜー!』
『読んでたら夕飯冷めちまった』
ごく短い書き込みを済ませた後、ダイニングテーブルの上の夕食はそのままにギルベルトはシャワーを浴びることにした。
弟はきっとこの時間も仕事に追われているのだろうか。今時珍しいぐらいに真面目な男だが、それでも就業時間とそうでない時間の線引きはきっちりつけたがる方だ。今頃きっと眉間に深い皺を寄せていることだろう。おぼろげな記憶に残る、遠い時代の自らの祖父にもあたる人によく似たその仕草。同僚を怯えさせていなければいいが。
シャワーを済ませ、さっぱりした状態でおざなりに髪を拭いていると、家の門を開ける音がした。即座にバスルームから出たギルベルトは、前髪から水滴を滴らせながらペタペタとスリッパの音を響かせ玄関に向う。
同じく家主の帰還を察したのだろう、せわしなく尻尾を振りながら三匹の犬たちが玄関をうろうろしている。警戒心の欠片も見せていないその様子は、たった今この家に到着したのが、今までギルベルトが待っていたその人であることを証明していた。
帰ってきたのは解っているが、鍵はかけたままにしておく。
以前、インターフォンを鳴らされるまでもなく鍵と扉を開けて叱られたことがあるのだ。
兄さん。
どうして扉を開けたんだ。ここにいるのは、俺じゃなかったかもしれないのに。
俺がお前のこと間違えるはずねえだろ!とむくれたギルベルトは、その時も傍にいた愛犬達に「なー、お前らだってここにいるのがルツだってわかってたよなー!」と話しかける。
関心が自分の方を向いたことにただただ尻尾を振って喜ぶ犬たちとは逆に、帰宅したばかりの弟はほんのわずかに眉尻を下げて、もう一度言った。
にいさん。
ただそれだけだった。
それでもギルベルトはそれ以来、弟の言いつけをしっかりと守っている。
鍵穴に鍵を差し込む音がした。
そうして扉がゆっくりと開く。それと同時に犬たちが飛び出して行った。
「よ、おかえり」
軽い言葉で出迎えたギルベルトに、ルートヴィヒは憂鬱そうな表情で、小さく「ああ、ただいま」と言った。
「大分疲れてるみてえだなあ」
「いや、そうでもないんだ」
「鏡で自分の顔見てから言いやがれ」
今のお前、イタリアちゃんあたりが見たら泣いてるぜー?
ケセケセと笑いながらリビングに向おうとするギルベルトを、ルートヴィヒは引き止めた。
「兄さん、夕飯は?」
「あ?ああ、できてるぜ。そう大したもんでもないけど、あたためなおすか―――」
「兄さん、そうじゃない」
妙に必死な様子の弟に、ギルベルトは訝しげな様子で向き直った。
「なんだ、どうしたんだよ」
「どうして食べなかったんだ」
「は?」
きょとんとした表情で聞き返す兄に、ルートヴィヒは言い募るように続けた。
「もう十一時近いんだぞ。こんな時間まで食事をとらないなんて、体に悪いじゃないか」
「いや、それが読書に熱中しててよ」
「食欲がなかったのか?」
「違うって」
「ならばどうして」
「おい、落ち着けよルツ。どうしたんだ」
諌めるようにそう言うギルベルトに、ルートヴィヒは俯いて黙り込む。
その足元では、犬たちが不安げな様子で二人を見つめていた。
「ルツ」
何も言わないままの弟の手を握ると、ギルベルトはリビングに入るように促した。
「このまま玄関に突っ立ってたって仕様がねえ。部屋に入ろうぜ」
そうして手を引けば、素直に付いて来る。
昔から、我侭が下手な子供だった。
「なんかあったのか、ルツ?」
数時間前まで自分が座っていたものと同じソファに座って俯いている弟に、カミツレのお茶を差し出してやりながらギルベルトは問う。
ほのかに甘い香りのするその飲み物は飲まれる気配もなく、それが入った温かいマグがただ弟の指を暖めるだけだ。
今のお前をそんなにまで悩ませているものは何だ?
お前はもう無力な子供じゃない、こんなに大きく立派に育った大人なんだ。
むやみやたらに他人を当てにするような奴じゃ、絶対ない。
俺はそのことを、一番知ってる。
そんな奴が、なあ、ちょっとぐらい甘えたことを言ったって、俺は決してそれを我侭だなんて思わない。
というか、お前はもっとお兄様に我侭を言うべきだ。
…子供のころ、あんなに我慢したんだからさ。
「…俺はさ、お前にもっと色々聞いてやるべきだったよな」
未だ黙ったままでいたルートヴィヒは、兄の言葉にはっとしたように顔を上げた。
「兄さん、何を」
「いろんなこと我慢しがちなガキだってこと、わかってたはずなのに、何にもしてやらなかった」
「そんなことはない」
ルートヴィヒが立ち上がる。
「お前って、本当に言いたいことは、ちっちぇえころから言うのが苦手だよなあ。どうでもいいことは結構なんでもずけずけ言うのによお」
ルートヴィヒの大きな掌が、ギルベルトの両肩を包んだ。
「普段、もっとちゃんと掃除をしろとか、甘いものばかり食うなとか、そういうのあんま聞かないでいるけどよ、お前がそんな何かして欲しそうな顔してんのに、何すればいいか全然わかんねえと、流石の俺様も結構へこむんだぜ」
「兄さん、大丈夫か」
「『大丈夫か』じゃねえよ!心配してんのは俺だよ」
「そうだな、すまない、兄さん」
そう言ってほんの少し、それでもしっかりとギルベルトにもわかるように微笑んだルートヴィヒを見て、ギルベルトも笑った。
「ようやく笑ったな。せっかく仕事も終えて家に帰ってきたっていうのに辛気臭え顔しやがって、食欲が失せるだろうが」
「兄さん、今から食べるのか?」
「あんま食べる気なかったのに、お前の心配して余計な頭使ったら腹減ってるの思い出したぜ!」
それを聞いてルートヴィヒは何故か嬉しそうに笑った。
「そうか、すまなかったな」
何故だか解らないが、弟は元気を取り戻したようだ。
それならいい。今はそれだけでいい。
その後服を着替えたルートヴィヒと、深夜のダイニングで軽い夕食を取ると、どちらから言うでもなく同じベッドに入った。
作品名:あなたのことがきにかかる 作家名:カムロ