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刻まれた溝

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「チカちゃーん!」



 海岸で海を眺めたまま、誰かが誰かの名前を呼ぶのを聞いていた。
 
 海を見るのは好きだった。
 
 最後は海に還るのだろう、と思う。

 海と一つになって、あの深い暗い闇のような場所へ……。



「いい加減、返事しろよ!」

 急に耳元で声を出されて、慌てて振り返った。
 声の主は以前に一度だけ刃をあわせたことのある男。
 印象は蒼。
 自分よりは少し華奢な体つき。だが、両脇に三本ずつ刀を差し、計六本の刀を自在に操る。
 そして、共通点は片目に眼帯。

「…伊達…殿?」
「おうよ。せっかくチカちゃんに会いにきてやったのに、しけた面してんじゃねぇよ。ったく」
「…………」

 チカちゃんというのは、もしや、自分のことだったのだろうか。

「……まさかとは思うが……、チカちゃんとは、俺のこと……?」
「当たり前だろ。他に誰がいるっていうんだ? 長曾我部元親のチカ。チカって呼び捨てもなんだしな、チカちゃんにした」

 「した」って勝手に決断されている。名前の持ち主に何の確認もなしだ。

「……今日で会うのは二度目のはずだが……?」
「Ha! 一度会ったら、もう、知り合いだ。だから、名前で呼び合うのがいいだろう。それに、長曾我部は長い!」

 挙句の果てに苗字にケチをつけるとは。二度目だったら、本当にただの知り合い程度のものだ。それが、なぜ「チカちゃん」と呼ばれる仲に進展するのか、不思議だった。

「…苗字を短くすることもかなわない故、ご容赦いただきたいものだが…」
「だから、チカちゃんにしたって。それより、どうしたんだ、こんなところで」
「…何も……」
「…死にそうな顔しておきながら、か?」

 俺は隠していない右の目で、伊達殿を見据えた。伊達殿は俺の視線を一瞬受け止めてから、海に視線を移した。
 空を覆いつくしたねずみ色の雲を映した海は、全てを飲み込もうとするように高い波を打ち寄せている。満潮の時間に近いのか、足元のすぐ側まで波が上がってきていた。

「……せっかく、小十郎の野菜と、酒を持ってきたんだ、一杯やろうぜ」

 伊達殿は笑みを浮かべて、盃を傾ける真似をした。
 俺の返答は必要なかったらしい。
 では、なぜ、海を眺めていただけの俺の顔が死にそうな顔だったと言ったのだろうか。俺にはその意図がつかめなかった。

「…では、家のほうへ参りましょう。用意をさせます」



「ところで、今日は何の御用で、こちらに参られたのです?」
「はじめに言っただろう? チカちゃんに会いにきた、って」

 伊達殿は盃になみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。
 俺の前には、伊達殿と片倉殿が座っていた。
 それぞれのお膳には、片倉殿が育てているという野菜を使った料理が並べられ、盃に注がれている酒の方は、伊達殿がお気に入りだという酒らしい。
 こちら側からのもてなしとして、西海で獲れた魚の料理をお出ししている。

「…何のために…?」
「会いたいから会いにきた。それ以外の理由が必要かい?」

 俺は頭を横に振った。
 俺と伊達殿は以前に一度だけ戦ったことがある。それも、俺は伊達殿の身分なども全く知らずに勝負を挑んだ。伊達の財宝が目当てだった。
 その財宝は、今、俺の手元にあるわけだが、それを取り戻しにきた、と言うならば、俺は納得し、身分のことを考えるならば、その財宝をそのままお返しすることもできる。
 だが、伊達殿はそんなことは一切述べず、俺に『会いに来た』と、全く理解の出来ないことを仰る。

「…ただ、一度戦っただけの相手に、会いに来たと仰るのですか?」
「yes。その通り」
「その意図を計りかねるのですが?」
「意図も何もない。チカちゃんと会って話がしたいと思っただけだ。お、この魚、うまい!」

 伊達殿は魚を真剣に食べ始めた。こちらが出した料理をおいしそうに食べて下さるのはありがたいことだが、俺は伊達殿が何を考えているのか読めず、酒を飲むしかなかった。
 会いたいから会いに行く、というのはわからない気持ちではないのだが、その対象が俺であるというのに納得ができずにいたのだ。

「チカちゃん、あの時の威勢のよさはどこかに捨てたのか?」

 伊達殿は左目に鋭い光を宿して、俺を見つめてきた。その目はまるで俺を見透かそうとしているようで、俺は目を反らすしかなかった。
作品名:刻まれた溝 作家名:藤沢 尊