刻まれた溝
「…あの時のことは……」
呟くように言って、俺は盃を静かに置いてから、立ち上がった。
「今宵はどうぞこちらでおくつろぎ下さい。お酒、料理などはお申し付けくだされば、用意させていただきます。隣の間に布団等も用意させておきます」
「チカちゃん?」
「気分がすぐれませんので、夜風に当たって参ります。すぐに戻ります」
俺は二人に深くお辞儀をすると、その部屋を後にした。
台所に立ち寄って、客人のことを丁重にもてなすように指示して、屋敷から海へと向かう。
夜の海は海面と空の境目を曖昧にしていて、
そんな海を眺めていると、やっぱり俺はいつか海に溶けるような気がしてきた。
いや、何もかもを飲み込み、沈めてしまう、この海に俺は溶けたいのだ。
「チカちゃん!」
波の音以外の音がいきなり耳に入ってきて、肩を揺らす。ゆっくり振り返った先には伊達殿がいた。
「…何か、調子狂うな」
「…何のことでしょう…?」
「その言葉遣いと態度」
伊達殿はあの勝負のときの俺の印象が強かったのだろう。
怖いもの知らずで、後先考えずにぶつかっていった俺。それは後で大きな後悔を生み出した。
「……あの時のことは、忘れていただきたい。財宝ももちろん、お返しいたします」
「簡単に言ってくれるねぇ…」
「…財宝をお返しするだけでは、問題があると?」
伊達殿は横に首を振ってから、俺の腕を掴んできた。またしても、伊達殿の左目は俺の右目の奥を睨んで、何かを探ろうとしている。
「財宝とかは関係ねぇ。あの勝負で俺は負けたんだから、財宝はチカちゃんのものだ。それを返せなんて言わねぇよ。俺はあの時のチカちゃんに興味を持った。そのチカちゃんに会いに来たってのに、そんな調子じゃ、わざわざ来たかいがないじゃねぇか」
「……興味……?」
「そう。面白い奴だと思った。その銀の目に何を企んで、何をしようとしているのか知りたくなった」
「…何も企んでなど…」
「なんてな。俺の言い訳だ」
「言い訳?」
「別にチカちゃんが何を企んでいようが、どうでもいい。単に俺はチカちゃんのことが知りたい」
「……そういうお言葉を言う相手が間違っておられるのでは?」
そういう言葉に効力が期待できるのは、相手が自分が気になっている女ではないだろうか、と思う。伊達殿の風貌と鋭い眼光で言われたら、気分が高揚したり、何らかの思いを抱くこともあろう。
「…それとも、はっきり言った方がいいかい?」
伊達殿は掴んでいた俺の腕を引っ張った。俺と伊達殿の間が握りこぶしぐらいの幅に詰まる。そんな至近距離で、伊達殿は俺を見つめている。さっき、俺を探ろうとしていたのとは違う、鋭さはなくなっていて、やわらかな感じがする。それが余計に、次に何を言おうとしているのか、俺に予想させないのだ。
「…伊達殿…、一体…」
伊達殿は黙ったままだった。
空からは雨粒が少しずつ落ちてきて、それはあっという間に俺と伊達殿の着物の色を変えてしまうぐらいに激しくなった。
ザーッという雨音と波の打ち寄せる音が耳の中で反響している。だから、伊達殿が唇を動かして、言葉を吐き出したのも、聞き違いかと思った。
「…惚れてしまったんだよ…」