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刻まれた溝

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 俺は息を大きく吐き出した。

「…やはりお気づきではございませんか。何もかもご承知の上で、さらに私のこの口から何を聞きだそうとしておられるのです?」
「何もかも承知なんてしてねぇ。チカちゃんが罪だと思う理由も全くわからねぇし、だからって、その態度と言葉遣いにする理由もわからねぇ」
「簡単なこと」

 俺は伊達殿を右目でしっかりと見つめた。伊達殿の左目は俺の顔を捕らえていて、お互い、片方の目で腹の探りあいのようになっている。

「伊達殿がお気になさらなくとも、罪は罪なのでございます。身分、立場をわきまえず、あのような態度をとった手前は罰せられてしかるべき。ただ、それだけのこと。今は立場をわきまえておりますゆえ、このような態度でございます」
「納得いかねぇ」

 伊達殿は大きくかぶりを振った。

「ああ、確かに、チカちゃんと俺は身分に差がある。それは昔からのことであって、俺がそうしたいと思ってそうなったわけじゃねぇ。現に、俺はチカちゃんが身分が下だとか、そんなことを考えて今話してねぇし、この前の戦いのことも、別に無礼だとも思ったりはしてねぇ!」
「……そのお陰で、今、私めはここにおるわけです……」

 伊達殿があの時、無礼な奴だと、上に申し立てたりしておれば、今頃俺は切腹を言い渡されていたに違いない。
 この時代は身分が物を言う。下のものが上に刃向かうなんて事は、もってのほかなのだ。
 だから、知らなかったとはいえ、伊達殿に刃を向けた俺は罰を受けて当然なのである。そのことを伊達殿は公にしていないため、俺が今、ここで普通に暮らせているわけなのだ。

「…俺はあの時、戦っているとはいえ、楽しくてしょうがなかった。ああ、世の中には戦いを楽しんでいる奴が他にもいるんだな、と思って、嬉しかったんだ」

 伊達殿は記憶を辿っているのか、少し遠い目をした。あの日のことは、すぐまぶたの裏に浮かんでくるぐらい鮮明だ。昨日のことではないというのに。

「だから、そのチカちゃんと話をしようと思ってやってきたのに、この態度か!」
「…何と申されても、あの時の私はもういないのです……」
「政宗様! お時間がございませぬ。急いで下さいませ」

 片倉殿がこちらに寄ってきて、伊達殿を急かしている。そういえば、あまり時間が無いと言っていた。何かこの後、用事でも控えているのだろうか。
 ならば、俺との話などさっさと切り上げればよいものを。

「黙ってろ、小十郎。すぐ終わる」

 伊達殿は片倉殿を一睨みしてから、こちらに視線を戻した。

「聞かせろ、チカちゃん。あの時の戦いの間、チカちゃんは、楽しくなかったというのか? あの時のチカちゃんを消してしまうというのか?」

 真剣に俺を見つめてくる伊達殿の目に、危うく吸い込まれそうになる。
 俺は一度目を閉じてから、伊達殿の腕を払いのけた。大きく姿勢を変えて、片膝を立てる。
 それは俺の中で、覚悟を決めたという意志の現れだ。
 この後、切腹を言い渡されても、文句は言えない。それぐらいの覚悟を伴っていた。
 ただ、どうして覚悟を決めようと思ったのかは俺にもわからなかった。

「楽しくなかったわけがないだろ? それはあんたも感じ取ってたと思ったがな?」

 あの時、俺は現に楽しくてしょうがなかった。ずっと戦っていられるなら、幸せだっただろう。
 そう思ったのは初めてだった。
 それほどまでに、あの時間は深く長く感じられたのだ。
 その分、後に残ったものは、ひどく重いものになってしまったのだが。
 伊達殿と俺との間に沈黙が流れる。遠くの方で聞こえる波の音は、俺達の距離を縮めるのか、引き裂くのか。

「……Ha! 上等! 今の言葉しっかと聞いた! 俺は何としてもあの時のチカちゃんを取り戻すぜ!」
「……次にお会いすることがあったとしても、俺は…もう、二度と……」
「二度と?」
「政宗様! もう、お時間がございません!」

 片倉殿が、伊達殿の腕を無理やり引っ張って、連れ去っていこうとする。

「二度と何だ? 聞かせろ!」

 俺は伊達殿がわめいているのを無視して、片倉殿に頭を下げた。

「片倉殿、この度は大したおもてなしもできず、誠に申し訳ございません。また、お会いすることがあれば、その時は必ず…」

 片倉殿は、伊達殿を引っ張りながら、軽く笑った。

「こう言っては何ですが、政宗様は割としつこいのでございます。こうと決めたらなかなか引きませんゆえ、どうぞ、ご覚悟の程」
「次にお会いすることができるようであれば、その言葉を思い出すとしましょう」
「では、長曾我部殿、失礼いたします」

 チカちゃん!とわめき続ける伊達殿は、片倉殿に引きずられるようにして、連れて行かれた。
 その後姿を見送って、俺は障子を思い切り閉じた。
 伊達殿と俺との間に二度と埋まることのない一線を引くように。
作品名:刻まれた溝 作家名:藤沢 尊