釣り人日記
最初の変調は息を吹き返した直後にやってきた。オベル王に頼んでここへ住めるよう手配してもらえたのは僥倖だった、やはり恩は売っておくべきものだと痛感する。この左手のお陰で色々悲劇ぶって持ち上げられたのは幸いだった。どうもオベル人は感傷的になりすぎている気がする。特にあの王様。
ともかく、連絡と生活全般の下支えが必要になる。確かに人の多い場所から離れはしたけれど別に人間をやめたつもりは無い。野外生活も嫌いではないが野生に帰りたいという訳では無い。それなりに文明の香りも恋しい。
という訳でオベルに店を出すはずだったチープーを舌先三寸でだまくらかしてこの島に連れてきた。猫は単純で便利だ。彼はノリノリだし、捕まえた蟹を持っていけば喜んで鍋にしてくれる。色々と得難い人材だ。
暇と言えば暇な日々だが、悪くは無い。天候を読み、蟹を捕まえて、時折遊びに来る人魚と電波満載の会話を交わして、チープーと船からくすねてきた牌でリタポンをやったり手紙を書いたり、あとは釣り。
変調の事はまだチープーは気付いていない。人魚は、あれはまあ死ぬまで気付かないだろう。オベルとラズリルから手紙が届いたが、まだ返事は一度も出していない。書いた手紙はいつもその日の最後に焚き火にくべている。夕焼けの中紫にたなびく煙を眺めて一日が終了する、そんな日々の繰り返しだ。
悪くは無い。
そんな感じで一週間ほどが過ぎた。島の外では事後処理やら何やらで騒がしい。あの王様も例のチンドン屋ルックで偉そうに演説しているかもしれない。それはちょっと見てみたかった気がするが、何故か赤い派手な格好をさせられて人前に押し出されそうな予感がしたのでそのまま島に引き籠もることにした。
釣りは楽しい。毎日ポイントを変えて歩き回っている。タルが以前やたらと勧めてきた意味がちょっと分かった気がする。天候を読み、潮を読み、地形を探って、餌の種類や仕掛けの形も工夫するのが楽しい。天気の悪い日は一日疑似餌や針や釣り糸をいじるのが習慣になりつつある。タルに会ったら褒めてもらえるだろうか。彼と会う予定は今の所全く無いし、彼からの手紙にも返事を出していないけれど。
最近気に入りなのは、いつぞや流刑船が乗り上げた海岸と真逆のやや入り組んだ磯辺だ。背後は切り立った崖になっているので、少し離れた場所から岩を伝って行かねばならないが、釣りポイントとしてはなかなかのものだった。
今日もその場所で釣り針に餌をつけている。餌はイワシのすり身に虫の子を練り込んだものを利用している。悪くは無いが、作っている最中暗黒料理を仕込んでいる気分になった。これを鍋に入れたらどうなるだろう。今度チープーに食べさせてみようか。たぶん大丈夫だろう、猫だし。
順調に何匹か釣れた所で、糸を投げ入れた瞬間横風が大きく吹いた。針先が流れて岩場の影に引っかかってとれなくなる。たまにあることだが、面倒くさい。しかも今回は位置が悪い、完全に死角だし別の場所から大きく回って下に降りなくてはいけない。
しぶしぶ立ち上がる。魚を釣りに来て岩を釣っただなんて冗談にもならない。
しかしその感想はやや外れた。
針は岩場にひっかかっていなかった。その代わり謎の物体に引っかかっていた。そういえば今日は岸壁にゴミがやたらと打ち寄せられていたなと思い出す。ゴミというのはいわゆる海のゴミ、海中に投棄された人由来の何らかの物体だ。あるいは難破船の残骸などの類。今回は後者のようだった。
最初は死体かと思った。周囲にやや大きめの残骸が散っているのでどうやらこれに引っかかってここまで流されたものらしい。自分も経験者であるからそういった奇縁がある事はよく認識している。
しかしこれは食べられるのだろうか。糸は布地に刺さっていた。その際餌はとれてしまったらしい。よくよく観察するとまだ息があるようだった。これだけ大物だと血抜きが面倒そうだ。
まあ、喜ぶべきだろう。岩の代わりに人生最大の大物が釣れたのだ。
……現在住んでいる小屋に墨はあっただろうか。どうせなら魚拓を取りたい。
ソレが目を覚ましたのは丁度顔の部分にインクを塗っている最中だった。手紙に返事をあまり書かなくて良かったと思いながら丁寧に筆で塗っていたのだが、どうやらそれが刺激になったものらしい。
派手にくしゃみをされて、インクがこちらにまで飛んできた。黒い服で良かったと思うのはこういう時だ。シミはあまり目立たないだろう。
ばっちりと目を開けて、相手はしばらく呆然としているようだった。こちらの顔を凝視している。何か言いかけて黙り、そして周囲に立ちこめたインクの香りとこちらが手にしているインク壺と筆、そして自分が何をされていたのかという事に気がついたらしい。
「貴様は何をしているのだ!」
「魚拓」
「………」
ソレは押し黙った。呆然としている。ついでに顔色も悪い、……気がする。インクで黒いのでよく判らないが。定番だしな、と思い側の水差しを差し出した。要するにこれはこの家を生け簀にしろという事なのだろう。まあ、今の所食べる物には困っていないし、ソレより他の魚の方がどう考えても美味そうだ。
渡された水を一気に飲んで、ソレはぐったりとなった。また気を失ってしまったようだ。いきなり怒鳴るからだな、どうやら頭はあまり良く無さそうだ。まあ意識が無い方がこちらとしては都合が良い。
魚拓が取りやすいから。
大物を釣ってから何日か過ぎた。
生け簀に入れなくても大丈夫というのは便利だと思う。最低限の設備しかないから、そういった類のものはこの島には無い。餌も自分の食事と同じ物でいいから簡単だった。作る食事の量を倍にすればいいだけだ。
最初は元気だと思ったが、あれは驚愕と釣られた事に対するなにがしかの思惑が重なって一瞬気力が出たというだけだったらしい。せっかく釣り上げた獲物を死なせるのも惜しいので面倒を見た。
あちこち傷もついていたし、最初のうちは餌をちゃんと食べなかった。何度か無理矢理口の中にねじ込んだら、そのうち自発的に食べるようになった。良い傾向だ。
寝ている間に魚拓も改めて取ったのだが、感想を聞きたくて見せてみたらひったくられてビリビリに破かれた。どうやらそれでまた体力を使ったらしく肩で息をしている。
「頭の悪い魚だ」
「誰が魚だ!」
「叫ぶとまた倒れるぞ。やっぱり頭が悪いな」
魚男は押し黙った。自分と猫しかいない島に魚男が増えたと思えばなかなかに楽しい。何やらぶつぶつと呟いているようだったが、それは無視して餌を用意した。
猫、じゃなくてチープーが荷物を届けに来た。こりゃまた凄いのを釣ったね、と呆れたように尻尾を振っている。生け簀が要らないし餌も簡単だから楽でいい、でも未だにまともに魚拓を取らせてくれないというと、呆れ果てたようにため息をつかれた。
チープーを見て、魚男も驚いていた。どうやら他に猫がいるとは思わなかったらしい。そういえば猫のことを魚に伝える事を忘れていた。
そこまで考えて、色々面倒になった。猫に後を任せる事にした。
「俺、釣りに行ってくる」
「うん、気をつけてね」
今日は何が釣れるだろうか。
「おい、そこのネコボルト」
「オレの事?オレ、チープーって名前があるんだけど」
ともかく、連絡と生活全般の下支えが必要になる。確かに人の多い場所から離れはしたけれど別に人間をやめたつもりは無い。野外生活も嫌いではないが野生に帰りたいという訳では無い。それなりに文明の香りも恋しい。
という訳でオベルに店を出すはずだったチープーを舌先三寸でだまくらかしてこの島に連れてきた。猫は単純で便利だ。彼はノリノリだし、捕まえた蟹を持っていけば喜んで鍋にしてくれる。色々と得難い人材だ。
暇と言えば暇な日々だが、悪くは無い。天候を読み、蟹を捕まえて、時折遊びに来る人魚と電波満載の会話を交わして、チープーと船からくすねてきた牌でリタポンをやったり手紙を書いたり、あとは釣り。
変調の事はまだチープーは気付いていない。人魚は、あれはまあ死ぬまで気付かないだろう。オベルとラズリルから手紙が届いたが、まだ返事は一度も出していない。書いた手紙はいつもその日の最後に焚き火にくべている。夕焼けの中紫にたなびく煙を眺めて一日が終了する、そんな日々の繰り返しだ。
悪くは無い。
そんな感じで一週間ほどが過ぎた。島の外では事後処理やら何やらで騒がしい。あの王様も例のチンドン屋ルックで偉そうに演説しているかもしれない。それはちょっと見てみたかった気がするが、何故か赤い派手な格好をさせられて人前に押し出されそうな予感がしたのでそのまま島に引き籠もることにした。
釣りは楽しい。毎日ポイントを変えて歩き回っている。タルが以前やたらと勧めてきた意味がちょっと分かった気がする。天候を読み、潮を読み、地形を探って、餌の種類や仕掛けの形も工夫するのが楽しい。天気の悪い日は一日疑似餌や針や釣り糸をいじるのが習慣になりつつある。タルに会ったら褒めてもらえるだろうか。彼と会う予定は今の所全く無いし、彼からの手紙にも返事を出していないけれど。
最近気に入りなのは、いつぞや流刑船が乗り上げた海岸と真逆のやや入り組んだ磯辺だ。背後は切り立った崖になっているので、少し離れた場所から岩を伝って行かねばならないが、釣りポイントとしてはなかなかのものだった。
今日もその場所で釣り針に餌をつけている。餌はイワシのすり身に虫の子を練り込んだものを利用している。悪くは無いが、作っている最中暗黒料理を仕込んでいる気分になった。これを鍋に入れたらどうなるだろう。今度チープーに食べさせてみようか。たぶん大丈夫だろう、猫だし。
順調に何匹か釣れた所で、糸を投げ入れた瞬間横風が大きく吹いた。針先が流れて岩場の影に引っかかってとれなくなる。たまにあることだが、面倒くさい。しかも今回は位置が悪い、完全に死角だし別の場所から大きく回って下に降りなくてはいけない。
しぶしぶ立ち上がる。魚を釣りに来て岩を釣っただなんて冗談にもならない。
しかしその感想はやや外れた。
針は岩場にひっかかっていなかった。その代わり謎の物体に引っかかっていた。そういえば今日は岸壁にゴミがやたらと打ち寄せられていたなと思い出す。ゴミというのはいわゆる海のゴミ、海中に投棄された人由来の何らかの物体だ。あるいは難破船の残骸などの類。今回は後者のようだった。
最初は死体かと思った。周囲にやや大きめの残骸が散っているのでどうやらこれに引っかかってここまで流されたものらしい。自分も経験者であるからそういった奇縁がある事はよく認識している。
しかしこれは食べられるのだろうか。糸は布地に刺さっていた。その際餌はとれてしまったらしい。よくよく観察するとまだ息があるようだった。これだけ大物だと血抜きが面倒そうだ。
まあ、喜ぶべきだろう。岩の代わりに人生最大の大物が釣れたのだ。
……現在住んでいる小屋に墨はあっただろうか。どうせなら魚拓を取りたい。
ソレが目を覚ましたのは丁度顔の部分にインクを塗っている最中だった。手紙に返事をあまり書かなくて良かったと思いながら丁寧に筆で塗っていたのだが、どうやらそれが刺激になったものらしい。
派手にくしゃみをされて、インクがこちらにまで飛んできた。黒い服で良かったと思うのはこういう時だ。シミはあまり目立たないだろう。
ばっちりと目を開けて、相手はしばらく呆然としているようだった。こちらの顔を凝視している。何か言いかけて黙り、そして周囲に立ちこめたインクの香りとこちらが手にしているインク壺と筆、そして自分が何をされていたのかという事に気がついたらしい。
「貴様は何をしているのだ!」
「魚拓」
「………」
ソレは押し黙った。呆然としている。ついでに顔色も悪い、……気がする。インクで黒いのでよく判らないが。定番だしな、と思い側の水差しを差し出した。要するにこれはこの家を生け簀にしろという事なのだろう。まあ、今の所食べる物には困っていないし、ソレより他の魚の方がどう考えても美味そうだ。
渡された水を一気に飲んで、ソレはぐったりとなった。また気を失ってしまったようだ。いきなり怒鳴るからだな、どうやら頭はあまり良く無さそうだ。まあ意識が無い方がこちらとしては都合が良い。
魚拓が取りやすいから。
大物を釣ってから何日か過ぎた。
生け簀に入れなくても大丈夫というのは便利だと思う。最低限の設備しかないから、そういった類のものはこの島には無い。餌も自分の食事と同じ物でいいから簡単だった。作る食事の量を倍にすればいいだけだ。
最初は元気だと思ったが、あれは驚愕と釣られた事に対するなにがしかの思惑が重なって一瞬気力が出たというだけだったらしい。せっかく釣り上げた獲物を死なせるのも惜しいので面倒を見た。
あちこち傷もついていたし、最初のうちは餌をちゃんと食べなかった。何度か無理矢理口の中にねじ込んだら、そのうち自発的に食べるようになった。良い傾向だ。
寝ている間に魚拓も改めて取ったのだが、感想を聞きたくて見せてみたらひったくられてビリビリに破かれた。どうやらそれでまた体力を使ったらしく肩で息をしている。
「頭の悪い魚だ」
「誰が魚だ!」
「叫ぶとまた倒れるぞ。やっぱり頭が悪いな」
魚男は押し黙った。自分と猫しかいない島に魚男が増えたと思えばなかなかに楽しい。何やらぶつぶつと呟いているようだったが、それは無視して餌を用意した。
猫、じゃなくてチープーが荷物を届けに来た。こりゃまた凄いのを釣ったね、と呆れたように尻尾を振っている。生け簀が要らないし餌も簡単だから楽でいい、でも未だにまともに魚拓を取らせてくれないというと、呆れ果てたようにため息をつかれた。
チープーを見て、魚男も驚いていた。どうやら他に猫がいるとは思わなかったらしい。そういえば猫のことを魚に伝える事を忘れていた。
そこまで考えて、色々面倒になった。猫に後を任せる事にした。
「俺、釣りに行ってくる」
「うん、気をつけてね」
今日は何が釣れるだろうか。
「おい、そこのネコボルト」
「オレの事?オレ、チープーって名前があるんだけど」