釣り人日記
「……チープー。何なのだ、あの男は。……あいつは確か」
「あ、うん。あんたの思う通りだよ、オレ達のリーダーだったんだ。少し前まで」
「……今は違うのか」
「そっか、あの後何があったか知らないんだっけ。エルイール要塞が爆発した事とか」
「爆発……紋章砲の暴走か?」
「よくわかんないけど、たぶんそうじゃないかなーってみんな言ってたよ。あんたは行方不明になって、たぶんクールーク側では死んだことになってるんじゃないかな。今は停戦中でよくわかんないけど」
「……そうか」
「で、オレ達のリーダーも一回死んだ」
「死んだ?」
「罰の紋章を使ったんだよね、エルイールの爆発に艦隊ごと巻き込まれそうになったから。みんな助かったけど、ばったり倒れて心臓が止まった」
「……元気そうに見えるのだが」
「うん。何か生き返っちゃって。それで今はあんな感じかな」
「ふん……生き返る時に何か忘れてきたのではないか。どう考えてもおかしいだろう、あの男は」
「そうなんだよね」
「……?」
ネコボルトの表情は判りづらい。慣れていれば喜怒哀楽もしっかり把握できるらしいが、間近に接したことがあまりないので、相手の感情を読み取るには声音から推察する他に無い。
今の声音は、明らかに暗い調子だった。よく見ると耳も少し萎れている。これが普通の人間ならば、さしずめ眉根を寄せて沈んだ表情を見せているといった所なのだろうか。
「何があった?」
「んー。オレから言える事じゃないかなぁ。今の状況って結構奇跡的なんだよね」
「お前の言う事も訳がわからん」
「うん、判んなくていいと思うよ。あのさ、魚拓はおいといて、少しでも仲良くしてあげてくんない?」
「……私が、か」
「あんたオレ達の仲間じゃなかったからさ」
やはり意味不明の事を言い置いて、チープーという名のネコボルトは尻尾を振りながら去っていってしまった。どうやら島の反対側に船着き場があって、彼はそこで暮らしているらしい。
そういえばネコボルトにはマイペースな者が多いとか。ずいぶん昔に話半分に聞いた知識がふと脳裏に浮かんだ。そして、彼らのリーダーであったはずの少年はさらに輪をかけたマイペース加減だった。
魚はあまり釣れなかったが、川岸で沢蟹が捕れた。巨大蟹ほど食べる所は無いが、その分味が締まっていて、汁物にすると甲羅ごと食べる事もできる。出汁が出てなかなかに旨い。昔漁師を目指していたという仲間に教えて貰った食べ方だが、最近ではこれにもハマっている。
魚男もこの食べ物は嫌いでは無いらしい。どうやらチープーと色々話したらしく、時折海を眺めたりこちらを眺めたりしながら考え事をしている。言いたい事があればすっぱり口に出せばいいのに、面倒な魚男だ。
「おい魚。言いたい事があれば言え」
「貴様の態度は最悪だな」
「釣られた魚風情が態度がでかいな。俺が世話しなかったら今頃汁の具だぞ」
「………」
呆れたようにため息をついて、魚はこちらを睨んできた。良い目だな、と思う。生きている目だ。死んだ魚とは違う。
「あの猫から聞いた。お前が一度死んで生き返ったと。……今が停戦状態だという事、私が行方不明扱いになっている事も」
「後の二つはよく判らないけれど、死んで生き返ったのはその通りだな」
「お前は一応群島連合軍の首魁を務めていたのではなかったのか」
「今はもうお暇をもらった。それに俺は死んだ人間だよ」
「生き返ったと今言ったではないか。……現に今、生きている」
「生きているのはあんたの方だな、魚」
今は島の形をした生け簀で泳いでいるけれど、その気になれば海の果てまで泳いでいける。例え国に戻れなくても、この魚はどこなりとも生きていけるだろう。多くの仲間達の中で。
でも、その前にやりたい事がある。
「……お前の言う事は本当に訳が分からんな」
「俺が魚に願う事は一つだけだ。是非魚拓を取らせて欲しい」
「断る!」
一体己は何をしているのだろう。そんな事を日々考えている。
どうやら助かったらしいと気付き、自分を助けた相手の正体を悟って愕然とした。そしてその人物像に呆然とした。まさかここまで変人とは思ってもみなかった。
しかし最初のうちは体力も落ち、傷が熱を持って思うままに動く事もできなかった。変人だったが、少年はずいぶんとマメだった。毎日せっせと傷を清め、胃に負担がかからなさそうな食べ物と水を枕元に運んできた。最初のうちは食べる気も起こらなかったのだが、業を煮やしたのかかなり強引な手を使われたので仕方なく食べる努力をするようになった。
人間とは現金なもので、体力が戻り傷が癒えると少しずつ気力と考える余裕も生まれてくる。完全に回復した訳では無いが、一度訊ねてきたネコボルトと会話を交わしたことでこれから先の事を考えるようにもなった。
故国がどうなったのか、全く気にならないと言えば嘘になる。詳しい情報を引き出せそうなのはあのネコボルトぐらいというのが痛かった。己を助けた少年は、ある程度健康を回復した後はすっかり魚扱いで隙あらば彼の言う「魚拓」を取ろうと狙っているようにしか見えない。一応食事の用意はしてくれているので全く世話になっていないという訳では無いのだが。
肉体的な面で一番の問題は、左足がうまく動かないという事だった。どうやら打ち上げられる際にぶつけた位置が悪かったらしい。また以前のようにちゃんと歩けるようになるかは判断がつかず、足を引きずりながら寝起きしている粗末な小屋の回りをふらふら歩き回る事しかできないのが現状だ。故に、島の向こう側にいるネコボルトの元に話を聞きに行くこともできない。
結局、今は己を魚扱いする奇妙な少年の世話になるしかない。
そして、有り余った時間、ずっとこれまでの事とこれからの事、そして寝起きを共にする少年の事を考えている。
「おい魚。手伝え」
「………」
よくよく考えると、連合軍リーダーだった少年がこちらの名前を知らないはずがない。逆にこちらも彼の名前を知っているのだが、名を呼ばないのは延々と魚扱いされる事に対するささやかな意趣返しだった。大変残念な事に、相手はその事について欠片も堪えた様子を見せず、日々魚魚と呼びつけてくる。
すっかり慣れてしまった自分を悲しみつつ、手渡されたものを眺める。どうやら水洗いした芋のようだ。皮を剥け、という事らしい。
少年は目の前に座りこんで、くるくると器用に皮を剥き始めた。
「……慣れたものだな」
「人を殺すよりは楽な仕事だ」
こちらが顔をしかめた事には気付いているだろうが、表情をぴくりとも変えず実に慣れた手つきで芋を処理していく。
伏し目がちのその顔を眺めて、今更ながらずいぶんと端正な顔立ちをしているのだと気がついた。あまりそう意識しなかったのは、常日頃の奇天烈な言動もさることながら、汚れて埃っぽい髪や荒れるままに任せた、やはり砂粒や泥がこびりついた肌のせいだろう。時折水を頭から被っている所を見た事はあるが、海に落ちた後そのまま身を清めもせずに寝てしまう所も見た事がある。虫さされの跡も多く、彼はいつも薄汚れていた。