釣り人日記
「もう少し、生きていたかった。人の中で」
「…………」
「きっとあんたがこの島を離れたら、あんたの顔も声も全部そのうち忘れてしまう。魚拓取っとけば少しは覚えてるかと思ったけど……」
「それであんな妙な事をしていたのか」
「ま、趣味でもあるけど。あんたをからかうのは面白かった。でもその分気は紛れただろう」
確かにその通りだった。あれこれちょっかいを出してくる彼の相手をしている間に、死なずに生き残った事や戦いに敗れた事に関するあれこれとした悩みはどこかに消えてしまった。
ふと目を遣ると、少年は笑いを収めてまっすぐにこちらを見ていた。
「少しだけ、また、人間でいられた。あんたには感謝してるよ。………トロイ」
驚いた顔が面白かったのだろうか、少年は笑った。苦笑ではなく普通の笑顔だった。
手を伸ばし、いつかのように頬に触れる。彼は全く抵抗しなかった。別にお前の身体を使う訳じゃない、と告げると、判った、と頷いて彼はまた笑って、こんな事ならもう少し綺麗にしておけば良かったかなと呟いた。
釣った魚は、食べる分以外は海に返す。針が取れなくて死んでしまったものも、還す。いつか釣り上げた陸で生きる魚もまた海へ戻っていく。見知らぬ世界、……もう覚えていない場所。
別れ際に彼が置いて行ったのは、名前だった。私の名前を覚えていてくれた礼だと言われた。どうして礼を言われるのかよく判らないが、たぶん礼を言われるような事なのだろう。思考力も少しずつ失われている事は分かっていた。
その名前は、聞き覚えのない名前で、それなのに少し懐かしかった。誰の名前、と訊ねると、彼は少し奇妙な表情を浮かべてから、私が知っているある勇敢な少年の名前だと呟いた。
大事な名前だから、私の名前を忘れた後も覚えておけ。
それが、海の向こうに去っていった魚が最後に残していった言葉だった。
でも、ごめん。もうその名前も忘れてしまったよ。
あんたの名前はまだ覚えているけどね、トロイ。
バケツを持ち上げ、岩場に向かう。釣りは楽しい。
海の向こうの知らない場所からきた魚達と共に、名前を無くした少年は今日も生きている。