釣り人日記
奇妙な違和感が胸の奥に沸いた。彼は、あまり動けない自分のために、毎日一度は塩分を含まない水と身体を拭うための布を運んでくる。その布も使う事にきっちりと洗って干しているようだった。
別に面倒がりという訳ではないと感じる。自分の事に対してとことんかまわない、というよりもやる気がない。それ以外の事に関してはむしろ律儀でよく動き回る。そういった印象だった。
「……手を切るぞ、魚」
ため息をついて彼は手にしていた小刀を地面に置いた。荒れた肌がふと惜しくなって、手を伸ばし触れてみたのだ。想像通り彼の頬はざらざらしていた。砂粒と塩の感触だ。もう一度小さくため息をつき、少年は僅かに首を振った。ぱさりと触れた指先にかかった毛先は日に焼けて薄く脱色し、お世辞にも清潔とは言い難かった。
「物好きな魚だな。それともアレか。溜まったのか」
「……お前は品も無いのか」
「率直に質問しているだけだ。……まあ、魚が俺の身体を使いたいのなら好きにすればいい」
とんでもない事を平然と口にすると、彼はこちらの手元にあった残りの芋も全部回収してさっさと全部剥いてしまった。その間、少し呆気にとられて彼の顔を眺めていた。頭の片隅で、何かが警告を発していた。
この少年は、どこかおかしい。
猫が荷物を届けに来た。はいこれ、ラズリルからの分もあるよ、と包みを渡された。最初のうちは嬉しかったのに、何故か既に酷く億劫になっている。そんな様子が伝わったのか、猫も少し萎れているようだった。
「ね、オレまだ何かできることある?」
「……魚が話をしたがっていた」
「魚?あー……うん、あの人ね。うんうん。判ったよ」
猫が頷いているのを見て、小屋の裏手に向かった。石積のかまどを作ってくれたのは手紙をくれた連中の中の一人だった気がする。結構長い間使っているから、扱いも慣れたものだ。
火を熾して、包みをその中に放り込んだ。最後に返事を書いたのはいつだったろうか。
「あー、いたいた。ひなたぼっこ?気持ちいいよね」
「……チープーだったか」
「そうそう」
こくこくと首を振っている。一緒に尻尾も揺れているが、これは喜んでいるのだろうかと考える。表情があまり動かないので感情が読めないのは相変わらずだ。
……考えたら、あの少年も無表情だ。何を考えているか判らないという所まで目の前のネコボルトと似通っている。ただ、決定的に違うのは、目の前のネコボルトは判りづらいだけではっきりと感情を表しているという点だった。
「お前にいくつか訊きたい事がある」
「クールークの事?オレも一応少し調べたんだけど」
「……それもあるが、知りたいのはあの男の事だ」
「ああ、うん……そう、あっちね。うん、そうだよね」
また何度か頷くと、ネコボルトはぺたりと隣に座りこんだ。尻尾は揺れず、だらしなく地面に垂れている。
「率直に訊く。あの男は少し狂っているのではないか」
「本当に率直だねぇ。でも、そう感じたんだ、やっぱり」
「やっぱり、という事は、やはり……」
「狂っているっていうより……壊れてる、かな」
「同じではないのか」
「ううん……何だろう、本人も頑張って直そうとしてるんだけど、片っ端から壊れちゃうみたいでね。手がつけられなくなる前に誰もいない場所に引き籠もるって事になったみたい」
「……意味が分からん」
「口では説明しにくいからなぁ。でも、オレも最初は何だろうって思ってたけど、少しずつ判ってきたな」
「参考までに、どう判ったか訊いてもかまわないか」
「ん、いいよ。なんか、色々忘れちゃってるなって思った」
「忘れる……」
「うん。確かにそうだなとは思ってた。でも、その事に本人も気付いてない……っていうか、それ自体もう頭の中に残ってないんだと思う」
「何を?」
「自分の名前」
彼は、もう自分の名前を忘れ、人々がその事に気付いている事も忘れている。
猫が帰ったぞ、と声をかけると、ああそう、と気のない返事が返ってきた。
「……奴はお前の仲間だったのだろう」
「そうだっけ」
「忘れたのか?」
「そうかもね。変な猫だとは思ってたけど」
「……ネコボルトだろう」
「何それ」
悪い冗談かとも思ったが、話を聞いてしまった以上もはやそうとは思えなかった。目の前の少年は、同じ島で彼のため窓口を作っているネコボルトの存在も忘れかけているのだ。
海がよく見える場所だった。柔らかい砂地の上に座りこんだ彼の足にやたらと砂粒がくっついていて、よく見ると水を浴びた直後だったらしい。しかしまともに拭かずに砂地にやってきたらしく、全身あちこちに砂がへばりついて色々台無しという風情だった。
隣に座っても、彼は黙って反応しなかった。ただひたすら海をまっすぐに見ているだけだった。海と同じ色をした瞳が、妙に虚ろだった。
一度死んで生き返ったという彼は、死の国に大事な物を落としてきてしまったのだろうか。
「あのネコボルトから色々お前の事を訊いた。……どこまで覚えている?」
「……海は全てが還る場所。俺はそこに還り損なった」
「それは私も同じだな」
「うん。同類だな、俺も魚だ。でも、もう死んだ魚だから」
「……お前は生きているだろう」
唐突に少年は振り返った。虚ろだった瞳には、強い光が宿っていた。見ているだけで吸い込まれそうになる強烈な力。……クールークと真っ向から戦った軍を率いた人間の目だ、初めてそう感じた。
「俺はもう単なる残りカス。抜け殻だよ」
「……だが、生きている」
「どんどん忘れてしまう。最初が自分の名前で、頑張って思い出そうとしたら今度は別の事を忘れた。次々に思い出していって、気がついたら最初に忘れた事が何だったか忘れていて、人から教えられてやっと気がついた。……その事もそのうち忘れてしまうんだよ」
受け取った手紙が嬉しくて、それなのに送り主の名前がもう半分以上判らなくなっていた。判らない名前は日に日に増える。気がつけば全員見知らぬ名前で、ある日読み返そうとして文字が読めなくなっている事に気がついた。そうと悟って、返事だけではなくもらった手紙も全部焼いた。もうそれは意味のない物体だった。
そうやって全てが抜け落ちていって、最後に残るのは何なのだろうか。
「……あんたの、足。治すことできるよ」
「いきなり何を言う」
「この紋章は、どうやら癒す力もあるみたいだ。俺があんたを傷つける意図がなければ、その足もたぶんちゃんと動くようになる。そうすれば猫の近くの船着き場から海の果てまで」
「お前はどうなる」
言葉を遮られ、小さくため息をついた。強情な魚だ。
「俺はもうこの生け簀で生きていく事しかできない。あんたはまだ生きている魚だ」
「………」
「猫から、あんたの元々いた場所の事情も聞いたんだろう」
「……ああ」
「なら、もう外に出ても大丈夫だな」
「お前は……あのネコボルトから私が話を聞くのを待っていたのか?」
「違うよ」
あっさりと即答して、少年は苦笑した。その顔に違和感を感じ、思えば彼がまともに表情を動かしたのはこれが初めてなのだと気がついた。
苦笑を唇と目元に残したまま、少年は小さく首を振った。
「単なる未練だよ」
「私が、か?」