LOST ②
寝ぼけた頭で洗面台の前に立ち、冬の冷たい水で顔を洗う。皮膚を刺すような冷たさに、脳が強制的に目を覚ます。顔を洗い終わり止めていた息を吐き出して、手近にあるタオルで顔を拭き終わると、正面にある鏡で平古場は自身の顔をじっと見つめた。
肩まで伸びた明るい金色の髪、整えられた眉、二重の瞼、やや大きめの黒い瞳、筋の通った鼻、少し口角の上がった唇。どれもこれもいつも通りで、何一つ変わった所など無くそこに存在していた。
平古場は、鏡に向って笑ってみる。
そうすれば、いつものどこか余裕のある、楽しげな笑みを浮かべた己が鏡の中にいた。笑えたことにほっと胸を撫で下ろし、気合を入れるために軽く頬を叩いてからもう一度鏡を見つめる。いつも通り『笑えている』と心の中で何度も反芻しながら、朝食を食べる為に居間へと向かって歩き出した。
何度も、何度も、何度も。心の中で自分自身に暗示をかけるように『大丈夫だ』を繰り返す。そうしなければ、胸を襲う不安と恐怖で足がすくみそうだったからだ。
木手と顔を合わすことも話をすることも、ましてや学校へ行くことさえも本当は怖くて仕方なかった。怯える自身を毎朝必死に押さえ込むことで、やっと前へと一歩、歩き出す事が出来る。
だから、想像して繰り返す。何事も無かったかのように振舞う為に、いつも木手に対して見せる、余裕のある笑顔を浮かべて軽口をたたく姿を。
告白する前の様な関係に戻るためにはそうするしか無いと思った。
いつも通りに笑って、何事もなかったかの様に木手に接すると決めたのは平古場だ。
本当はそんな事はしたくはなかった。
けれど、それを貫き通した所で木手にその気が無いのであれば、お互いの関係は今以上に悪化するだけだ。平古場と木手がぎくしゃくとした関係でいれば、他の部員達は不信に思うだろう。それは、木手の望むことではないと思うし、他の部員に心配をかけるのも嫌だった。ならば、平古場が告白した事実を無かったことにするしか他に方法を思いつかなかった。
そうして、平古場は張りぼての日々を繰り返し過ごした。
***
平古場が木手に告白したあの日からもう一月以上が経過した。告白を受けた日以来、平古場の様子は何時もと変わることはなく、寧ろ真面目に練習に来るようにさえなっていた。
告白された次の日、部活を休んだ平古場にこのままもう部活には来なくなるだろうかと、脳裏をよぎった考えは、休日が明けた月曜日の朝錬に姿を現した平古場によって杞憂に終わったことを知った。知念の話によれば、前日の日曜日は真面目に沖縄武術の稽古をする為に道場へと通っていたらしい。
部活での態度もいつも通りで、甲斐や田二志とふざけ合ったり、からかい合ったりしては笑い合っていた。木手に対しては、さすがにいつも通りとはいかない様だったが、一週間も過ぎた頃には告白前と変わらない関係に戻っていた。
練習中に無駄口を叩いては怒られて、己の意に反する命令には逆らって、他愛無い会話に声を上げて笑って、平古場が見せる何も無かったかのような振る舞いに、特に木手も告白のことを蒸し返すようなことはしなかった。木手の隣で笑って、怒って、悲しんで、拗ねて、そして時折切なそうな表情を見せる。
ただ、それだけだった。
木手にとってみれば、平古場が部活に来なくなるのは比嘉中の戦力的に痛手だと思っていた。けれど、このまま来ないというなら、ただの足手まといとして切り捨てるべきかと考えていた。平古場の存在などその程度の認識しか木手の中には無かった。今までずっと仲間として過ごして来たけれど、木手にとって何よりも大切で重要なことは、テニスで全国大会へと出場し優勝することだ。そうしなければ、沖縄の力を示すことが出来ない。
それは、木手にとって何よりも譲れないものだった。それを阻む原因があるならば排除するし、脅してでも平古場を部活へと呼び寄せる手段も考えていた。
けれど、予想に反して平古場は部活に今まで以上に真面目に参加していた。朝錬も遅刻してばかりだったのにあの日以来送れてくることは無くなった。
それだけがいつもとは違っていたのだけれど。
特に理由を聞いたことは無かったが、真面目に部活に取り組むのは木手にとっても歓迎すべきことだった。木手の機嫌をとる為の行動かまでは判断がつかなかったが、平古場の性格を考えてみても、馬鹿ではないがそこまで他人に気を回す男でもない様な気がした。それも三日坊主で終わるかと思っていたが、今日までずっと続いている。
そして、放課後の部活にも真面目に取り組む姿を見て、何もなかったことにしたいのか、冗談だったのだろうと平古場の心情を察して、木手自身もそれきり忘れることにした。集中すべきは来年の全国大会で、いつまでも平古場一人に時間を割く訳にはいかなかった。
そうして、それぞれの胸の奥底に仕舞われた、決して消えることのない想いだけを残して日常は過ぎて行った。
言葉では言い表せない違和感だけが二人の間に漂っていたが、それを指摘する人もおらずまた本人達も触れたくない問題なだけに、目を逸らしたままの状態になっていた。
解決する為には向き合うしかないが、それも時間が解決するだろうと、向き合う勇気すら持てず見えない振りを続けることしか出来なかった。
忘れることで進むしかないと思っていた。
そして、時間はただ過ぎて、クリスマスが目前に迫っていた。
部活が終わった後に、暇な部員達でテニスコートの近くにあるがじゅまるに、クリスマスツリーの代わりに飾り付けをしていた。
それぞれ、持ち寄った飾りつけをあちこちにつけていく。高い場所は田二志や知念が中心になって飾り、足りない飾りは新垣や平古場達が新しく作り、甲斐は気があちこちに散ってしまうのか色んな場所を行ったり来たりしていた。
「冷えてきたな……」
天を仰げば、突き抜けるような青だった空は茜色から藍色へと美しいグラデーションを帯びた空へと変化していた。夜の気配がゆっくりと近づいて来ている。
昼間は気温が高かったため上着を脱いで過ごしていたが、夕方になれば少し気温が下がってきたためか風が冷たさを増した感じがした。部活後は暑かったし作業に集中していた為か、それほど寒さを感じなかったので黒いシャツだけで良かったが、さすがに日が沈みかけてくると肌寒さを感じた。
部室へと駆け込み上着を羽織る為にロッカーを探したが見当たらず、よくよく思い返せば教室に置いたままにしていたことを思い出した。
知念や甲斐達には先に帰るように促して、平古場は荷物を肩に担いで急いで教室へと向った。部室の時計を見れば、最終下校時刻が迫りつつあった。
肩まで伸びた明るい金色の髪、整えられた眉、二重の瞼、やや大きめの黒い瞳、筋の通った鼻、少し口角の上がった唇。どれもこれもいつも通りで、何一つ変わった所など無くそこに存在していた。
平古場は、鏡に向って笑ってみる。
そうすれば、いつものどこか余裕のある、楽しげな笑みを浮かべた己が鏡の中にいた。笑えたことにほっと胸を撫で下ろし、気合を入れるために軽く頬を叩いてからもう一度鏡を見つめる。いつも通り『笑えている』と心の中で何度も反芻しながら、朝食を食べる為に居間へと向かって歩き出した。
何度も、何度も、何度も。心の中で自分自身に暗示をかけるように『大丈夫だ』を繰り返す。そうしなければ、胸を襲う不安と恐怖で足がすくみそうだったからだ。
木手と顔を合わすことも話をすることも、ましてや学校へ行くことさえも本当は怖くて仕方なかった。怯える自身を毎朝必死に押さえ込むことで、やっと前へと一歩、歩き出す事が出来る。
だから、想像して繰り返す。何事も無かったかのように振舞う為に、いつも木手に対して見せる、余裕のある笑顔を浮かべて軽口をたたく姿を。
告白する前の様な関係に戻るためにはそうするしか無いと思った。
いつも通りに笑って、何事もなかったかの様に木手に接すると決めたのは平古場だ。
本当はそんな事はしたくはなかった。
けれど、それを貫き通した所で木手にその気が無いのであれば、お互いの関係は今以上に悪化するだけだ。平古場と木手がぎくしゃくとした関係でいれば、他の部員達は不信に思うだろう。それは、木手の望むことではないと思うし、他の部員に心配をかけるのも嫌だった。ならば、平古場が告白した事実を無かったことにするしか他に方法を思いつかなかった。
そうして、平古場は張りぼての日々を繰り返し過ごした。
***
平古場が木手に告白したあの日からもう一月以上が経過した。告白を受けた日以来、平古場の様子は何時もと変わることはなく、寧ろ真面目に練習に来るようにさえなっていた。
告白された次の日、部活を休んだ平古場にこのままもう部活には来なくなるだろうかと、脳裏をよぎった考えは、休日が明けた月曜日の朝錬に姿を現した平古場によって杞憂に終わったことを知った。知念の話によれば、前日の日曜日は真面目に沖縄武術の稽古をする為に道場へと通っていたらしい。
部活での態度もいつも通りで、甲斐や田二志とふざけ合ったり、からかい合ったりしては笑い合っていた。木手に対しては、さすがにいつも通りとはいかない様だったが、一週間も過ぎた頃には告白前と変わらない関係に戻っていた。
練習中に無駄口を叩いては怒られて、己の意に反する命令には逆らって、他愛無い会話に声を上げて笑って、平古場が見せる何も無かったかのような振る舞いに、特に木手も告白のことを蒸し返すようなことはしなかった。木手の隣で笑って、怒って、悲しんで、拗ねて、そして時折切なそうな表情を見せる。
ただ、それだけだった。
木手にとってみれば、平古場が部活に来なくなるのは比嘉中の戦力的に痛手だと思っていた。けれど、このまま来ないというなら、ただの足手まといとして切り捨てるべきかと考えていた。平古場の存在などその程度の認識しか木手の中には無かった。今までずっと仲間として過ごして来たけれど、木手にとって何よりも大切で重要なことは、テニスで全国大会へと出場し優勝することだ。そうしなければ、沖縄の力を示すことが出来ない。
それは、木手にとって何よりも譲れないものだった。それを阻む原因があるならば排除するし、脅してでも平古場を部活へと呼び寄せる手段も考えていた。
けれど、予想に反して平古場は部活に今まで以上に真面目に参加していた。朝錬も遅刻してばかりだったのにあの日以来送れてくることは無くなった。
それだけがいつもとは違っていたのだけれど。
特に理由を聞いたことは無かったが、真面目に部活に取り組むのは木手にとっても歓迎すべきことだった。木手の機嫌をとる為の行動かまでは判断がつかなかったが、平古場の性格を考えてみても、馬鹿ではないがそこまで他人に気を回す男でもない様な気がした。それも三日坊主で終わるかと思っていたが、今日までずっと続いている。
そして、放課後の部活にも真面目に取り組む姿を見て、何もなかったことにしたいのか、冗談だったのだろうと平古場の心情を察して、木手自身もそれきり忘れることにした。集中すべきは来年の全国大会で、いつまでも平古場一人に時間を割く訳にはいかなかった。
そうして、それぞれの胸の奥底に仕舞われた、決して消えることのない想いだけを残して日常は過ぎて行った。
言葉では言い表せない違和感だけが二人の間に漂っていたが、それを指摘する人もおらずまた本人達も触れたくない問題なだけに、目を逸らしたままの状態になっていた。
解決する為には向き合うしかないが、それも時間が解決するだろうと、向き合う勇気すら持てず見えない振りを続けることしか出来なかった。
忘れることで進むしかないと思っていた。
そして、時間はただ過ぎて、クリスマスが目前に迫っていた。
部活が終わった後に、暇な部員達でテニスコートの近くにあるがじゅまるに、クリスマスツリーの代わりに飾り付けをしていた。
それぞれ、持ち寄った飾りつけをあちこちにつけていく。高い場所は田二志や知念が中心になって飾り、足りない飾りは新垣や平古場達が新しく作り、甲斐は気があちこちに散ってしまうのか色んな場所を行ったり来たりしていた。
「冷えてきたな……」
天を仰げば、突き抜けるような青だった空は茜色から藍色へと美しいグラデーションを帯びた空へと変化していた。夜の気配がゆっくりと近づいて来ている。
昼間は気温が高かったため上着を脱いで過ごしていたが、夕方になれば少し気温が下がってきたためか風が冷たさを増した感じがした。部活後は暑かったし作業に集中していた為か、それほど寒さを感じなかったので黒いシャツだけで良かったが、さすがに日が沈みかけてくると肌寒さを感じた。
部室へと駆け込み上着を羽織る為にロッカーを探したが見当たらず、よくよく思い返せば教室に置いたままにしていたことを思い出した。
知念や甲斐達には先に帰るように促して、平古場は荷物を肩に担いで急いで教室へと向った。部室の時計を見れば、最終下校時刻が迫りつつあった。