LOST ②
いつまでもだらだらしていれば、木手に怒られるのは勿論だが早乙女に説教をされてしまう。もし下校時刻を守っていなかったことを知られれば、あの傍若無人な監督がどんな無理難題な特訓メニューを追加してくるか分からない。それだけは避けたくて、校内へと入り下駄箱で上履きに履き替える手間さえ惜しくて靴だけを脱いで教室へと走った。足の裏から伝わる冷たいリノリウムの廊下をひた走り、教室に入り座席に掛かる上着を見つける。机をかき分けるように進み上着を手にとり、それを羽織ると胸に硬い何かがぶつかった。
はっとしたように内ポケットの部分を上から押さえて一瞬だけ顔をしかめた。それ以上は何かを考える素振りは見せず、教室にある時計を確認してまだ時間的に歩いて校門まで行く余裕があることを確認した。
荷物を背負い直して教室を後にし、足元から来る冷たい感触に眉を顰めながら少し早歩きで廊下を進む。渡り廊下に差し掛かった所で反対側から歩いてくる女生徒が見えた。委員会か何かでこんな遅い時間まで残っているのだろうかと不思議に思ったが、それ以上は興味が沸かずそのまますれ違うつもりだった。けれど、平古場を呼び止める予想外の声に強制的に足を止めざるを得なかった。
「あ、平古場先輩だー!」
こちらを見てにこやかに笑う顔は見覚えの無いもので、軽く挨拶を返してそのまま素通りしようとしたが、右腕を捕まれて引き止められた。平古場より少し背の低い少女は、綺麗に染まった栗色の髪と大きな瞳と甘い香りが印象的だった。
「もしかして、これから帰りですかー?だったら、私も一緒に帰っていいですか?」
「はぁ?」
「えぇー……駄目ですかぁ?」
少し上目遣いで見上げてくる瞳を拒みきれずにしぶしぶ了承すると、ぱぁと明るい笑顔を平古場へと向けてきた。とりあえず帰る方向を聞けば平古場の家とは全く逆方向だった。
「校門までじゃねーかよ……」
呆れたように返せば、むっとしたように頬を膨らませて睨みつけてきたが、普段から木手や早乙女の睨みに馴れている平古場にとってみれば可愛いものだった。宥めるように頭を軽く叩いて荷物を取ってくるように促せば、女子生徒は頭に手を置いて何かを考えるように黙り込んだ。
頭に触られたのが嫌だったのだろうかと、謝罪しようとした平古場を遮るように女子生徒が腕を引いた。
「平古場先輩は今、付き合ってる人がいるんですか?」
「……いや、うらんしが」
女子生徒の剣幕に押されてか、無意識に背中がそってしまった。
『付き合っている人』その言葉に、胸に痛みと共に木手の顔が浮かんで消えた。付き合いたいと思っている人はいるけれど、そう平古場は胸の中でだけで答えた。
「じゃあ、私と付き合いませんかぁ~?」
「……付き合いませぇーん!うりー、ふらーあびてぃねーらんで、そーそー鞄とって来い!」
冗談めいた軽いノリの告白に、同じような軽さで返事を返して女子生徒の背中を押した。
平古場の見た目の所為か、こういった軽いノリで告白めいた言葉を口にする異性は多い。それに一々真面目に返答するのはさすがに馬鹿らしいので同じようなノリで返していた。それで今まで特に問題が起こったこともなかった。
「その言い方ひどーい!傷ついたー!!」
「あーはいはい。わっさんわっさん」
「ホントに、悪いと思ってますか?」
「思っとる思っとる」
「……じゃあ、ちゅーしてくれたら許してあげます」
首に掛かる腕の重さを感じながら、にこりと悪戯っぽく笑う女子生徒の顔を見つめた。
ふと、その言葉の通りにキスをすれば、この心に蟠る木手への思いを消化出来るのだろうかと、そんな下らない考えが脳裏を過ぎる。
たぶん、キスしようと思えば出来るだろうと思った。
特に好みのタイプという訳ではないが、嫌いなタイプでもない。けれど、嫌でなければ出来るだろうと思えば思うほど、心が冷えていくような気がするのは何故なのだろうか。
目の前の女子生徒と付き合えば、木手への感情を忘れることが出来るだろうかと考えて、すぐに『無理だ』と否定の答えが心に浮かんだ。そんな考えなど、木手に告白する前に試して全て無駄だと知っているからだ。どれほど好みの可愛い女の子と付き合おうと、目の前の相手を通して木手の面影ばかりを追ってしまう。
風に靡く髪から香る甘い香りも、抱きしめた時の柔らかな感触も、耳に優しく響く高く軽やかな笑い声も、そのどれもが平古場の心を動かすことはなかった。それどころか、木手だったらと考えてしまう。汗と混じった香水の香りや、鍛え抜かれた鋼の様に硬い身体、脳に直接届く様な低く深みのある声がまるで聞いてもいないのに響いてくるようだった。
今だって目の前にいるのは女子生徒なのに、心の片隅に木手の存在を追い求めてしまう平古場自身がいる。それが嫌で振り払うように女子生徒の腕を解いて、頭に手を置いて態と掻き乱す様に撫でながらもっともらしい口調で注意をした。
「冗談でもそんなことあびらんけよ。そういうのは、じゅんにしちゅんな奴んかい言え」
「えー……先輩のこと好きなのに~。あ、もしかして先輩は好きな人いるとか?」
不意を打たれたその言葉に平古場は肩を小さく揺らして反応してしまった。その小さな動きを見逃さなかった女子生徒は驚愕の声を漏らす。しまったと思った時にはもう遅く、腕を捕まれて誰が好きなのかと質問攻めに合ってしまった。
『誰か』何てもちろん言えるはずもなく、せっかく心の片隅から追い出したはずの人物の顔が思い浮かび胸が痛んだ。
「ちゅーする代わりに教えて下さい~」
「あーもう、いい加減にしろ!」
不安定な精神状態の上にしつこく絡んでくる女子生徒が煩わしく、思わず怒鳴るような言葉を口にしてしまった。言いすぎたと思っているのに苛立つ心の所為で、謝る言葉を素直に口にすることが出来なかった。
肩を震わせた女子生徒は、上目づかいに平古場の様子を窺ってきた。表情から本気で怒っているのを読み取ったのか、絡めていた腕を離して一歩下がると俯き加減に頬を膨らませる。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか……冗談なのに!」
「はぁ……?」
「本気にするとかありえなーい!あーあ、何か冷めちゃった」
くるりと身を翻して平古場が歩いていた方向とは逆へと歩き出した。焦って平古場が声をかけると「あ、私やっぱり一人で帰りますね」とあっさりとした返事を返してきた。ぽかんとした表情で、去っていく女子生徒の後ろ姿を見送った後、平古場はその場に崩れるように座り込んだ。
「わっけわからねーらん……」
髪をかきあげながら、女子生徒との会話を思い出す。確かに平古場の不注意な言葉で傷つけたのかも知れないが、あまりの変わり身の早さについていけず何が何だか分からなかった。
ただ、女子生徒が最後に言った『本気にするとかありえない』という言葉だけが頭にこびりついて離れなかった。先に『冗談』だと言って話を取り合わなかったのは平古場の方だったが、余りの展開の速さについていけなかった。
しかし、いつもならもっと上手くかわせるのに、あんな風に心の中にずっと抱えていた苛立ちを、ぶつける様な言葉しか出来なかったのが悔やまれた。
(完全に八つ当たりやっさー……)