マスコット・ラン
1
トントン。トントン。雨が規則正しく窓を叩く。古典部の部室である、ここ地学準備室には雨音とページをめくる紙擦れの音だけが静かに響く。 俺、折木奉太郎と旧友の福部里志は、授業が終わっても帰宅する気分にはなれず、雨が止むまでここで時間を潰していた。
神山高校文化祭、通称カンヤ祭が終わって一週間がたった。待つのが祭り、とは良く言うが今週頭に後片付けを大々的に行い、完全に終わってしまった熱狂的な一大イベントは、その代償にそこかしこにアンニュイな空気をもたらしていた。それに加え今日は職員会議。監督が必要な部活(運動部や化学研などの一部の文化部)は軒並み活動していないから、そのアンニュイな雰囲気も一層濃くなっている。
さっきから口角が緩みっぱなしだ。ニヤつきが止まらない。省エネを信条とする折木奉太郎にとって、このゆったりとした時間の流れはとても好ましいものだ。気怠い雰囲気に気分を高揚させる。そんなパラドックスを発生させるほどに。
文化祭では文集販売に一芝居打つことになり、後片付けは古典部唯一の男手として伊原のもと馬車馬のごとく働かせられた。もう一人の男子部員である福部里志は総務委員会の仕事でいなかったから、男は俺一人だったのだ。ようやく戻ってきた平穏な日常。歓迎せずにはいられない。
「こんにちは。折木さん。福部さん」
地学準備室のドアをスライドさせ入ってきたのは千反田える。豪農千反田家の一人娘にして生粋のお嬢様にしてこの古典部の部長だ。流れるような黒髪と線の細い体つきは深窓の令嬢をイメージさせるが、そんなことはない。こいつの正体は、一度気になったことはその大きな瞳を輝かせ、事が明らかになるまで離さない、そんな好奇心の獣なのである。
とまあ失礼な事を一人静かに思い浮かべていると、斜め向かいに座って本を読んでいた旧友、福部里志が声をあげた。
「やあ、こんにちは、千反田さん。あれ、随分と可愛らしい物持ってるね。それどうしたの?」
横目で千反田を伺う。何やらニコニコ顔でカエルのぬいぐるみを抱きかかえていた。
「これですか?さっき連絡廊下で拾ったんですよ。帰りに職員室に届けようと思って」
机の上にぬいぐるみを置き、千反田は俺の前の席に座った。ぬいぐるみをちらりと観察してみると、何かの童話のキャラクターだろうか?王冠をかぶり、背中にマントをしたカエルのぬいぐるみだった。良くある普通のぬいぐるみだ。足の付け根が傷んでいて、内綿が少し顔を覗かせているのが少し残念だが。
「ふふっ。可愛いですよね。折木さん」
「ああ、そうだな」
文庫本から顔も上げず、おざなりに返事をする。当の千反田は俺の生返事に気を悪くすることもなく、ぬいぐるみを指でつついて遊んでいた。
「あれ?でもこの人形どこかで見た気がするんだけどなあ」
読書に飽きたのか、里志の興味は完全にぬいぐるみに移っていた。本を机に置き、わざわざ腕を組んで考え込む。オーバーな言動は福部里志の特徴の一つ。初対面の人がこの言動に誤解し慌てた事が今までに何度あったことか。
「そうなんですか?福部さん?」
「うん。あともう少しで出てきそうなんだけど……。ああ!もどかしい!僕は今、試練を与えられている!」
「が、頑張ってください!福部さん!」
締め切り前の小説家よろしく大げさに頭を抱える里志と、それを必死に応援する千反田。傍から見ればそれは奇妙な絵でしかなかった。
「あ!」
里志がガバっと頭を上げる。勢いの良さに千反田が一歩退いた。
「思いだした!それ、手芸部がカンヤ祭で売っていたぬいぐるみだよ。僕は総務委員会の仕事で忙しくて、手芸部のぬいぐるみ制作には関わっていなかったから、きっと印象が薄かったんだね」
「そうだったんですか」
千反田はじっとぬいぐるみを見つめ、その後首をかしげた。
「ということは、このぬいぐるみは手芸部の物なのでしょうか?」
「いや、それは無いと思うなあ。手芸部もカンヤ祭の売り物は完売したって聞いたし。これは買っていった誰かの落とし物だと思うよ」
「え?じゃあ、いったい誰の落し物なんでしょう?」
草食動物は危険を素早く知覚するために横の可視域が広いと聞く。自分が草食系だ、と言う意味ではないが、その危機察知能力は俺にも備わっていたらしい。前世は高山地帯に住むヤギ辺りだったかもしれない。二人の視線がこちらに向いたのが気配でわかってしまった。その気配はページをめくる手を凍りつかせるのに十分。
しまった。祭りの後の気怠い空気があまりに心地よくて、つい油断してしまっていた。この会話の流れでは来る。来てしまう。あれが。あの好奇心に目を輝かせ、幾度となく俺をエネルギー消費を要する面倒事に巻き込んできたあの一言が。
「折木さん、私、気になりま……」
「さてと。カエルのぬいぐるみだけに、カエルとするか」
文庫本を素早く閉じ、カバンの中へ。そのまま席を立ち、戸に向かう。
俺は里志ほど冗談を口にすることはない。いや、面倒くさいので滅多に言わないと言うほうが正しいか。ジョークを飛ばすのもエネルギーがいるのだ、この省エネ主義の折木奉太郎がそんなエネルギーの浪費をするはずがない。そんな俺がいきなりダジャレを言ったのだ。案の定俺の狙い通りに、千反田は驚き凍りついている。里志までも。しめしめ、この隙に帰ってしまおう。
戸に指をかける。
「折木さん、待ってくだ、」
もう遅い。
あと一歩。あとはこの一歩を踏み出すだけで俺の安寧は守られるのだ。そして扉を開けたその向こうには、
「どきなさいよ」
伊原摩耶花が下から睨みつけていた。伊原は小学生に間違えられても不思議じゃないくらい童顔で、しかも背が低い。
思わず一歩後退する。そして制服の裾を後ろから掴まれた。いや、捕まれた。
「折木さん、私、どうしても気になるんです!」
前門の伊原に、後門の千反田。もはや万事休す、というやつだった。振り向けばちょっと拗ねたような顔の千反田と、机に突っ伏して笑いを堪えている里志の姿が目に映る。
おのれ、里志。……いや、こうなった以上もはや後の祭りか。