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夜明け前

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玄関のほうから不意に人の気配がして、ギルベルトは静かにインターネットを切った。画面が暗く落ちる一瞬、表示された一時六分の文字が目に留まる。やけに目が乾くと思えば、日付が既に変わっていたらしい。遅ぇ、とこぼして、ギルベルトは短く舌を打つ。
暖房をリモコン操作で消して居間を抜けると、玄関口にぼんやりとしたようすの男が立っていた。外の空気をまとって、口元からわずかに上る息は白い。ルートヴィッヒである。少し俯いてはいるが、顔色がひどく悪いのは一目瞭然であった。血が下りたように青白い。ギルベルトの見立てであるマフラーが、やや明るい色味であることも、顔色の悪さにより拍車をかけているのかもしれない。
「……おかえり。お勤めご苦労さん」
ギルベルトはむっとした口調で言った。職務を果たすのは結構だが、身体を壊してはどうしようもない。なによりも身体は資本で、満足のゆく仕事をこなすには美味い食事と質のよい睡眠がいっとう大事である。ルートヴィッヒは多少の睡眠や食事を削ったところで変わらず優秀な男だが、生憎のところギルベルトは彼の上司ではなかった。必要最低の生命維持、あるいは仕事のためだけではない睡眠や食事について、案じる立場にある。
「…兄さん」
ルートヴィッヒがふいと顔を上げる。すっかり生気を失って、さながらよくできた人形のようだった。眠そうに半分伏せられた金色の、長いまつげが頬の高いところに影をつくってなおさらルートヴィッヒを不健康そうに見せている。掠れた声で幾度も兄さんと呼んで、そうして外ゆきの革靴のまま、ふらふらとギルベルトにのしかかった。
「……海」
肩口に額を押し当てて、ルートヴィッヒがつぶやいた。シャツ越しに目を細める気配がする。まつげが薄い布を介してぶつかって、少しくすぐったいと思う。なに、と訊き返す間もなく、言葉が続く。
「海が、見たい」
掠れた声であったが、ことばは妙に明瞭とギルベルトの頭のなかに張り付いた。いっとき面食らって瞬きを繰り返す。……また、始まった。ギルベルトは眩暈をおぼえて苦笑する。叱る気もなくなって、むしろ兄としてのスイッチが入った。
ルートヴィッヒは時折こういうたぐいの、わけのわからないわがままでギルベルトを困らせた。遊園地を貸しきりたい、映画館で暮らしたい、子どもをつくろう、など。残念なことに男同士で子は成せないし、遊園地を貸し切るのはたくさんのお金がかかる。映画館は住むところではないし、ドイツには海がない。
当たり前の無理難題を、真面目な顔で突きつけてくるので、ギルベルトはそのたび後ろ頭を掻いて困り果てた。適当な言い訳をこしらえてみても、子どものように同じことばを繰り返して駄々を捏ねてくる。そうしてわけのわからぬ要求が三度続いたころ、ギルベルトは彼が本当にそれらを叶えてほしいわけではなく、ただ甘えたいだけなのだと、ようやく気づいたのだった。
「よーしよし、お前が見たいなら兄さんも見たいよ」
ルートヴィッヒがぎゅうと腕をまわしてくるので、ギルベルトはすこしわらってそのつむじにくちびるを落とした。甘やかしすぎている自覚はある。どれだけ叱りつけたくなっても、こういう仕草のひとつで何もかも許してしまいそうになるのだから、まったくどうしようもない。それどころか、愛する弟にこうも甘えられて拒絶できる男がどこにいるのだと常々おもって、開き直っている始末である。
自分の救いようのなさにおもわず苦笑いしながら、ギルベルトは男のかたまった前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。細い髪は簡単に額にこぼれるが、整髪料がこびりついて、少しぱさついている。風呂、とつぶやくとルートヴィッヒは頷くが、シャワーを浴びられるようすではない。厄介なことに、意識はほとんど落ちている。
「……しゃーねえ。ヴェストー、靴、履き替えよっか」
いやいやと縋りついてくる身体をむりやりに引きはがし、スリッパに履き替えさせた。ギルベルトは翌朝、玄関に散らばる革靴を見て、男がどんな顔をするのかと想像を巡らせる。こういうときはたいてい、なんだこれはと叫んで青ざめるか、誰にも見つからないようにそっと正してひとり恥じ入るか、どちらかである。どちらであってもギルベルトがたのしいことにかわりはなかった。ルートヴィッヒを居間に引きずりながら、そういうしあわせな想像をして喉の奥でわらうと、にいさん、とおぼつかない声がする。なんもねえから寝てな、といって催眠の魔法をかければ、ルートヴィッヒのまぶたがゆるゆると落ちてゆく気配がした。少しのことばと、髪を梳くてのひらがあればルートヴィッヒはいともたやすく眠ってしまう。そういう魔法はとても簡単なようで、実はギルベルトにしか使えない。



ルートヴィッヒを居間のソファに転がしてマフラーとネクタイを引き抜き、皺になるまえにジャケットを奪った。スラックスも脱がせてしまって、まとめてハンガーに掛ける。まだ空調はぬるい名残を漂わせていたが、ほとんど裸同然の格好で少し寒いのかもしれない。ルートヴィッヒがなにごとかつぶやいて赤子のような体勢を取るので、ギルベルトは四辺の整った羽毛のブランケットを、丸まった体にそっと広げた。そうすると頑なな眉間はじきにゆるんで、かすかな寝息を立てはじめる。ギルベルトはひとここちついて息を吐き出し、床に散らばったシャツなどを拾いあげた。そうして気配をひめたまま、忍び足で居間を後にする。
換気扇を回し忘れた脱衣所は湿気がこもっていて、ギルベルトはうんざりと顔を歪めた。脱ぎ捨てた拍子に皺が寄ったシャツと靴下とを、丸めて洗濯機に放り込む。スイッチを入れ、ドラムが回り始めたのを確認すると、ギルベルトは洗濯籠から乾燥の済んだ寝間着をひったくった。そうして居間へ帰りしな、寝室に寄って暖房を点けておく。暖まり次第すぐに下げればいいのだと自分に言い聞かせて、限界まで温度を引き上げた。いっときぶうんと音がして、空調がぬるい風を送りはじめる。
「……ヴェストー、ほら、ちょーっとだけ、起きてみ」
居間へ戻ったギルベルトが魔法を解くようにして男の額を撫でると、長いまつげに縁取られたまぶたがうっすらと開いた。言われるがままのろのろ体を起こしたかと思うと前のめりになって、まるで身体に芯がない。じきに傾いた身体がソファから転げ落ちそうになるので慌てて支え、寝間着に腕を通させる。あたかも前後不覚に陥って、泥酔しているようだった。そうしてよろめく半身を背負うようにして立ち上がらせる。
「そうそう、いい子だ。眠いけど、ちょっとだけ我慢しような」
幼い子どもにやるような仕草で背中を撫で、冷えた頬にくちびるを押し当てる。耳元でむにゃむにゃ口を動かすので耳を澄ませば、にいさん、にいさんとうわごとのように呼んでいた。やっぱ、叱るに叱れねえよなあ。つぶやいて、ギルベルトはおもわず苦笑した。なんとはなしに見つめた横顔は、安心しきって無防備すぎる。思わず胸のあたりがきゅんとするので、ギルベルトは腹のうちにくすぶる熱を、ためいきで消化してゆく。


作品名:夜明け前 作家名:高橋