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現の夢

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現の夢



 ――夢を、見た。
 いつもと変わらない、俺達の家。けれど奇妙な事に、生活感が感じられない。静寂に包まれたこの場所は奇妙な違和感を生んでいるが、その正体が何かは分からなかった。
 リビングには兄さんがいて、俺に向かって優しく微笑みかけてくる。
 兄さんが身に着けているのは、上半身は飾り気のないシンプルな真っ白いシャツ、下半身は淡いグレーの下着だけという、よく風呂上がりなどにうろついている時のような姿だ。人工的な明かりに照らされた肌は透き通るように白く、病的に見えた。それでも、髪と同じ白銀色の長い睫毛が縁取る瞳だけは赤く、その美しさを主張している。そしてもう一つ、兄さんを彩る白色の中で目を引く物があった。俺は兄さんの顔から視線を下げ、そこに目を向けた。見つめる先……俺よりも細い首元には、瞳と同じく赤色の、革の首輪が嵌められていた。
 もう一度視線を上げると、兄さんは首を傾げた。唇が薄く開かれ、ヴェスト、と俺の呼び名が紡がれた。



「っ……!」
 意識が現実に引き戻され、俺は勢い良く身体を起こした。ばくばくと鼓動が早鐘を打ち、全身に汗が滲んでいる。窓の外から聞こえる鳥の囀りが、今は白々しく聞こえた。
 目が覚めて真っ先に思った事は、『気持ちの悪い夢』だった。寒気を感じるのは、何一つ身に着けずに眠っていたからではなく、見ていた夢のせいだろう。
 目を閉じ、胸に手を当て、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。何度か繰り返すうちに、平静さを取り戻して来た。心音も徐々に落ち着いたように思う。最後に、吸い込んだ息を、胸に抱えた嫌な空気を一緒に追いやるように、ゆっくりと吐き出した。
 もぞ、と隣で動く気配を感じ、俺は視線を落とした。
「ヴェスト?」
 開き切らない目を擦りながら、覇気の無いふわふわとした声で、呼び掛けてくる。
「すまない、起こしてしまったな」
「……嫌な夢でも見たのか?」
 あれだけ派手に飛び起きたのだから、気付かれて当然だ。苦笑交じりに頷くと、兄さんは、ベッドに着いていた俺の手に、自分の手を包み込むように重ねた。掛け布団の隙間から見える素肌は、確かに色白ではあるけれども、夢の中で見た病的な印象は無く、俺を安堵させた。
「大丈夫だ、子供ではないのだから」
 そう告げて俺はベッドから降りる。
 子供が見るような、お化けにでも追いかけられる夢ならば、まだ良かったのに。そんな事を思いながら表には出さず、床に散らばる衣服の中から自分の下着を拾い上げて身に付けた。それから他の服を手に取り、自分に視線を注ぎ続けている兄さんを振り返る。
「嫌な汗を掻いてしまったからな、シャワーを浴びて来る」
「あぁ……」
 そう告げると、兄さんは欠伸混じりに返して、再び目を閉じた。



 少し温めのシャワーに打たれ、汗を洗い流す。今日は休日だが、朝から気分は最悪だ。しかし、夢は夢でしかないのだから、思考を切り替えるしかない。出来る事ならば完全に忘れ去ってしまいたかったが、夢見の悪い時ほど鮮明に記憶に刻まれるもので、気持ちだけはすっきりしないままバスルームを出た。
 首に掛けたタオルで、まだ湿った髪に触れながらリビングに入る。すると兄さんも起きだしていたようで、明かりが点いていた。長時間シャワーを浴びていたつもりは無かったから、まだ眠っていると思っていたのだが、あの後すぐに起きだしたのだろうか。
 兄さんは俺の姿を見ると、湯気の立つカップを差し出してきた。珈琲の香りがふわりと漂う。それを受け取り、少し冷ます。一口、それを喉に流し込むと、俺は兄さんに尋ねた。
「兄さん、シャワーは?」
「ん? これ飲んだら浴びてくる」
「分かった。朝食を用意しておこう」
 他愛ない日常の会話だ。おかしな所など、何一つ無い。
 リビングを出て行く兄さんの背を見送り、俺はキッチンに立った。二人で食べる簡単な朝食をテーブルに用意した後、犬達の食事を用意する。
 そこで、ふと、夢の中で覚えた違和感の正体に気が付いた。昼間だったはずなのに一切の生活音などが感じられなかった事と、もう一つは一緒に居るはずの飼い犬達と小鳥が居なかったからだ。
 納得はしたが、同時に疑問も感じた。けれど、夢と現実とが食い違っているなど良くある事だし、それ以上を考えるのは無意味だと、止める事にした。



 二人で向かい合って座り、朝食を摂りながら話をする。
「で、アイツらがさぁ」
 楽しそうに笑う兄さんは、他の国や、人間達――要するに、他人の話をしている。
 兄さんはここ数カ月で、外に出る事が増えた。それまでは家での仕事を中心にしていて、外での仕事の殆どは俺が受け持っていた。もちろん外でも働いてくれる事は好ましかった。多くの人と交流と持つ事で家を空ける事も増えたが、日の大半を一人きり、或いは俺と二人だけで過ごす生活よりは余程健全だろう。自分自身の負担も減ったし、弟として歓迎するべき変化ではあった。不安な所も数多くあったが、持ち前の明るさもあり、それなりに上手くやっているらしい。周りから聞こえる兄さんについての話も好意的な物が多かったし、俺が心配する事もなかったようだ。
 兄さんは、少しずつ変わってきた。以前は、遠い過去の話をする事が多かったが、今は、最近の出来事をよく話す。俺の知らない、兄さんの、話。
 ……考えているうちに、少しだけ胸が痛んだ。棘のような小さな痛み。しかしそこから、じわじわと胸に広がる苦い感情。そしてまた、夢の記憶がフラッシュバックする。いや、浮かび上がった映像は、夢で見たよりももっと性質の悪い物だった。――鳥籠の様な檻の中で、兄さんが鎖と首輪で雁字搦めにされた姿。
 沸き起こるのは底知れぬ恐怖と、渦巻く疑問。けれど確かにその中に混ざっていたのは、暗い愉悦。
 兄さんは目の前で、屈託無く笑っている。
 その笑顔を見て、漸く俺は気が付いた。つまりこの性質の悪い夢は、俺自身が奥底に隠した、醜い嫉妬や独占欲の現れなのだ、と。

 鬱屈とした気分を抱えたまま、何事も無かったかの様に振舞って過ごし、長い一日も終わろうとしていた。
 その夜……眠る為に自室に向かおうとする兄さんの腕を、俺は掴んで引き止めた。夜も更けた時間に、わざわざ引き止めるという行為がどういう意味を持つか。普段ならばこんな真似はしなかった。今日の俺は、やはりどうかしているのだろうと、自虐めいた事を思う。しかし、勢いで引き止めたまでは良いが、どう声を掛けたものか。上手く言葉が継げず俯いていた俺に、兄さんは優しく微笑んだ。言葉にせずとも、察してくれたらしい。
「珍しいな、お前が」
 昨夜も、夜を共にしたのにという事を言外に潜ませているが、嫌では無いようだ。仕事の前日は基本的にこういった事はしないし、週末などは疲れて眠りに落ちてしまう事も多々ある。だから二日続けて、というのは少ないのだ。しかも俺はこういった事を素直に言えない性質であるから、自分から誘う事は本当に珍しいと思う。
 悪戯っぽい笑みを浮かべていた兄さんが、急に真剣な表情で顔を覗き込んで来た。
「やっぱり今朝……なんかあったのか?」
「……」
作品名:現の夢 作家名:片桐.