紅月の涙
生まれた頃の事は、よく覚えていない。
彼の人生は酷く長い。時が流れて行くに連れ記憶が風化していくのは可笑しくもない事だ。
だがそれとは違う。兄たちと共に過ごした幼い頃は覚えている。だがそれ以前の事は覚えていないというより、分からない。
真っ白に塗り潰されていると言った方が正しい。欠片の記憶も、おぼろげなものすら出て来る事がないのだから。
自身の出生について、父親と母親の存在について。
生まれ持っての純粋な吸血鬼なのか、あるいはヒトだったのか。
それすらも分からない。もし後者だったと仮定したならば、生前の記憶すらもないという事になる。
兄たちもその話題について閉口していた。
兄というのだから血の繋がりはある筈であり、彼より先に生まれているのは当然で知らない筈もない。
知らなかっただけなのかもしれない、という考えは兄の反応により水泡に帰した。
彼とて決して疑問に思わなかった訳ではない。幾度となくその質問を繰り返したが、彼の兄たちはその度悲しそうな表情で言葉を飲み込んだだけで決して語ろうとはしなかった。
と同時に、聞いてはならない事を聞いてしまったという言い様のない罪悪感だけが彼を支配し、それに耐え兼ね彼自身も聞くのを止めてしまった。
知らなくても生きていけない訳ではない―――そう自身に蓋をして。
結局、兄たちからそれが語られる事は終ぞなかった。
**********
静寂は、突如として破られた。
「シャディ!!」
けたたましい声と共に嵐の様に入って来た存在により、窓もなく薄暗い部屋を唯一照らし揺らめいている蝋燭の灯が危うく消えかけそうになる。
今しがた呼ばれたばかりの黒髪の男は読んでいた本を棚へと戻し、訝しげな表情で静寂を打ち破った超本人である赤髪の男を睨み付ける。
赤髪の男より盛大に開け放たれた部屋のドアは鈍く重い音を立てながらゆっくりと元の位置へ独りでに戻った。
「騒々しいぞ、ファズ。相変わらず品の無い下賤な男よ」
「そういう嫌味垂れ流してる場合じゃねェんだよッ!」
全力疾走してきたのか息を切らし呼吸も整えぬまま、ファズと呼ばれた赤髪の男は足早にシャディとの距離を詰め、切羽詰まった様子で強くその腕を掴む。いや、掴むというよりは寧ろ握り締めると言った方が妥当だろう。
「触るな」
「聞けって!」
シャディは細身で聡明に見えるのに対し、ファズは身体付きも良く粗暴に見える。容姿も性格も対極にあるであろう二人の仲は、そのやり取りからして決して良いものには見えない。
だが今はそれを気にしている場合でも無いようだ。
頭一つ二つは違うであろうファズをその碧眼で見上げたシャディは、彼の普段とは異なる差し迫った様子に抵抗を諦めたらしい。
小さく溜め息を漏らしながらその先を促した。
「話を聞こう、何だ。手短に離せ」
「落ち着いて聞けよ。ユ…」
一気に畳み掛けようとした彼の勢いは事の大きさにより失われ、躊躇した様子で一度呼吸を置いて言葉を飲み込んだ後ゆっくりと差し迫った状況がその口から告げられた。
「ユーリが…お前を殺しに来る」
ユーリはシャディの末弟の名だ。
それ共に飛び出した決して穏やかではないその内容に今まで表情に動きを見せなかったシャディの碧眼が見開かれる。
しかしそれも一瞬の事。
そうか、と消え入りそうな声で呟きながら視線を床へと落としたかと思えば、次の瞬間彼の顔には今までの無表情が張り付いていた。
「それで?」
「そ…れでって…」
まるで他人事の様な彼の反応に、今度はファズが息を呑んで金眼を見開く番だった。
赤の他人であるファズがこんなにも取り乱しているというのに、余りに落ち着き払い過ぎている。
――命を狙われる心当たりがあるとでもいうのか?
全く以て腑に落ちない。
シャディが末弟のユーリを溺愛しているのは周知の事実だ。兄弟仲も決して不仲ではない様に見えたのだが――…蓋を開けてみればそうではなかったという事なのだろうか。
しかし仮にそうだったとしても、彼はその事実だけを受け入れ、黙って殺されようと言うのか。
ファズにはそれが許せなかった。腕を掴んでいた手に自然と力が籠もる。
劇場した彼は力を制御する術を知らない。みしり、と骨の軋む音が聞こえた気がした。
「何で逃げねェんだよ!お前、このままだと殺されるんだぞ!?」
それでもシャディは表情一つ変えず、答えようともしない。その瞳は卓上の蝋燭に浮かび揺れ動く炎を映していた。
―――こうなったら無理矢理にでも逃がすしかねェ…!
心此処に在らずと言った様子のシャディに痺れを切らし、ファズは彼の腕を掴んだままの手を強く引く。
癪な事だが、腕を引いてこのまま連れ出すつもりだった。
しかし彼の思惑とは裏腹に―――シャディはその力に抗う事もせず、慣性の法則に従い前のめりになって膝を付いた。まるで糸の切れた人形の様だ。
俯いている彼の表情は窺う事が出来ない。今もまだその顔には無が貼り付いているのだろうか。
「」
「…?」
足元から音が聞こえる。シャディの声音だ。
しかしそれは彼自身に向けたものなのか非常に小さく、何を呟いているのか聞き取る事が出来ない。
「」
はたり、と彼の背に在る、彼自身の瞳と寸分違わぬ色を有した鮮やかな青い羽根が小さくはためいた。
「…あいつと言いお前と言い本当にとんだ■■■■―――」
最後の辺りは良く聞き取る事が出来なかった。シャディの間近に居た筈のファズの身体は宙へと投げ出されていたからである。
何が起こったのか分からず、しまった、と思った時にはもう遅かった。
シャディの力に依り投げ出された彼の身体は、空のクローゼットの中へと叩き付けられる。
鋭い背中への痛みを感じると共に視界が霞む。ファズ程の屈強な男でなければ完全に気を失っていただろう。
「…シャ、…!」
余りの衝撃にまともに彼の名を呼ぶ事すら出来ない。
霞む視界の中に、ゆっくりと起き上がるその体躯を捉える。
垣間見た彼の面には―――恐怖さえ抱く程に美しい、狂気染みた笑みが浮かんでいた。
「嗚呼、実に愚かな男よ。感謝するぞ」
「これで終わる。漸く終わるのだ」
くく、と喉を鳴らして笑ったシャディはくるり、と弄ぶ様に自身の掌を回す。
―――何を…するつもりだ…?
その掌に浮かんでいる淡い光に、言葉一つ紡げず咳き込みながらもファズは危機感を覚える。
「貴様が居ては事が上手く進まない。其処で大人しくしていて貰おうか」
シャディは何かを企んでいる。
だがそれは恐らく彼のみぞ知る事であり、その計画の邪魔者であるファズに知る術は無いのだ。
それでも抗わねばならないと農が警鐘を鳴らしているが、身体は先程の衝撃の反動で上手く動かない。
言葉を発する事すらままならない状態で、彼に出来るのはただその男を忌々しげに睨み付ける事だけだった。
―――てめぇは…何を考えてやがる…!
口を吐いて出す事の出来ないフ彼の疑問にシャディが答える事はない。
ゆっくりと近付いて来るその男の掌が翳されると共に、ファズを中へと残したままクローゼットの扉が徐々に閉まっていく。
彼の人生は酷く長い。時が流れて行くに連れ記憶が風化していくのは可笑しくもない事だ。
だがそれとは違う。兄たちと共に過ごした幼い頃は覚えている。だがそれ以前の事は覚えていないというより、分からない。
真っ白に塗り潰されていると言った方が正しい。欠片の記憶も、おぼろげなものすら出て来る事がないのだから。
自身の出生について、父親と母親の存在について。
生まれ持っての純粋な吸血鬼なのか、あるいはヒトだったのか。
それすらも分からない。もし後者だったと仮定したならば、生前の記憶すらもないという事になる。
兄たちもその話題について閉口していた。
兄というのだから血の繋がりはある筈であり、彼より先に生まれているのは当然で知らない筈もない。
知らなかっただけなのかもしれない、という考えは兄の反応により水泡に帰した。
彼とて決して疑問に思わなかった訳ではない。幾度となくその質問を繰り返したが、彼の兄たちはその度悲しそうな表情で言葉を飲み込んだだけで決して語ろうとはしなかった。
と同時に、聞いてはならない事を聞いてしまったという言い様のない罪悪感だけが彼を支配し、それに耐え兼ね彼自身も聞くのを止めてしまった。
知らなくても生きていけない訳ではない―――そう自身に蓋をして。
結局、兄たちからそれが語られる事は終ぞなかった。
**********
静寂は、突如として破られた。
「シャディ!!」
けたたましい声と共に嵐の様に入って来た存在により、窓もなく薄暗い部屋を唯一照らし揺らめいている蝋燭の灯が危うく消えかけそうになる。
今しがた呼ばれたばかりの黒髪の男は読んでいた本を棚へと戻し、訝しげな表情で静寂を打ち破った超本人である赤髪の男を睨み付ける。
赤髪の男より盛大に開け放たれた部屋のドアは鈍く重い音を立てながらゆっくりと元の位置へ独りでに戻った。
「騒々しいぞ、ファズ。相変わらず品の無い下賤な男よ」
「そういう嫌味垂れ流してる場合じゃねェんだよッ!」
全力疾走してきたのか息を切らし呼吸も整えぬまま、ファズと呼ばれた赤髪の男は足早にシャディとの距離を詰め、切羽詰まった様子で強くその腕を掴む。いや、掴むというよりは寧ろ握り締めると言った方が妥当だろう。
「触るな」
「聞けって!」
シャディは細身で聡明に見えるのに対し、ファズは身体付きも良く粗暴に見える。容姿も性格も対極にあるであろう二人の仲は、そのやり取りからして決して良いものには見えない。
だが今はそれを気にしている場合でも無いようだ。
頭一つ二つは違うであろうファズをその碧眼で見上げたシャディは、彼の普段とは異なる差し迫った様子に抵抗を諦めたらしい。
小さく溜め息を漏らしながらその先を促した。
「話を聞こう、何だ。手短に離せ」
「落ち着いて聞けよ。ユ…」
一気に畳み掛けようとした彼の勢いは事の大きさにより失われ、躊躇した様子で一度呼吸を置いて言葉を飲み込んだ後ゆっくりと差し迫った状況がその口から告げられた。
「ユーリが…お前を殺しに来る」
ユーリはシャディの末弟の名だ。
それ共に飛び出した決して穏やかではないその内容に今まで表情に動きを見せなかったシャディの碧眼が見開かれる。
しかしそれも一瞬の事。
そうか、と消え入りそうな声で呟きながら視線を床へと落としたかと思えば、次の瞬間彼の顔には今までの無表情が張り付いていた。
「それで?」
「そ…れでって…」
まるで他人事の様な彼の反応に、今度はファズが息を呑んで金眼を見開く番だった。
赤の他人であるファズがこんなにも取り乱しているというのに、余りに落ち着き払い過ぎている。
――命を狙われる心当たりがあるとでもいうのか?
全く以て腑に落ちない。
シャディが末弟のユーリを溺愛しているのは周知の事実だ。兄弟仲も決して不仲ではない様に見えたのだが――…蓋を開けてみればそうではなかったという事なのだろうか。
しかし仮にそうだったとしても、彼はその事実だけを受け入れ、黙って殺されようと言うのか。
ファズにはそれが許せなかった。腕を掴んでいた手に自然と力が籠もる。
劇場した彼は力を制御する術を知らない。みしり、と骨の軋む音が聞こえた気がした。
「何で逃げねェんだよ!お前、このままだと殺されるんだぞ!?」
それでもシャディは表情一つ変えず、答えようともしない。その瞳は卓上の蝋燭に浮かび揺れ動く炎を映していた。
―――こうなったら無理矢理にでも逃がすしかねェ…!
心此処に在らずと言った様子のシャディに痺れを切らし、ファズは彼の腕を掴んだままの手を強く引く。
癪な事だが、腕を引いてこのまま連れ出すつもりだった。
しかし彼の思惑とは裏腹に―――シャディはその力に抗う事もせず、慣性の法則に従い前のめりになって膝を付いた。まるで糸の切れた人形の様だ。
俯いている彼の表情は窺う事が出来ない。今もまだその顔には無が貼り付いているのだろうか。
「」
「…?」
足元から音が聞こえる。シャディの声音だ。
しかしそれは彼自身に向けたものなのか非常に小さく、何を呟いているのか聞き取る事が出来ない。
「」
はたり、と彼の背に在る、彼自身の瞳と寸分違わぬ色を有した鮮やかな青い羽根が小さくはためいた。
「…あいつと言いお前と言い本当にとんだ■■■■―――」
最後の辺りは良く聞き取る事が出来なかった。シャディの間近に居た筈のファズの身体は宙へと投げ出されていたからである。
何が起こったのか分からず、しまった、と思った時にはもう遅かった。
シャディの力に依り投げ出された彼の身体は、空のクローゼットの中へと叩き付けられる。
鋭い背中への痛みを感じると共に視界が霞む。ファズ程の屈強な男でなければ完全に気を失っていただろう。
「…シャ、…!」
余りの衝撃にまともに彼の名を呼ぶ事すら出来ない。
霞む視界の中に、ゆっくりと起き上がるその体躯を捉える。
垣間見た彼の面には―――恐怖さえ抱く程に美しい、狂気染みた笑みが浮かんでいた。
「嗚呼、実に愚かな男よ。感謝するぞ」
「これで終わる。漸く終わるのだ」
くく、と喉を鳴らして笑ったシャディはくるり、と弄ぶ様に自身の掌を回す。
―――何を…するつもりだ…?
その掌に浮かんでいる淡い光に、言葉一つ紡げず咳き込みながらもファズは危機感を覚える。
「貴様が居ては事が上手く進まない。其処で大人しくしていて貰おうか」
シャディは何かを企んでいる。
だがそれは恐らく彼のみぞ知る事であり、その計画の邪魔者であるファズに知る術は無いのだ。
それでも抗わねばならないと農が警鐘を鳴らしているが、身体は先程の衝撃の反動で上手く動かない。
言葉を発する事すらままならない状態で、彼に出来るのはただその男を忌々しげに睨み付ける事だけだった。
―――てめぇは…何を考えてやがる…!
口を吐いて出す事の出来ないフ彼の疑問にシャディが答える事はない。
ゆっくりと近付いて来るその男の掌が翳されると共に、ファズを中へと残したままクローゼットの扉が徐々に閉まっていく。