紅月の涙
シャディは邪魔者のファズを此処へと閉じ込めるつもりなのだ。全てが終わるまでの間。
その彼を止めるどころか、クローゼットから出る事すらもままならぬファズに一体何が出来ようか。
少しずつ近付いて来ていたシャディの顔はすぐ傍まで迫っていた。
その瞳は悔しげな表情のファズを映している。ただそれだけだ。感情は見えない。
ただ、このまま閉じ込められてしまえば彼とはもう二度と会えない様な気がした。虫の知らせとでも言うのだろうか。
刹那、彼の中で何かが弾け、今までひた隠していた自分の感情に否が応でも嘘が吐けなくなった。と同時に衝動が沸き上がる。
―――動け…動けよッ!
まだ伝えていない。
まだ伝えられていない。このまま会えなくなるには早すぎる。
しかしファズを突き動かす激しい感情とは裏腹に、身体はがくがくと震えたまま動かない。
目鼻の先に居るシャディへ手を伸ばす事も許されないまま、無情にも彼を置いて扉は閉まり、彼の視界はどんどん狭まっていく。
悔しさの滲んだ表情を浮かべながら射殺すほどの視線をシャディに向けた彼は吼える事すら許されず―――
「さようなら」
形の良い唇から紡がれた最期の言葉が、残された時間の終わりを告げる。
―――シャディ…!!
今までの狂った様を感じさせぬ、寧ろ愛おしさすら孕んだ焼き付く様な笑みが見えたのを最後に――――
ファズの視界は闇に閉ざされた。
**********
「ユーリ、最近ボーッとしてる事が多くなったネ」
「そうっスね…何回呼んでも上の空だし」
片方は夕食の調理に。片方は茶々を入れに。
キッチンに立つ二人は目的こそ違えど、現在共通の話題を持ってひそひそと立ち話をしている。
普段から物思いに耽る事の多いユーリが考え事をするのは珍しい事ではない。
しかし以前にも増して考え事が多くなった様に思う。
加えて毎回、普段の物思いに耽る、という軽い程度のものではない。
声を掛けても気付かない程に深く考え込んでいる姿を頻繁に見る様になった。
心配、と言えば心配だ。
しかしプライドの高い彼は心配や同情と言ったものを極端に嫌う。
恐らく追求したところで「何でもない」と誤魔化されやり込められてしまうだけだ。
今までの経験上二人はそれを嫌と言う程に知っていた。
現在当の本人はと言うと、リビングで食事の完成を待ちながら何をするでもなくソファーに腰掛けていた。
また考え事をしているのだろう。
「単純にトシのせいなら良いんだけどサ」
「しいっ、スマ!ユーリに失礼っショ!それにバレたら何されるか分かりませんよ!?」
その様子を傍観しながらも、湿っぽい話題を嫌うスマイルは今まで空気を払拭するべくのおどけた様子で笑って見せる。
それによりアッシュの表情からも不安が消えたようだ。
どちらにせよここでの会議が長引けば、夕食の完成が遅れてユーリに察知されるかどやされるかのどちらかになるのは目に見えている。
結局それ以上の進展はなく、暫く様子を見ていようという形で話は纏まった。
今までも彼はどれ程心配しようが結局問題を一人で解決してしまい、その翌日にはまたいつもの日常が戻っていたのだから。
そう、だから二人は軽視しすぎていたのだ。今までもそうだったのだから今回もそうだろうと。
いや、どちらにせよ回避する術はなかったのかもしれない。
「――――シャディ…」
日常の終わりを告げる足音はすぐ其処まで迫っていた。
**********
最近、夢を見る様になった。
とても懐かしい夢。そしてとても――――
「っ!!」
幸福な夢が悪夢へと転じたところで彼は跳ね起きる。
幸福な夢、それは兄たちと過ごした時の夢だ。
シャディ。
兄弟の長男にして黒髪に碧眼を持った、ユーリを最も溺愛している兄。
普段は冷徹と言える程に冷めているがユーリの事が関わると途端に冷静さを失うのだから、ユーリ自身もほとほと呆れている。
リィエル。
通称エル。兄弟の次男にして翡翠色の髪に紫の瞳を持った、酷く女性的で天性の才を持った兄。
時折毒を吐きながらも酷く優しかった彼は術や学に富んでおり、ユーリにも色々と知識を与えてくれたものだ。
ギルディ。
通称ギル。兄弟の三男にして金髪にリィエルと同じく紫の瞳を持った、母親の様な存在だった兄。
科目で言葉少なでありながらも誰より兄弟思いで、家事をしたり何かと世話を焼いたりと常に兄弟の面倒を見ているのは彼だった。
皆ユーリの大切な兄弟であり、家を出るまでの彼らと過ごした日々は全てが幸福だった様に思う。
それが何故一転して悪夢へと転じるのか。悪夢と言っても、内容は輪郭を持たずぼんやりとしたものでありはっきりと思い出せない。
ただ、いつも夢が覚めた今じっとりと汗をかいている事と、催す吐き気が全てを物語っている。
そしてそれは日を増す毎に酷くなり、ユーリを苦しめている。
こめかみを押さえ過去を辿って探ろうとするも、恐らく最も重要であろう部分の欠けている記憶が邪魔をして何も分からない。
同じ夢を見るのはこれでもう一週間目になる。始めこそ何かの間違いだと考えていたが、此処まで来るとただの夢だとは思えない。
その夢からすると―――考えたくはないが―――欠けている部分は決して良くはない記憶なのだろう。良くはない、という程の可愛らしいものであれば良いのだが。
そしてそれは今まで自分が望みながらも考えずに目を背けてきた部分だ。いや、正しくは背けさせられてきたと言うべきか。
生前の事なのだろうか。それとも生まれてから物心がついた辺りの抜け落ちている部分なのか。
抜け落ちているというより真っ白に塗り潰されたと形容するべきそれが失われた理由は、その出来事に起因するものなのだろうか。
罰が悪そうに語ろうとせず目を背けさせた張本人である兄たちがそれを知っている、或いは関わっているのはまず間違いない。
惜しみない愛情を注いでくれた兄たちを決して疑いたくはなかった。目を背けてしまった理由は其処にもある。
しかしこのまま知る事を放棄し続ければこの悪夢は終わらない、そんな気がした。
夢を見るまでは何の障害もなく日常を送っていた為気にも留めていなかったというのに―――
酷く気分が悪い。
だがもうすぐアッシュが朝食に呼びに来る時間になる。気取られる訳には行かない。
せり上がってくる酸味を帯びたそれを必死で飲み込み、呼吸を整える。
―――アッシュが迎えに来た頃、彼の表情に今までの苦渋を感じさせるものは一欠片たりと残ってはいなかった。
**********
殺した。
殺した。
殺した。
あいつが殺した。
殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺したコロシタコロシタコロシタコロシタコロシタ!!!!!!!!!!!!!!!!
何故思い出せなかった?
そうだ、あいつだ。あいつが―――あいつ等が!!!!!!!!!!!!!
今まで騙されていたんだ。
今まで欺かれていたんだ。
何と愚かだったのだろう。
何と無知だったのだろう。
全ては偽りの産物だったのだ!
殺してやる。殺してやる。