君がため
「おや、八左ヱ門だ」
目の上に手を翳して三郎が言った。背の高い椎の木の枝は昼寝をするには最高で、うとうととしていた雷蔵は、その声に意識を引き戻されて、ふさふさと茂る葉の間から三郎が指差す先を見下ろした。
三郎の言う通り、細く流れている川に沿うようにして、八左ヱ門が歩いているのが見えた。
「…何か探しものかな」
八左ヱ門は川に沿って緩やかな坂道を登りながら時折立ち止まっては草むらや木の陰を覗き込んでいる。
「またあれかな。孫兵の蛇が逃げ出したとか」
「ああ、あれか。よくやる」
三郎が腕組みをする。雷蔵も横たえていた身体を起こして、腕組みをした。
八左ヱ門は真面目な顔をして石を引っくり返したり、地面すれすれに顔を近付けてみたりと、忙しない。
「…どうする?」
雷蔵は三郎を見た。
三郎の顔はいつの間にか兵助のものになっていて、その長い睫の先を指で整えながら、「仕方ない」と返事をする。
「手伝ってやるか」
そう言うと三郎は雷蔵の返事を待たず、枝を揺らして飛び降りて行った。
仕方ない、か。本当は気になって仕方なかったくせに。
まぁそれは自分も一緒か、と雷蔵は溜息を吐いて三郎の背中を追った。
桜の枝に降り立った雷蔵の影が背中にかかり、「誰だ」と鋭い声を上げ、八左ヱ門が素早い仕草で飛びのき、間合いを取って上を見上げた。木の上に三郎と雷蔵の姿を認め、「なんだ」と言って緊張を解く。
「また蛇でも逃げ出したのか」
三郎がそう言って八左ヱ門の前に飛び降りた。雷蔵もその横に飛び降りる。
「いや、違う。…なんで兵助の顔してるんだ、三郎」
「気分だ」
「それで、何を探してたんだ、八左ヱ門」
「ナメクジだよ」
「ナメクジ?」
「孫兵の蛙が逃げ出して、散歩中だった喜三太のナメクジを食べてしまったんだ。虎若が、喜三太が落ち込んで可哀想だと言うんで、せめて新しいナメクジを捕まえてやろうと思ってさ」
説明しながら八左ヱ門がまたしゃがみこんで大きな石を引っくり返した。
その時、三郎が何かを見つけて「八左ヱ門」と鋭い声を上げた。
「え?」
ぽかんとした顔を上げた八左ヱ門の手に絡みつく斑の紐のようなもの…それが蛇だと気付いた時には蛇は素早い動きで八左ヱ門の腕を這い上がり、頭を上げて八左ヱ門の肩に噛み付いていた。
しまった。
咄嗟に振り上げた苦無で蛇の頭を殴る。三郎がそれを掴み地面に叩きつけて殺した。
「…ヤマカガシか…まだ小さいが、毒を吸い出した方が良い」
まだ呆然としている八左ヱ門の腕を三郎が掴んだ。着物の袖を肩の上まで捲りあげると、八左ヱ門の皮膚に蛇の牙の痕がぽつりと残っていた。三郎が顔を近付け唇を付けようとしたので、慌ててその背中を掴んで引いた。
「駄目だよ。三郎、お前、今朝の実習で口の中を切っただろう。僕がやる」
そう言って三郎を退け、八左ヱ門の腕を掴んだ。
「すまん」
八左ヱ門が眉を顰めるのに小さく首を振って、血の玉が膨らみ始めている肌に唇を寄せた。頬を窄め八左ヱ門の血を吸い出して吐き出す。それを三度ほど繰り返した後、水筒の水で傷口を洗い手拭できつく縛った。
「大丈夫だとは思うけど一応学園に戻って新野先生に見てもらった方が良い。早く戻ろう」
雷蔵は自分も口を濯ぐと、そう言って三郎を振り返った。三郎は雷蔵に退けられたままの場所で腕組みをしてじっと黙っていた。
ああ、もう。
その固い表情には見覚えがある。
八左ヱ門が兵助に抱きついた時、勘右衛門が八左ヱ門にじゃれついている時…他の人間が八左ヱ門に触れた時、いつも三郎はそんな顔をしていた。
「三郎」
手を伸ばし、三郎の頬に触れた。
「化けの皮が剥がれてるよ」
軽く頬を叩いて教えてやる。三郎は「ああ」と気の抜けたような声を上げ、雷蔵の目を見た。
「八左ヱ門を連れて戻らないと」
そう言って、八左ヱ門の腕を掴んで引っ張り、三郎の手に掴ませる。
「大丈夫だ。一人で走れる」
八左ヱ門は「大袈裟だな」と笑って言って繋がれた手を解こうとしたが、雷蔵はそれを視線で制した。
ああ、もう世話の焼ける。八左ヱ門も少しは気付けば良いのに。
溜息を吐いて、「行こう」と走り出す。
「そんなに深くは噛まれていない」
三郎が黙っているのは心配しているからだと思ったのだろう。八左ヱ門が走りながら声を上げる。
「ヤマガカシは元々大人しい性格なんだ。俺が石を持ち上げた時に刺激を与えてしまったんだろう。毒牙は奥にあるから、軽く噛まれただけでは」
とつとつと説明をする八左ヱ門を三郎が振り返った。
「そんなことは分かっている」
まるで突き放すような強張った声に、八左ヱ門が黙った。どうして自分が怒られるのか分からないというような不思議そうな顔をして。
「…三郎」
雷蔵は一言だけ、名前を呼ぶことで三郎を注意すると、三郎の頭を叩いた。三郎は一瞬雷蔵をちら、と見るとまた「分かっている」と言った。
わかっていてもどうしようもないこともあるのだ、と。そんな顔をしていた。
学園に戻り、八左ヱ門を医務室に連れていく。治療が終わるまでの間、医務室の外の回廊に並んで座ると、三郎が八左ヱ門の手を掴んでいた左手を膝の上に開いてじっと見つめた。
雷蔵は溜息をついて、三郎の顔を覗き込んだ。三郎の変装は変わっていて、兵助から雷蔵の顔になっている。
最初は戸惑ったこの変装も、時が経つにつれまるで自分の兄弟を見ているような不思議な感覚に変わってきていた。
そういえば三郎は、八左ヱ門の姿になることは滅多に無いな、とふと思った。
「…三郎、あれは毒を吸いだすために仕方なくしたことだよ」
「うん」
「お前は口の中に切り傷があったから、出来なかった」
「うん」
「だから僕がやった」
「ああ、分かってるよ、雷蔵。嫌と言うほど分かっている」
三郎は言って、手を握り締める。そうしてふと溜息を吐くと、小さく笑った。
「時々怖くなる。八左ヱ門といると、全部剥がれ落ちてしまいそうだ」
どんなに厚く皮を被っても。どんなに自分を繕っても。八左ヱ門は何にも惑わされず真っ直ぐに三郎の中へ踏み込んでいくから。
三郎はきっと八左ヱ門のその曲がらない部分に惹かれているんだろうけど。
同時にひどく怖がっている。八左ヱ門の全てを求めているくせに、反対に自分の全てを持っていかれやしないかと恐れているのだ。
三郎は臆病だ。
けれど僕はそんな三郎の複雑さが、愛しい。
溜息を吐いて、雷蔵は三郎の肩を抱いた。暫くそうして二人、空に浮かんだ昼間の白い月を眺めていると、医務室の戸が開き八左ヱ門が出てきた。
「八左ヱ門、大丈夫か?」
「新野先生に見てもらったが、皮下出血も無いので毒は回っていないようだ。心配かけてすまん」
雷蔵に向け拝むような仕草をした後、八左ヱ門はふと回廊に膝をつき三郎の横へ顔を出した。
「三郎」
名前を呼んで、三郎の髪を撫でた八左ヱ門を振り返り、三郎がその腹にしがみつくように八左ヱ門を抱いた。まるで子供のような仕草に、八左ヱ門が笑った。
「俺は大丈夫だから、心配するな」
八左ヱ門は宥めるように言って、三郎の背中を抱く。いつもは後輩や動物を愛しむ為にある八左ヱ門の手が、愛しそうに三郎の背中を撫でるのを見て、雷蔵は視線を逸らした。
目の上に手を翳して三郎が言った。背の高い椎の木の枝は昼寝をするには最高で、うとうととしていた雷蔵は、その声に意識を引き戻されて、ふさふさと茂る葉の間から三郎が指差す先を見下ろした。
三郎の言う通り、細く流れている川に沿うようにして、八左ヱ門が歩いているのが見えた。
「…何か探しものかな」
八左ヱ門は川に沿って緩やかな坂道を登りながら時折立ち止まっては草むらや木の陰を覗き込んでいる。
「またあれかな。孫兵の蛇が逃げ出したとか」
「ああ、あれか。よくやる」
三郎が腕組みをする。雷蔵も横たえていた身体を起こして、腕組みをした。
八左ヱ門は真面目な顔をして石を引っくり返したり、地面すれすれに顔を近付けてみたりと、忙しない。
「…どうする?」
雷蔵は三郎を見た。
三郎の顔はいつの間にか兵助のものになっていて、その長い睫の先を指で整えながら、「仕方ない」と返事をする。
「手伝ってやるか」
そう言うと三郎は雷蔵の返事を待たず、枝を揺らして飛び降りて行った。
仕方ない、か。本当は気になって仕方なかったくせに。
まぁそれは自分も一緒か、と雷蔵は溜息を吐いて三郎の背中を追った。
桜の枝に降り立った雷蔵の影が背中にかかり、「誰だ」と鋭い声を上げ、八左ヱ門が素早い仕草で飛びのき、間合いを取って上を見上げた。木の上に三郎と雷蔵の姿を認め、「なんだ」と言って緊張を解く。
「また蛇でも逃げ出したのか」
三郎がそう言って八左ヱ門の前に飛び降りた。雷蔵もその横に飛び降りる。
「いや、違う。…なんで兵助の顔してるんだ、三郎」
「気分だ」
「それで、何を探してたんだ、八左ヱ門」
「ナメクジだよ」
「ナメクジ?」
「孫兵の蛙が逃げ出して、散歩中だった喜三太のナメクジを食べてしまったんだ。虎若が、喜三太が落ち込んで可哀想だと言うんで、せめて新しいナメクジを捕まえてやろうと思ってさ」
説明しながら八左ヱ門がまたしゃがみこんで大きな石を引っくり返した。
その時、三郎が何かを見つけて「八左ヱ門」と鋭い声を上げた。
「え?」
ぽかんとした顔を上げた八左ヱ門の手に絡みつく斑の紐のようなもの…それが蛇だと気付いた時には蛇は素早い動きで八左ヱ門の腕を這い上がり、頭を上げて八左ヱ門の肩に噛み付いていた。
しまった。
咄嗟に振り上げた苦無で蛇の頭を殴る。三郎がそれを掴み地面に叩きつけて殺した。
「…ヤマカガシか…まだ小さいが、毒を吸い出した方が良い」
まだ呆然としている八左ヱ門の腕を三郎が掴んだ。着物の袖を肩の上まで捲りあげると、八左ヱ門の皮膚に蛇の牙の痕がぽつりと残っていた。三郎が顔を近付け唇を付けようとしたので、慌ててその背中を掴んで引いた。
「駄目だよ。三郎、お前、今朝の実習で口の中を切っただろう。僕がやる」
そう言って三郎を退け、八左ヱ門の腕を掴んだ。
「すまん」
八左ヱ門が眉を顰めるのに小さく首を振って、血の玉が膨らみ始めている肌に唇を寄せた。頬を窄め八左ヱ門の血を吸い出して吐き出す。それを三度ほど繰り返した後、水筒の水で傷口を洗い手拭できつく縛った。
「大丈夫だとは思うけど一応学園に戻って新野先生に見てもらった方が良い。早く戻ろう」
雷蔵は自分も口を濯ぐと、そう言って三郎を振り返った。三郎は雷蔵に退けられたままの場所で腕組みをしてじっと黙っていた。
ああ、もう。
その固い表情には見覚えがある。
八左ヱ門が兵助に抱きついた時、勘右衛門が八左ヱ門にじゃれついている時…他の人間が八左ヱ門に触れた時、いつも三郎はそんな顔をしていた。
「三郎」
手を伸ばし、三郎の頬に触れた。
「化けの皮が剥がれてるよ」
軽く頬を叩いて教えてやる。三郎は「ああ」と気の抜けたような声を上げ、雷蔵の目を見た。
「八左ヱ門を連れて戻らないと」
そう言って、八左ヱ門の腕を掴んで引っ張り、三郎の手に掴ませる。
「大丈夫だ。一人で走れる」
八左ヱ門は「大袈裟だな」と笑って言って繋がれた手を解こうとしたが、雷蔵はそれを視線で制した。
ああ、もう世話の焼ける。八左ヱ門も少しは気付けば良いのに。
溜息を吐いて、「行こう」と走り出す。
「そんなに深くは噛まれていない」
三郎が黙っているのは心配しているからだと思ったのだろう。八左ヱ門が走りながら声を上げる。
「ヤマガカシは元々大人しい性格なんだ。俺が石を持ち上げた時に刺激を与えてしまったんだろう。毒牙は奥にあるから、軽く噛まれただけでは」
とつとつと説明をする八左ヱ門を三郎が振り返った。
「そんなことは分かっている」
まるで突き放すような強張った声に、八左ヱ門が黙った。どうして自分が怒られるのか分からないというような不思議そうな顔をして。
「…三郎」
雷蔵は一言だけ、名前を呼ぶことで三郎を注意すると、三郎の頭を叩いた。三郎は一瞬雷蔵をちら、と見るとまた「分かっている」と言った。
わかっていてもどうしようもないこともあるのだ、と。そんな顔をしていた。
学園に戻り、八左ヱ門を医務室に連れていく。治療が終わるまでの間、医務室の外の回廊に並んで座ると、三郎が八左ヱ門の手を掴んでいた左手を膝の上に開いてじっと見つめた。
雷蔵は溜息をついて、三郎の顔を覗き込んだ。三郎の変装は変わっていて、兵助から雷蔵の顔になっている。
最初は戸惑ったこの変装も、時が経つにつれまるで自分の兄弟を見ているような不思議な感覚に変わってきていた。
そういえば三郎は、八左ヱ門の姿になることは滅多に無いな、とふと思った。
「…三郎、あれは毒を吸いだすために仕方なくしたことだよ」
「うん」
「お前は口の中に切り傷があったから、出来なかった」
「うん」
「だから僕がやった」
「ああ、分かってるよ、雷蔵。嫌と言うほど分かっている」
三郎は言って、手を握り締める。そうしてふと溜息を吐くと、小さく笑った。
「時々怖くなる。八左ヱ門といると、全部剥がれ落ちてしまいそうだ」
どんなに厚く皮を被っても。どんなに自分を繕っても。八左ヱ門は何にも惑わされず真っ直ぐに三郎の中へ踏み込んでいくから。
三郎はきっと八左ヱ門のその曲がらない部分に惹かれているんだろうけど。
同時にひどく怖がっている。八左ヱ門の全てを求めているくせに、反対に自分の全てを持っていかれやしないかと恐れているのだ。
三郎は臆病だ。
けれど僕はそんな三郎の複雑さが、愛しい。
溜息を吐いて、雷蔵は三郎の肩を抱いた。暫くそうして二人、空に浮かんだ昼間の白い月を眺めていると、医務室の戸が開き八左ヱ門が出てきた。
「八左ヱ門、大丈夫か?」
「新野先生に見てもらったが、皮下出血も無いので毒は回っていないようだ。心配かけてすまん」
雷蔵に向け拝むような仕草をした後、八左ヱ門はふと回廊に膝をつき三郎の横へ顔を出した。
「三郎」
名前を呼んで、三郎の髪を撫でた八左ヱ門を振り返り、三郎がその腹にしがみつくように八左ヱ門を抱いた。まるで子供のような仕草に、八左ヱ門が笑った。
「俺は大丈夫だから、心配するな」
八左ヱ門は宥めるように言って、三郎の背中を抱く。いつもは後輩や動物を愛しむ為にある八左ヱ門の手が、愛しそうに三郎の背中を撫でるのを見て、雷蔵は視線を逸らした。