眠りを誘う穏やかさは誰のもの?
それに気付いたのは、フランスの家のとある宮殿に越してきたその日の夜のことだった。
いくらトランクをひっくり返しても見つからないのも当然、そもそも詰めた記憶がないのだ。
近く開かれる戴冠式―ドイツはそのためにフランスにあるこの豪奢な宮殿に一時的に居を移している―を通して晴れて国になる、つまり大人の仲間入りを果たすというのに、まさか女官に持ってきているかなんて聞くということも出来ない。そもそも”この事”は誰にも、兄であるプロイセンにすら話していないのだから訊くだけ無駄だ。
輝かしいプロイセンの弟、一連の三つの戦争を勝ち抜いた新生にして強国ドイツは、情けないことに自室に置き忘れてきた枕の事で頭がいっぱいだった。見た目ではまだまだ少年らしい幼さは抜けないが、過ごしてきた月日は半世紀を裕に超える。だというのに、意外とナイーブなせいか、未だにドイツは枕が変わると眠れない質だった。
戦場ではそんな甘ったれたことは言っていられず、それ以前に一種の興奮状態にあるせいで気にせず眠れる。しかし外泊した時―例えばザクセンやバイエルンなどの従兄の家に泊まる時は、必ずこっそりと枕を持参していた。
どうしても枕が変わると眠れない。しかも大抵そういう夜の翌日は、重要な式典や会談で朝が早い。寝よう、眠れ、眠らせてくれと心中で叫んでみても、むしろ眠れないという恐怖に取り付かれて、何時間もベッドの中で時を無意味に過ごしてしまう。
今日もそんな退屈で恐ろしい時間を迎えるのだろうか。ごろりと寝返りを打つと、擦れた毛布から微かにバラの香りがした。それがさらに自宅のベッドではないことを明確に意識させる。初めて訪れる人の家ではやはりどうしても緊張してしまう。その上枕を忘れてきてしまったので、頭の収まりが悪くてなかなか寝付けない。そのまま頻繁にごろごろと寝返りをうったり、はたまた仰向けになったり体勢を変えてみるものの、いっこうに眠りは訪れない。
ベッドで眠気を待つよりもマシ、そう判断し部屋履きに足を突っ込んで、完全に目の覚めてしまったドイツはふらふらと窓辺に寄った。防寒のためにカーテンは締め切ってあるが、恐らく窓の向こうはアーク灯やランプで照らされたパリの街が見えることだろう。それでも眺めながら眠くなるまで時間を潰していようか。
しかし明日はフランスとの対談だ、やはり準備はしてあるとはいえ寝不足で出席するのはまずい。そめてベッドで目を伏せっていよるべきか。
けれどベッドに戻るとまた眠らなければならないという圧力にさらそれてしまう。そうぐるぐる思案していると、不意に廊下から足音が聞こえてきた。注意深く聞かずとも、他人と比べせっかちな足音の主は分かる、プロイセンだ。
作品名:眠りを誘う穏やかさは誰のもの? 作家名:あるんと