眠りを誘う穏やかさは誰のもの?
時計を見る余裕はないが、9時より10時の方が近い頃合だ、いつもならとっくに寝ている時間である。恐らくプロイセンもそれを確かめに来たのだろう。子供のうちは早寝しろ、と60年近く言い続けるような人だ、こんな時間に起きていては何か言われるかもしれない。
なるべく足音を立てずしかし素早くベッドに駆け寄り、するりと毛布の中へ潜り込む。そうするとしばらくしてノックの音が聞こえてきたが、寝たふりを通すためドイツはそれを静かに聞いていた。「ルーッツ、寝てるかー?」と小さな声が聞こえたが、こちらも聞こえないふり。
足音がこちらへ近づいてくる。目を開けて確認してみたいが、ぎゅっと眉根を寄せることでやり過ごす。足音がぴたりと止む。夜に研ぎ澄まされた感覚は呼吸の音を聞いた。プロイセンが、口をひらく。
「あれ、お前……」
それから一拍置いて、突然眉間に指が押し付けられた。いきなりどうしたんだ、と思わず目を開けてしまうとプロイセンがニヨニヨ笑いながらこちらをのぞき込んでいた。
「寝てるふりするなら眉間の皺くらい注意しろよなー。お前は知らねえと思うけど、寝てるときは天使の寝顔なんだぜ?」
「いやそれは贔屓だろう……そもそもなんで起きてると気付いたんだ」
はっとした表情を浮かべたあと、プロイセンの視線は僅か右にずれた。それはやましいことがあるから目を逸らす、というより“何か”を確認するようなものだった。ドイツがそれを不可解、と思う前にプロイセンはケセッと小さく笑った。
「だってオレはお前の兄ちゃんなんだぜ、分かって当然だろ?」
プロイセンの、得意そうな口元と、穏やかさを宿す赤い兎の目がつくるそのとびきりの表情は、親戚達から粗野だ横暴だと言われる軍国プロイセンというよりずっと兄らしくてドイツは一等好きだった。だからその笑みにほだされそうになるが、子供はふるふると頭を振った。
「それでは理由になってないじゃないか」
「じゃあ、お前が生まれてからずっと隣にいるから、これでどうだ」
したり顔のプロイセン。確かにドイツは半世紀以上プロイセンの下で生きてきた、彼が言うように誰よりもドイツのことを知っているだろう。だから、起きているのにも気が付く―確かに正しい気もする、しかしどうしてか、ドイツはうまく言いくるめられた気がしてならなかった。
そうして唸っている間にプロイセンはひょいと掛け布団と毛布をめくって、するりとドイツの横に冷えた夜気と共に割り込んできた。
「兄さん何するんだっ!」
「こら、夜に騒ぐんじゃない」
う、とドイツは後込みした。長年の教育の結果、こうやってプロイセンに上からものを言われると反対することはできない。プロイセンの言葉は常に確かに正しいからだ。ドイツは声を潜めた。
そういえば先程覗き込まれた時は殆ど顔しか見えなかったが、ちらりと見た彼の衣服は身軽なものではあったが寝間着という風ではなかった。
「……仕事、まだあるんだろう」
「もうベッド入っちまったからそんなもん明日だ、明日」
いそいそ潜り込んでくるプロイセンを、しかしドイツは「そんな適当でいいのか」と諌めたが止めはしなかった。口にはしないが、ドイツだってプロイセンと一緒に寝るのは決して嫌いではない。 特にこんな眠れない夜に、プロイセンの少しだけ低い体温は心地いい、落ち着く。それでも素直に甘えるのは悔しいし何より恥ずかしい。
「兄さん、その、枕はひとつしかないんだが」
そういう訳でささやかな抵抗を試みてみるが、
「そもそもお前、この枕いらねえだろ」
一つしかない枕を片手で自分の方へ引き寄せ、どうするのかと思えばそのまま自分の枕へ。ひとの枕なのに!とドイツは批難するが、その頭の中からはもう『枕がないと眠れない』と思い悩んだことは消えているようだった。勿論非難を真剣に受け取る気のないプロイセンは軽く受け流し、空いた左手をドイツの方へとすいと伸ばした。赤い瞳が、さあ頭を腕に乗せろとぐいぐい促す。
「いや、いくら枕がないからってそれは…」
「ルーッツ、ここに枕は一つしかない。つまりお前が腕枕を拒むと、お兄様は枕がないから自動的に床で寝ることになるんだが、いいのか?」
「極端すぎるだろ!」
しかしプロイセンという男は、一度やると決めたらどんな状況であれやり抜く。ここでドイツが断れば恐らく本当に床で寝るつもりだ。まさか移動と仕事に疲れているはずのプロイセンに、そんなことをさせる訳にはいかない。けれどドイツが床で寝る、と言い出せば過保護なこの親は夜更かし以上に怒るだろう。
そんな下らないことで喧嘩するのも気が引ける。それに、ふわぁとドイツはあくびをした。不思議な事にプロイセンと話をしているうちに段々と眠くなってきたようだ。
少しだけ布団から這い出て頭を枕というには硬い腕に預ければ、高がこれだけのことでプロイセンは満足そうな顔をした。
「まぶた、下りてきてるぜ」
「知ってる…」
眠気で思考が霞んでいく。暖を求めて本能のままにプロイセンに擦り寄れば、額におやすみのキスをされた。やわらかなそれは眠気を誘う魔法のようで、いつものように返さなければ、と思うのにもう体がうまく動かない。少し前まで眠れないと言っていたのはどこ誰だろうか。
プロイセンがいればどこでもすんなり寝れるのか、とドイツにはぼんやり頭の中で思ったのか、うっかり口に出していたのかはもう分からない。ただ夢であれ現実であれ、オレも同じだとプロイセンの声が聞こえてきた。どうやら眠りに誘う穏やかさは、兄弟互いのものであるらしい。それが幸せで、嬉しく、きっと自分と同じようにうとうとしているその人に、ドイツは精一杯のだいすきを込めた「おやすみ」の言葉を返した。
***
勿論プロイセンはドイツが枕がないと寝られないことに気付いています。
でも気付かない振りです。お兄ちゃんだからね!
***
作品名:眠りを誘う穏やかさは誰のもの? 作家名:あるんと