猫のいる生活
1日目19:00
片手鍋の中でふつふつとお湯が沸いている。鍋の中を覗き込んで、音也はトキヤを振り向いた。
「トキヤ、お湯沸いたよ」
「冷蔵庫にうどんがありますから、茹でて下さい」
「分かった。えーと…」
冷蔵庫から取り出したうどんの袋を引っくり返して、茹で時間を確認する。うどんの玉を解しながら鍋に入れ、キッチンタイマーをセットした。
「あとはー?」
「レタスとトマトを切って…ああ、ツナの缶詰は開けて中のオイルを捨てておいて下さい」
音也に調理の手順を説明しながら、トキヤは真剣な目でキッチンスケールを扱っている。スケールの上には陶器の皿が乗せてあり、トキヤはその中へ猫のドライフードを少しずつ足し入れていた。
タレント猫ともなると体調管理も大変なんだな…。それともトキヤが神経質なだけか。
感心しながら、缶詰に手を伸ばす。蓋を開けるとツナの良い匂いがした。
「トキヤ、これ全部使って良い?」
「音也、待ちなさい。それは猫の餌です」
そう言われ手の中の缶詰を確認すれば確かに猫の絵が描いてあった。
「あ、ホントだ」
「全く、あなたという人は。どうしてちゃんと確認しないのですか」
叱られて、「えー、こんなところに置いておくのがいけないんじゃん」と言い返す。トキヤは溜息を吐くと音也の手から猫の餌を取り上げ、代わりにツナの缶詰を押し付けてきた。
部屋から猫の鳴き声が聞こえてくる。缶詰を開ける音に反応したのだろうか。キッチンから顔を出して見れば、猫が立ち上がり、ピンと尻尾を立ててケージの扉に体をすり寄せていた。
「うわ、可愛い。お腹空いてるんだ」
「…音也、これを」
トキヤに猫の餌の入った皿を渡される。
「ケージの扉はゆっくり開けて下さい。猫が飛び出してきても慌てて閉めないように。あなたの馬鹿力では猫に怪我をさせてしまいますからね」
「分かった」
餌を受け取りキッチンを出る。猫は先程までの素っ気無さはどこへいってしまったのかと思うほど、音也に近付いてきてにゃあにゃあと高い声で鳴いた。試しに指を差し入れ見ると、頬をすり寄せてくる。柔らかな毛と、固くしなやかな髭の感触。それを楽しんでいると焦らされていると思ったのか、指の節を甘噛みされた。
「てて…ごめんごめん。今あげるからね」
音也はそう言ってケージの扉を開けると、顔を出してきた猫の体をそっと押し返しながらケージの中へ餌皿を入れた。そうすると猫はもう音也には興味を無くしてしまい、さっさと音也に背中を向けて餌を食べ始めた。
「スラッシュー」
名前を呼んでも耳も動かさず、一心不乱に餌を食べている。
「スラッシュ、おーい、スラッシュ、スーちゃん」
しつこく呼べばやっと、仕方が無いというように尻尾の先をうねらせて返事をした。それを指で摘むと、不機嫌そうに動きが大きくなる。面白くて、尻尾を摘み続けていたら、猫はくるりと体の向きを変えて音也の手から逃れて行った。
「音也、しつこくすると嫌われますよ。食事の時くらい放っておきなさい」
「はーい」
立ち上がった音也を金色の目がちらりと見たが、すぐに興味を無くしたように逸らされた。
キッチンへ戻ると、トキヤが出来上がったサラダうどんにかつおぶしをかけているところだった。ツナが多く乗った皿を「これはあなたの分です」と渡される。冷蔵庫から出したマヨネーズを回しかけていると、トキヤがちらりと見てきたので、「いる?」と訊けば、「いりません」と冷たく返された。
「美味しいのに」
「あなたは少しカロリーを控えた方が良いと思いますが。…ほら、さっさとテーブルに運びなさい」
トキヤの皿も渡され、促されるままキッチンを出てダイニングテーブルへ運んだ。トキヤが後から飲み物を持って出てくる。
向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせた。
皿の中身を掻き混ぜながら猫を窺えば、餌を食べ終え毛づくろいをしていた。
「音也、食事中は余所見をしない」
トキヤに叱られ、前を向き直る。トキヤが呆れたように音也を見ていた。
「食事を終えたら、猫を外に出しても良いですよ。ケージの中も掃除したいので」
「ほんと?」
歓声を上げて、急いでうどんを啜った音也に、トキヤが長い溜息を吐いた。
「ただし、食事の片付けを全て終えてからですよ、音也。分かったら慌てずゆっくり食べなさい」
(2012年08月26日~)