君の理想と恋心
微かな音を立てパソコンが起動する。トキヤは入れたてのコーヒーを持ってデスクに戻ると、椅子に足を組んで座り、パソコンに繋がったヘッドフォンを耳に当てた。
立ち上げたプレーヤーの中から昨夜録音したばかりのラジオの音源を選び再生させる。深夜枠三十分のラジオは寿嶺二がパーソナリティーを務める恋愛相談の番組だ。嶺二の歌に乗せ、『ハーイ、全国のガール達。まだ起きてるかな?嶺ちゃんだよ』と嶺二の能天気な声が聞こえてきた。
『今日はなんと、うちの新人くん、音やんこと一十木音也がゲストに来てくれていまーす。わー、ドンドンドンパフーパフー』
スタッフがいるのだろう。まばらな拍手の音。それに被せるように嶺二が巻き起こす騒がしい野次。
『こんばんはー。一十木音也です』
音也の、少し鼻にかかったような甘い声がヘッドフォンから溢れ出すと、トキヤは溜息を吐いた。
『今日は呼んでくれてありがとね、嶺ちゃん』
『音やん、この番組聞いたことある?』
『もっちろん!いっつも聞いてるよ。女の子たちの恋の悩みを解決してあげるんだよね』
『正解。今日は音やんにも悩み解決手伝ってもらうけど、心の準備は良いかい?』
『うん。俺、頑張るよ』
『オッケーイ。それじゃ、今日は寿嶺二と』
『一十木音也で』
『あなたの恋のお悩み解決します』
二人が声を揃えて告げたところで、それまで絞ってあった音楽が大きく流れ始める。嶺二が生真面目な声で提供企業を読み上げた後、番組が再開した。
最初はお便りコーナーで、「妻子ある人を好きになってしまいました」という、どうも重い内容の一通だった。
相手は職場の先輩で、自分の気持ちに薄々気付いているようだ。自分としては恋を叶えるつもりはないが想いだけでも伝えたい。けれど相手がそれを迷惑に感じるのではないかと思うとなかなか告白に踏み切ることが出来ない。どうしたら良いか分からず悩んでいる。
そんな内容のメールを、嶺二が殊更重い口調で読んでいく。音也は真剣な声で「うんうん」と時々合いの手を入れ聞き入っているようだった。
『…というわけでぇ、えーと…ペンネームまりちゃんは悩んでいるんだよね』
『そっかぁ…』
『音やんはどう?もし好きになった人に、パートナーがいたら。告白する?それとも、しない?』
『告白するよ。だって自分の気持ちを相手に知っていて欲しいし、もし俺が相手の立場だったら、誰かに好きって言ってもらえたらすごく嬉しいよね』
『音やんらしいね。…でもまりちゃんは告白して気まずくなるのは嫌なんだよね。相手は職場の先輩で毎日顔を合わせるわけだし。まりちゃんの躊躇う気持ちもよぉく分かるよ』
嶺二の言葉に、音也が少し思い直したように『そうだね』とトーンを落とした声を上げた。
『毎日顔を合わせる相手に告白するのは勇気がいるよね。それが好きになっちゃいけない相手なら余計に』
『へぇ。音やん、まるで経験したことがあるような言い方だね』
『あー、うんうん。小学校の頃の音楽の先生。美人でさ。俺、すっげー大好きだったんだ。でももう結婚してたんだよね』
音也が早口に言って、しくしくと泣き真似をする。
上手く誤魔化したな、とトキヤは思った。嶺二も深く追求することなく『音やんはおませさんだったんだね』とあまり上手くないコメントをして話を終わらせた。
結局、けじめを着けるためにも想いを伝えるべき、という音也のアドバイスを採用してそのコーナーは終わった。
毎回思うが、このコーナーではあまり悩みを解決出来ていないようだ。だいたい、嶺二に恋の悩みを相談をしようという方が間違っている。
歌が一曲入り、次のお便りが紹介された。
『ペンネーム音やん大好きさんからです』
『え、ありがとう』
『なーに照れてんの。…嶺ちゃん、こんばんは。はい、こんばんは。えー…私は高校一年生です。一十木音也くんが大好きで、少しでも彼の理想に近づけるよう毎日努力しています。嶺ちゃんは音也くんと仲が良いんですよね。そこで、音也くんの好みの女性はどんなタイプなのでしょうか?どんな情報でも良いので教えて下さい、だってー、音やん』
ヒューヒューと口を鳴らす嶺二に、音也がやめてよと照れたように言う。
音也がゲストに来るので、わざわざ選んだ内容だろう。
『音やんはどんな人が好きなの?』
『えー…っと…優しい人、かな』
『へぇ。どんなふうに?』
『俺、結構独占欲強くて我侭だから、俺のことを理解して、ずっと一緒にいてくれる人。お互いに無理をしないで、自然に傍にいられるような関係になれたら良いと思うんだ。そういうの理想だな』
『そういう相手にはまだ巡り合えていない?』
『巡り合えたら良いなと思うよ』
音也は笑って答え、逆に『嶺ちゃんは?』と訊き返した。
『ぼくちんはねー…』
嶺二が恋愛観を語り始めた所で、インターフォンが忙しなく二度鳴った。
再生を停め、ヘッドフォンを外して玄関に行くと、音也がスニーカーを脱いでいるところだった。
「ただいま、トキヤ」
屈んだままトキヤを見上げにこりと笑った音也に、溜息を吐く。
脱ぎ捨てたスニーカーを揃えて玄関の端に置き、音也は伸び上がってトキヤにキスをした。体重をかけて寄りかかってくる体を支え、「おかえりなさい」と言ってやれば、嬉しそうにもう一度、「ただいま」と言われた。
「嶺ちゃんはまだ帰ってきてないの?」
「寿さんはクイズ番組の収録で、今日は深夜までかかると言っていましたよ」
「へえ」
「あなたも朝、聞いていたでしょう」
「そうだっけ。忘れちゃった」
けろりと音也は言って、着ていたパーカーを脱ぐと椅子の背もたれにかけた。手洗いうがいの習慣はトキヤと暮らし始めてから身についたもので、今はもう何も言わなくても帰るとすぐに洗面所へ入っていく。音也が洗面所にいる間にパソコンの電源を落として片付けていると、大声で名前を呼ばれた。
「ねぇ、トキヤ」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえています」
石鹸でも無くなったのだろうか…。
そう思い、仕方なく洗面所を覗き込む。その途端、音也が口を拭っていたタオルを丸めて洗濯機へ放り投げ、その手でトキヤに抱きついてきた。
「なん、ですか、一体」
勢い良く飛びつかれて、よろける。トキヤはどうにか足を踏ん張って、音也の肩を掴んだ。
「嶺ちゃんがいないってことは、トキヤ独り占め出来るんだ」
へへ、と笑って、音也がぎゅっとしがみついてくる。温かな頬が首筋に押し付けられる感触に、トキヤは呆れて音也の背中を抱いた。
どちらかと言えば音也の方こそ嶺二に懐いている。トキヤが見ている前でも平気で「嶺ちゃん大好き」と言って憚らず、その度にトキヤをもやもやとさせている。
だいたいにおいて、音也は自分のことには無頓着なのだ。
それにしても…。
普段、嶺二とトキヤが二人きりで話しこんでいても気にしていない振りをして、その実、焼きもちでも妬いていたのだろうかと思うと、そんな音也が愛しくなる。
俺、結構独占欲強くて我侭だから…。
ふと、先程ラジオで聞いていた音也の言葉を思い出した。
「…私が寿さんといるのが嫌なら、我侭を言っても良いんですよ?」
そう囁いてやると、音也はきょとんとした顔をしてトキヤを見た。
立ち上げたプレーヤーの中から昨夜録音したばかりのラジオの音源を選び再生させる。深夜枠三十分のラジオは寿嶺二がパーソナリティーを務める恋愛相談の番組だ。嶺二の歌に乗せ、『ハーイ、全国のガール達。まだ起きてるかな?嶺ちゃんだよ』と嶺二の能天気な声が聞こえてきた。
『今日はなんと、うちの新人くん、音やんこと一十木音也がゲストに来てくれていまーす。わー、ドンドンドンパフーパフー』
スタッフがいるのだろう。まばらな拍手の音。それに被せるように嶺二が巻き起こす騒がしい野次。
『こんばんはー。一十木音也です』
音也の、少し鼻にかかったような甘い声がヘッドフォンから溢れ出すと、トキヤは溜息を吐いた。
『今日は呼んでくれてありがとね、嶺ちゃん』
『音やん、この番組聞いたことある?』
『もっちろん!いっつも聞いてるよ。女の子たちの恋の悩みを解決してあげるんだよね』
『正解。今日は音やんにも悩み解決手伝ってもらうけど、心の準備は良いかい?』
『うん。俺、頑張るよ』
『オッケーイ。それじゃ、今日は寿嶺二と』
『一十木音也で』
『あなたの恋のお悩み解決します』
二人が声を揃えて告げたところで、それまで絞ってあった音楽が大きく流れ始める。嶺二が生真面目な声で提供企業を読み上げた後、番組が再開した。
最初はお便りコーナーで、「妻子ある人を好きになってしまいました」という、どうも重い内容の一通だった。
相手は職場の先輩で、自分の気持ちに薄々気付いているようだ。自分としては恋を叶えるつもりはないが想いだけでも伝えたい。けれど相手がそれを迷惑に感じるのではないかと思うとなかなか告白に踏み切ることが出来ない。どうしたら良いか分からず悩んでいる。
そんな内容のメールを、嶺二が殊更重い口調で読んでいく。音也は真剣な声で「うんうん」と時々合いの手を入れ聞き入っているようだった。
『…というわけでぇ、えーと…ペンネームまりちゃんは悩んでいるんだよね』
『そっかぁ…』
『音やんはどう?もし好きになった人に、パートナーがいたら。告白する?それとも、しない?』
『告白するよ。だって自分の気持ちを相手に知っていて欲しいし、もし俺が相手の立場だったら、誰かに好きって言ってもらえたらすごく嬉しいよね』
『音やんらしいね。…でもまりちゃんは告白して気まずくなるのは嫌なんだよね。相手は職場の先輩で毎日顔を合わせるわけだし。まりちゃんの躊躇う気持ちもよぉく分かるよ』
嶺二の言葉に、音也が少し思い直したように『そうだね』とトーンを落とした声を上げた。
『毎日顔を合わせる相手に告白するのは勇気がいるよね。それが好きになっちゃいけない相手なら余計に』
『へぇ。音やん、まるで経験したことがあるような言い方だね』
『あー、うんうん。小学校の頃の音楽の先生。美人でさ。俺、すっげー大好きだったんだ。でももう結婚してたんだよね』
音也が早口に言って、しくしくと泣き真似をする。
上手く誤魔化したな、とトキヤは思った。嶺二も深く追求することなく『音やんはおませさんだったんだね』とあまり上手くないコメントをして話を終わらせた。
結局、けじめを着けるためにも想いを伝えるべき、という音也のアドバイスを採用してそのコーナーは終わった。
毎回思うが、このコーナーではあまり悩みを解決出来ていないようだ。だいたい、嶺二に恋の悩みを相談をしようという方が間違っている。
歌が一曲入り、次のお便りが紹介された。
『ペンネーム音やん大好きさんからです』
『え、ありがとう』
『なーに照れてんの。…嶺ちゃん、こんばんは。はい、こんばんは。えー…私は高校一年生です。一十木音也くんが大好きで、少しでも彼の理想に近づけるよう毎日努力しています。嶺ちゃんは音也くんと仲が良いんですよね。そこで、音也くんの好みの女性はどんなタイプなのでしょうか?どんな情報でも良いので教えて下さい、だってー、音やん』
ヒューヒューと口を鳴らす嶺二に、音也がやめてよと照れたように言う。
音也がゲストに来るので、わざわざ選んだ内容だろう。
『音やんはどんな人が好きなの?』
『えー…っと…優しい人、かな』
『へぇ。どんなふうに?』
『俺、結構独占欲強くて我侭だから、俺のことを理解して、ずっと一緒にいてくれる人。お互いに無理をしないで、自然に傍にいられるような関係になれたら良いと思うんだ。そういうの理想だな』
『そういう相手にはまだ巡り合えていない?』
『巡り合えたら良いなと思うよ』
音也は笑って答え、逆に『嶺ちゃんは?』と訊き返した。
『ぼくちんはねー…』
嶺二が恋愛観を語り始めた所で、インターフォンが忙しなく二度鳴った。
再生を停め、ヘッドフォンを外して玄関に行くと、音也がスニーカーを脱いでいるところだった。
「ただいま、トキヤ」
屈んだままトキヤを見上げにこりと笑った音也に、溜息を吐く。
脱ぎ捨てたスニーカーを揃えて玄関の端に置き、音也は伸び上がってトキヤにキスをした。体重をかけて寄りかかってくる体を支え、「おかえりなさい」と言ってやれば、嬉しそうにもう一度、「ただいま」と言われた。
「嶺ちゃんはまだ帰ってきてないの?」
「寿さんはクイズ番組の収録で、今日は深夜までかかると言っていましたよ」
「へえ」
「あなたも朝、聞いていたでしょう」
「そうだっけ。忘れちゃった」
けろりと音也は言って、着ていたパーカーを脱ぐと椅子の背もたれにかけた。手洗いうがいの習慣はトキヤと暮らし始めてから身についたもので、今はもう何も言わなくても帰るとすぐに洗面所へ入っていく。音也が洗面所にいる間にパソコンの電源を落として片付けていると、大声で名前を呼ばれた。
「ねぇ、トキヤ」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえています」
石鹸でも無くなったのだろうか…。
そう思い、仕方なく洗面所を覗き込む。その途端、音也が口を拭っていたタオルを丸めて洗濯機へ放り投げ、その手でトキヤに抱きついてきた。
「なん、ですか、一体」
勢い良く飛びつかれて、よろける。トキヤはどうにか足を踏ん張って、音也の肩を掴んだ。
「嶺ちゃんがいないってことは、トキヤ独り占め出来るんだ」
へへ、と笑って、音也がぎゅっとしがみついてくる。温かな頬が首筋に押し付けられる感触に、トキヤは呆れて音也の背中を抱いた。
どちらかと言えば音也の方こそ嶺二に懐いている。トキヤが見ている前でも平気で「嶺ちゃん大好き」と言って憚らず、その度にトキヤをもやもやとさせている。
だいたいにおいて、音也は自分のことには無頓着なのだ。
それにしても…。
普段、嶺二とトキヤが二人きりで話しこんでいても気にしていない振りをして、その実、焼きもちでも妬いていたのだろうかと思うと、そんな音也が愛しくなる。
俺、結構独占欲強くて我侭だから…。
ふと、先程ラジオで聞いていた音也の言葉を思い出した。
「…私が寿さんといるのが嫌なら、我侭を言っても良いんですよ?」
そう囁いてやると、音也はきょとんとした顔をしてトキヤを見た。