金木犀のティアラ
不意に、鞄の中に入れていた携帯が震えた。静かな図書館では僅かな音でさえ大きく響き、少し離れた場所へ座っていた生徒がこちらへそっと視線を寄越してきた。トキヤは震え続ける携帯を鞄から取り出し、液晶を確認すると席を立った。閲覧室を出て廊下の向かい側にある、自動販売機などが置いてある休憩室に入り携帯を耳に当てる。
「…はい、一ノ瀬です」
トキヤが応対をするや否や、『もしもし』と携帯から音也の声が溢れ出してきた。
『トキヤ?俺、俺。今どこにいんの?まだ部屋じゃないよね?俺、今教室出たんだけど、学校いるなら一緒に帰ろうぜ。あ、別に駄目なら良いんだけどさ、一緒に帰れたらなーって思って』
音也は大きな声でそう捲くし立てると、やっと黙った。
あまりに音也の声が大きいので、思わず耳から離していた携帯を持ち直し、トキヤは溜息を吐いた。
「私は図書館にいますが、課題を済ませてから帰りますので、あなたは先に帰って下さい」
手短にそう伝え通話を切ろうとすると、『あ、じゃあ俺も図書館行くから、一緒に帰ろうよ』という声が聞こえてきたので、仕方なくまた携帯を耳まで持ち上げる。
「いえ。すぐには終わりませんので、来て頂かなくて結構です。先に帰って下さい」
ゆっくりと、言い聞かせるようにそう繰り返した。けれど音也はそれを気にした様子でもなく、『平気だよ』と言う。
『俺、本読んで待ってるしさ』
音也はそう言うが、部屋にいる時でさえ大人しく本を読んでいる姿など見たことがない。読みたいと言うから本を貸してやればすぐに飽きてしまう。静かにしていると思って見てみれば寝ていたこともある。
トキヤの読む本は俺には難しいよ。
音也はその度に笑いながら言い訳をする。そうして暫くするとまた、本を貸してくれと言った。
そんな音也が大人しく読書をして待っているとは思えなかった。
「…音也」
『ん、なに?』
「あなたは先程、駄目なら良いんだけど、と言いましたよね?」
『あー…言った、けど…』
音也が困ったように言いよどみ、電話の向こう側がしんと静かになった。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるざわめき。校舎の廊下にいるのだろう。誰かが音也の傍を駆けていく足音、別れを告げる声、女子生徒の笑い声が作り出すさざめき。
『…わかった』
音也が寂しげな声でぽつりと呟いた。
普段が馬鹿みたいに明るいので、不意にこうして聞かせる心細げな声に、後ろ髪を引かれたような気分になる。
全く…最近、どうも甘やかしすぎている…。
「…音也」
携帯から離れていこうとする気配に、溜息混じりに声を掛けた。
『うん?』
「図書館には来なくて良いですが、あなたが一時間待てるならば私がそちらに行きます。どうしますか?」
『え、ホントに?うん、俺、待ってるから一緒に帰ろ』
トキヤの提案に、すぐに嬉しそうな声で返事が戻ってくる。その声がまた大きくて、トキヤは携帯を耳から遠ざけると「それでは、後程」と告げて通話を切った。
携帯電話をシャツの胸ポケットに入れ、閲覧室に戻る。
先程まで座っていた席に着いて、時折時計を確認しながら課題を終わらせた。
本当は何冊か借りたい本もあったが、探している時間は無さそうだ。少しくらい遅れたところで音也は気にしないだろう。けれど、音也を待たせていては自分の方が気になって落ち着かない。仕方ないと本は諦め、広げていた教科書やノートを鞄に仕舞い、閲覧室を出た。
図書館の広々とした吹き抜けのエントランスを通り抜け、扉の外に出る。夕暮れにはまだ少し時間がある。傾きかけた太陽が図書館前の広場に、柔らかな金色の陽だまりを作っていた。ひんやりとした秋風が吹いて、トキヤの前髪を揺らしていく。
音也の待っている校舎の方へ向かい歩き出そうとしたその時、「トキヤ」と名前を呼ばれ、トキヤは声のした方を振り向いた。
芝生を張った地面よりも一段高く作られた図書館の、白い土台の上へ座った音也がひらひらと手を振っていた。音也は勢い良く立ち上がると、トキヤの元へと駆けてきた。
「お疲れ様」
「…図書館には来なくて良いと言ったはずですが」
呆れて言えば、「だから中には入ってないじゃん」と悪戯っぽく言い返される。
「ここってさ、太陽が当たって気持ち良さそうだなっていつも思ってたんだ」
音也はそう言って、二人を包み込む陽だまりに目を細め笑った。
頬の産毛がきらきらと光っている。太陽の光を浴びて、いつもよりも余計に明るく見える音也の髪。その髪に絡み取られている小さな花を見つけて、思わず手を伸ばした。音也が不思議そうな顔をして肩を竦める。トキヤは音也の前髪を梳くように指を入れ、鮮やかな橙色の花をそっと指先に摘んで取ると手の平に乗せて音也に見せた。
「髪に付いていましたよ」
「あ…これ、金木犀の花だよ。良い匂いがしたからさ、暇だったし花を探したんだ。そしたら噴水の傍にすっごい大きな木があって、花がいっぱい咲いてた」
音也はそう説明しながら、トキヤの手の平に顔を近付けた。
「…匂いがしないや」
花の匂いを嗅ごうとしたのだろう。音也はすぐに顔を上げ、残念そうに言った。
「すごい良い匂いだったのになぁ…」
音也は唇を尖らせるとそこからフッと息を吹き掛け、トキヤの手の平から小さな花を飛ばした。
金木犀の匂いはもちろん知っていたが、音也の残念そうな顔を見ていると、あのどこか懐かしく、少し鬱陶しいようにも感じる甘い香りを嗅ぎたくなった。
「…では、帰りましょうか」
「うん、帰ろ」
いわし雲の浮かぶ空に向かい、音也が大きく伸びをする。そのまま寮の方へ向かい歩き出そうとした音也の腕を、トキヤは掴んで引いた。
「わ、なに」
急に引きとめられて、驚いたような顔をするので笑ってやる。その笑顔を見た音也が意味を量りかねて困ったような顔をした。
「今日は、少し…遠回りをしていきましょうか」
トキヤはそう言って、寮とは反対方向へ音也を誘う。
その方向には、金木犀の花が咲く噴水の広場がある。それに気付いたからだろう。音也が嬉しそうに笑った。
「あのさ、噴水の池にも金木犀の花が浮いてすごい綺麗なんだよ」
「そうですか」
「あとコスモスも咲いてたし、それから…」
明るい声でトキヤに教えながら、音也がトキヤの指に触れた。それは微かにトキヤの指に絡むと離れていき、トキヤの袖の先をそっと握った。
音也の指から手を繋げないもどかしさが伝わって、トキヤはなるべく音也の傍らへ寄り添うように並んだ。肩が触れ、音也がトキヤを見て唇を綻ばせる。その髪にまだいくつか金木犀の花が散っているのを見て、トキヤは声を立てず笑った。
(121021)
「…はい、一ノ瀬です」
トキヤが応対をするや否や、『もしもし』と携帯から音也の声が溢れ出してきた。
『トキヤ?俺、俺。今どこにいんの?まだ部屋じゃないよね?俺、今教室出たんだけど、学校いるなら一緒に帰ろうぜ。あ、別に駄目なら良いんだけどさ、一緒に帰れたらなーって思って』
音也は大きな声でそう捲くし立てると、やっと黙った。
あまりに音也の声が大きいので、思わず耳から離していた携帯を持ち直し、トキヤは溜息を吐いた。
「私は図書館にいますが、課題を済ませてから帰りますので、あなたは先に帰って下さい」
手短にそう伝え通話を切ろうとすると、『あ、じゃあ俺も図書館行くから、一緒に帰ろうよ』という声が聞こえてきたので、仕方なくまた携帯を耳まで持ち上げる。
「いえ。すぐには終わりませんので、来て頂かなくて結構です。先に帰って下さい」
ゆっくりと、言い聞かせるようにそう繰り返した。けれど音也はそれを気にした様子でもなく、『平気だよ』と言う。
『俺、本読んで待ってるしさ』
音也はそう言うが、部屋にいる時でさえ大人しく本を読んでいる姿など見たことがない。読みたいと言うから本を貸してやればすぐに飽きてしまう。静かにしていると思って見てみれば寝ていたこともある。
トキヤの読む本は俺には難しいよ。
音也はその度に笑いながら言い訳をする。そうして暫くするとまた、本を貸してくれと言った。
そんな音也が大人しく読書をして待っているとは思えなかった。
「…音也」
『ん、なに?』
「あなたは先程、駄目なら良いんだけど、と言いましたよね?」
『あー…言った、けど…』
音也が困ったように言いよどみ、電話の向こう側がしんと静かになった。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるざわめき。校舎の廊下にいるのだろう。誰かが音也の傍を駆けていく足音、別れを告げる声、女子生徒の笑い声が作り出すさざめき。
『…わかった』
音也が寂しげな声でぽつりと呟いた。
普段が馬鹿みたいに明るいので、不意にこうして聞かせる心細げな声に、後ろ髪を引かれたような気分になる。
全く…最近、どうも甘やかしすぎている…。
「…音也」
携帯から離れていこうとする気配に、溜息混じりに声を掛けた。
『うん?』
「図書館には来なくて良いですが、あなたが一時間待てるならば私がそちらに行きます。どうしますか?」
『え、ホントに?うん、俺、待ってるから一緒に帰ろ』
トキヤの提案に、すぐに嬉しそうな声で返事が戻ってくる。その声がまた大きくて、トキヤは携帯を耳から遠ざけると「それでは、後程」と告げて通話を切った。
携帯電話をシャツの胸ポケットに入れ、閲覧室に戻る。
先程まで座っていた席に着いて、時折時計を確認しながら課題を終わらせた。
本当は何冊か借りたい本もあったが、探している時間は無さそうだ。少しくらい遅れたところで音也は気にしないだろう。けれど、音也を待たせていては自分の方が気になって落ち着かない。仕方ないと本は諦め、広げていた教科書やノートを鞄に仕舞い、閲覧室を出た。
図書館の広々とした吹き抜けのエントランスを通り抜け、扉の外に出る。夕暮れにはまだ少し時間がある。傾きかけた太陽が図書館前の広場に、柔らかな金色の陽だまりを作っていた。ひんやりとした秋風が吹いて、トキヤの前髪を揺らしていく。
音也の待っている校舎の方へ向かい歩き出そうとしたその時、「トキヤ」と名前を呼ばれ、トキヤは声のした方を振り向いた。
芝生を張った地面よりも一段高く作られた図書館の、白い土台の上へ座った音也がひらひらと手を振っていた。音也は勢い良く立ち上がると、トキヤの元へと駆けてきた。
「お疲れ様」
「…図書館には来なくて良いと言ったはずですが」
呆れて言えば、「だから中には入ってないじゃん」と悪戯っぽく言い返される。
「ここってさ、太陽が当たって気持ち良さそうだなっていつも思ってたんだ」
音也はそう言って、二人を包み込む陽だまりに目を細め笑った。
頬の産毛がきらきらと光っている。太陽の光を浴びて、いつもよりも余計に明るく見える音也の髪。その髪に絡み取られている小さな花を見つけて、思わず手を伸ばした。音也が不思議そうな顔をして肩を竦める。トキヤは音也の前髪を梳くように指を入れ、鮮やかな橙色の花をそっと指先に摘んで取ると手の平に乗せて音也に見せた。
「髪に付いていましたよ」
「あ…これ、金木犀の花だよ。良い匂いがしたからさ、暇だったし花を探したんだ。そしたら噴水の傍にすっごい大きな木があって、花がいっぱい咲いてた」
音也はそう説明しながら、トキヤの手の平に顔を近付けた。
「…匂いがしないや」
花の匂いを嗅ごうとしたのだろう。音也はすぐに顔を上げ、残念そうに言った。
「すごい良い匂いだったのになぁ…」
音也は唇を尖らせるとそこからフッと息を吹き掛け、トキヤの手の平から小さな花を飛ばした。
金木犀の匂いはもちろん知っていたが、音也の残念そうな顔を見ていると、あのどこか懐かしく、少し鬱陶しいようにも感じる甘い香りを嗅ぎたくなった。
「…では、帰りましょうか」
「うん、帰ろ」
いわし雲の浮かぶ空に向かい、音也が大きく伸びをする。そのまま寮の方へ向かい歩き出そうとした音也の腕を、トキヤは掴んで引いた。
「わ、なに」
急に引きとめられて、驚いたような顔をするので笑ってやる。その笑顔を見た音也が意味を量りかねて困ったような顔をした。
「今日は、少し…遠回りをしていきましょうか」
トキヤはそう言って、寮とは反対方向へ音也を誘う。
その方向には、金木犀の花が咲く噴水の広場がある。それに気付いたからだろう。音也が嬉しそうに笑った。
「あのさ、噴水の池にも金木犀の花が浮いてすごい綺麗なんだよ」
「そうですか」
「あとコスモスも咲いてたし、それから…」
明るい声でトキヤに教えながら、音也がトキヤの指に触れた。それは微かにトキヤの指に絡むと離れていき、トキヤの袖の先をそっと握った。
音也の指から手を繋げないもどかしさが伝わって、トキヤはなるべく音也の傍らへ寄り添うように並んだ。肩が触れ、音也がトキヤを見て唇を綻ばせる。その髪にまだいくつか金木犀の花が散っているのを見て、トキヤは声を立てず笑った。
(121021)