[APH]仮面の国
電話越しに低く響くバリトンは渋るような声音を含んでいて、どう話そうかと悩んでいるようだった。
「うーん、まあお前なら、行っても追い返されたりはしないんだろうけど・・・。構ってもらえなくてもいじけるなよ?」
やめてくれよフランシス、そんな微妙な前置きを聞いたらますます分からなくなるじゃないか。
そんな文句が喉までせり上がってきて、けれど俺がそれを口にすることはなかった。電話で問い合わせているのはこちらのほうなのだ。下手に彼の機嫌を損ねてアーサーの居場所を聞き出せなかったら面倒だと思った。
フランシスへ電話する前、イギリス本国へ直接問い合わせたときも、普段なら丁寧に彼に連絡をつける手配までしてくれるのに、今日は公務で外出している以上のことを何も教えてくれなかったのだ。だから今は隣国の彼に頼るしかないのが正直なところ。
フランシスはアーサーが滞在しているというロンドンのホテルの名前を教えてくれた。しかし、それ以上のことは何も知らせてくれない。今日の彼は何をしているのと問うても、『今日のあいつは公務扱いだから他国の俺からは何も言えない』『行って会って確かめろ』の一点張りだった。
けれどまあ確かに、行ってみて会えばわかるかとプライベートジェットでワシントンD.Cを発って、機中で一眠り。ヒースロー空港から予約したタクシーに乗り換えて東へ向かった。空港からそう遠くない距離にメイフェア地区はある。かつての高級住宅街、今はビジネス街として発展している地区だ。ちなみにアメリカ合衆国大使館もこの近所にあったりする。
アーサーは今日この地区にある高級ホテルで仕事をしているらしい。ロンドンに住んでいる人なら知らない人はいないランドマーク的な高級ホテルであり『コンデナストトラベラー』誌のランキング上位にも度々名を連ねている名所だ。俺もロンドンへの出張で何度か世話になったことがある。ポーターのおじいさんがかわいらしい人で好きだったのだ。今日彼は居るだろうか。それとももう辞めてしまったかな?
何せ、前に宿泊したのはもう何年も前の事だから。数年と言えば、俺にとっては本当にちょっと前のことなんだけれど、人にとっては決して短くない月日だってこともわかってる。気づいたら俺の前から去っている人があまりにも多いのだ。
ちなみに、アーサーには彼の居場所をフランシスから聞いたっていうのは内緒なので、偶然を装って行くことにする。まあバレるだろうけど。俺の口から『君の居場所をフランシスから聞いた』と言わなければ、それでオーケーだろう。
フランシスは、アーサーの部屋の番号を教えてくれなかった。「行ったらわかる。ただ、18時までには行けよ」とだけ言われた。ホテルに到着したらフロントで聞いてみたらいいんだろうか。
しばらくすると車はゆっくりと停車ブレーキを踏んで、やがて停車した。俺は外を見ながら凝った首を小さく回す。運転手の遠隔操作でタクシーのドアが開く。若いポーターが近づいてくるのが見えた。まだ20代だろうか。彼に罪はないけれど、少しだけ残念。
外に出て立ち、狭い機内や車内で凝り固まった体をほぐした。うーんと唸って両手を上げる。
「ようこそお越しくださいました。本日はご宿泊ですか?」
俺がタクシーを降りると、若いポーターが俺に声をかけてくれる。顔はアジア系だが、流暢なクイーンズが彼を思い出させて、耳に心地良い。
「ああ、アルフレッド・F・ジョーンズって言うんだ。予約を入れてあるよ。――ジェームズはいなくなっちゃったの?昔は彼に度々世話になってたんだけど」
「いつもごひいきに、ありがとうございます。本日ジェームズは家族サービスのためお休みを頂いております。息子さんとそのご家族を連れて、ヒューストンへ」
ポーターが運転手から荷物を預かりながらそう言った。多分、俺の典型的なアメリカ英語を聞いて、うちの話題を出したら俺が興味を持つと思って話してくれたのだろう。まさに、だ。俺は嬉しくなって口笛を吹いた。
「なんだ、うちのほうへ旅行にきてるんだ!テキサスは良いところだよ、すごく賑やかで、活気があってさ。楽しんでるといいけど」
「ええ、ジェームズもたいへん楽しみにしておりましたよ。きっと楽しんでいると思います」
そう笑顔で答える若いポーターが、俺はとても気に入って笑顔になった。ここのポーターはいいな、どうしてこう気のいい人ばかりなんだろう。
「君もぜひアメリカへおいでよ。なんでもある、自由の国さ」
「ええ、ぜひおうかがいしたいと思います」
彼は、うちの東海岸にある高級ホテルの名を挙げて、「素晴らしいホスピタリティを持つホテルと聞いています。勉強のために、一度行ってみたいと思っているんです」と付け加えた。
「そうなんだ!確かにあのホテルはいいところだよ。すごく楽しめるし、勉強になると思う。でも、個人的にはその近所にあるこっちのもオススメなんだ。小さいホテルだけどすっごく気を利かせてくれるよ。言葉で言わなくてもほとんど何でも伝わっちゃうんだ。あれはもはや魔法の域だね。よかったらこっちも行ってみてよ、予約取りづらいけど俺の紹介って言ってくれれば多分空くから」
俺は自分の名刺を取り出して、紙の空白に小さなホテルの名前を書き足した。そこに心付けの紙幣を足して彼に差し出すと、ポーターは「ありがとうございます、ぜひおうかがいします」と笑って受け取ってくれた。
ロビーに入ってまず目に入るのが天井から下がる開きかけのチューリップのようなかたちをした、豪奢なシャンデリアだ。白とクリーム色を基調とした壁は磨りガラスを通した照明の光を柔らかく反射する。白黒の大理石が交互に埋め込まれた床は大きなチェス板のようで、駒さえ用意すれば今から対戦をはじめられそうだ。磨き抜かれたそれは、何人の足に踏まれても腐らず、まるで硝子のように人の光と影を映しかえして、その景観に華を添えていた。入り口から左手手前にフロントがあり、その奥では螺旋階段が左回りに緩やかなカーブを描いて上っている。螺旋階段の足下には、10人ほどが一斉に腰掛けられそうな横長のソファ。その隣に宿泊客でなくても出入りできるカフェがあった。今はビジネスマンや宿泊客らしい人たちが十数人真剣に、あるいは楽しそうに話し込んでいるだけで、調律師が静かにディナータイムに向けてピアノの調整をしていた。
俺はポーターと一緒にフロントに向かい、名を告げる。フロントの美人二人は慣れた手つきでパソコンを繰り、予約情報を参照していたけれど、普段より少し長い時間待たされた。そして
「お客様、大変申し訳ございません。お客様の予約情報が確認できていないようでして、ご予約を頂いた際にお伝えした、予約番号はお持ちでしょうか?」
「あぁ・・・他の人に代理で予約を取ってもらったから、そういうのは持ってないんだ」
「うーん、まあお前なら、行っても追い返されたりはしないんだろうけど・・・。構ってもらえなくてもいじけるなよ?」
やめてくれよフランシス、そんな微妙な前置きを聞いたらますます分からなくなるじゃないか。
そんな文句が喉までせり上がってきて、けれど俺がそれを口にすることはなかった。電話で問い合わせているのはこちらのほうなのだ。下手に彼の機嫌を損ねてアーサーの居場所を聞き出せなかったら面倒だと思った。
フランシスへ電話する前、イギリス本国へ直接問い合わせたときも、普段なら丁寧に彼に連絡をつける手配までしてくれるのに、今日は公務で外出している以上のことを何も教えてくれなかったのだ。だから今は隣国の彼に頼るしかないのが正直なところ。
フランシスはアーサーが滞在しているというロンドンのホテルの名前を教えてくれた。しかし、それ以上のことは何も知らせてくれない。今日の彼は何をしているのと問うても、『今日のあいつは公務扱いだから他国の俺からは何も言えない』『行って会って確かめろ』の一点張りだった。
けれどまあ確かに、行ってみて会えばわかるかとプライベートジェットでワシントンD.Cを発って、機中で一眠り。ヒースロー空港から予約したタクシーに乗り換えて東へ向かった。空港からそう遠くない距離にメイフェア地区はある。かつての高級住宅街、今はビジネス街として発展している地区だ。ちなみにアメリカ合衆国大使館もこの近所にあったりする。
アーサーは今日この地区にある高級ホテルで仕事をしているらしい。ロンドンに住んでいる人なら知らない人はいないランドマーク的な高級ホテルであり『コンデナストトラベラー』誌のランキング上位にも度々名を連ねている名所だ。俺もロンドンへの出張で何度か世話になったことがある。ポーターのおじいさんがかわいらしい人で好きだったのだ。今日彼は居るだろうか。それとももう辞めてしまったかな?
何せ、前に宿泊したのはもう何年も前の事だから。数年と言えば、俺にとっては本当にちょっと前のことなんだけれど、人にとっては決して短くない月日だってこともわかってる。気づいたら俺の前から去っている人があまりにも多いのだ。
ちなみに、アーサーには彼の居場所をフランシスから聞いたっていうのは内緒なので、偶然を装って行くことにする。まあバレるだろうけど。俺の口から『君の居場所をフランシスから聞いた』と言わなければ、それでオーケーだろう。
フランシスは、アーサーの部屋の番号を教えてくれなかった。「行ったらわかる。ただ、18時までには行けよ」とだけ言われた。ホテルに到着したらフロントで聞いてみたらいいんだろうか。
しばらくすると車はゆっくりと停車ブレーキを踏んで、やがて停車した。俺は外を見ながら凝った首を小さく回す。運転手の遠隔操作でタクシーのドアが開く。若いポーターが近づいてくるのが見えた。まだ20代だろうか。彼に罪はないけれど、少しだけ残念。
外に出て立ち、狭い機内や車内で凝り固まった体をほぐした。うーんと唸って両手を上げる。
「ようこそお越しくださいました。本日はご宿泊ですか?」
俺がタクシーを降りると、若いポーターが俺に声をかけてくれる。顔はアジア系だが、流暢なクイーンズが彼を思い出させて、耳に心地良い。
「ああ、アルフレッド・F・ジョーンズって言うんだ。予約を入れてあるよ。――ジェームズはいなくなっちゃったの?昔は彼に度々世話になってたんだけど」
「いつもごひいきに、ありがとうございます。本日ジェームズは家族サービスのためお休みを頂いております。息子さんとそのご家族を連れて、ヒューストンへ」
ポーターが運転手から荷物を預かりながらそう言った。多分、俺の典型的なアメリカ英語を聞いて、うちの話題を出したら俺が興味を持つと思って話してくれたのだろう。まさに、だ。俺は嬉しくなって口笛を吹いた。
「なんだ、うちのほうへ旅行にきてるんだ!テキサスは良いところだよ、すごく賑やかで、活気があってさ。楽しんでるといいけど」
「ええ、ジェームズもたいへん楽しみにしておりましたよ。きっと楽しんでいると思います」
そう笑顔で答える若いポーターが、俺はとても気に入って笑顔になった。ここのポーターはいいな、どうしてこう気のいい人ばかりなんだろう。
「君もぜひアメリカへおいでよ。なんでもある、自由の国さ」
「ええ、ぜひおうかがいしたいと思います」
彼は、うちの東海岸にある高級ホテルの名を挙げて、「素晴らしいホスピタリティを持つホテルと聞いています。勉強のために、一度行ってみたいと思っているんです」と付け加えた。
「そうなんだ!確かにあのホテルはいいところだよ。すごく楽しめるし、勉強になると思う。でも、個人的にはその近所にあるこっちのもオススメなんだ。小さいホテルだけどすっごく気を利かせてくれるよ。言葉で言わなくてもほとんど何でも伝わっちゃうんだ。あれはもはや魔法の域だね。よかったらこっちも行ってみてよ、予約取りづらいけど俺の紹介って言ってくれれば多分空くから」
俺は自分の名刺を取り出して、紙の空白に小さなホテルの名前を書き足した。そこに心付けの紙幣を足して彼に差し出すと、ポーターは「ありがとうございます、ぜひおうかがいします」と笑って受け取ってくれた。
ロビーに入ってまず目に入るのが天井から下がる開きかけのチューリップのようなかたちをした、豪奢なシャンデリアだ。白とクリーム色を基調とした壁は磨りガラスを通した照明の光を柔らかく反射する。白黒の大理石が交互に埋め込まれた床は大きなチェス板のようで、駒さえ用意すれば今から対戦をはじめられそうだ。磨き抜かれたそれは、何人の足に踏まれても腐らず、まるで硝子のように人の光と影を映しかえして、その景観に華を添えていた。入り口から左手手前にフロントがあり、その奥では螺旋階段が左回りに緩やかなカーブを描いて上っている。螺旋階段の足下には、10人ほどが一斉に腰掛けられそうな横長のソファ。その隣に宿泊客でなくても出入りできるカフェがあった。今はビジネスマンや宿泊客らしい人たちが十数人真剣に、あるいは楽しそうに話し込んでいるだけで、調律師が静かにディナータイムに向けてピアノの調整をしていた。
俺はポーターと一緒にフロントに向かい、名を告げる。フロントの美人二人は慣れた手つきでパソコンを繰り、予約情報を参照していたけれど、普段より少し長い時間待たされた。そして
「お客様、大変申し訳ございません。お客様の予約情報が確認できていないようでして、ご予約を頂いた際にお伝えした、予約番号はお持ちでしょうか?」
「あぁ・・・他の人に代理で予約を取ってもらったから、そういうのは持ってないんだ」