この手が
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名門私立正十字学園は祓魔師の集団である正十字騎士團の日本支部でもある。
あらゆる学業施設が集約されている学園は広大で、外観は中世ヨーロッパの城塞のようだ。
その正十字学園の一部であり、しかし学園の一般の学生には知られていない、祓魔師を育成する祓魔塾。
上方は半円を描く縦長の大きな窓が並んでいる廊下に、やや早めに歩く堅い足音が響いている。
高等部特進科一年にして祓魔師の奥村雪男は制服の上に騎士團のコートをしっかりと着て歩いていた。
長身で、落ち着いた雰囲気があり、さらに今は仕事モードなので、実年齢よりも上に見える。
その眼が窓に向けられた。
窓の外の光景は、晩秋。
陽の沈む時刻にはまだ早いのに薄暗い。
もうすぐ雨が降りだすのかもしれない。
ふと。
「雪男ォ!」
「!」
明るい声に呼びかけられると同時に背中をドンッと叩かれた。
背後に気配を感じなかった。
気配を感じさせずに忍び寄ることができるのだ、彼女は。
だれなのかわかったうえで、雪男は苦い表情を作って相手に向けた。
「暴力はやめてください。シュラさん」
すると、霧隠シュラはふっくらとした唇の両端を上げ、にーっと笑った。
雪男の上司であるシュラは騎士團のコートを着ているものの、その下は肌寒い季節には不似合いな露出度の高い格好をしている。
美人でスタイルもいい。
だから魅惑的、しかし露出度の高さは戦闘時を考慮してだろうから、なかなか物騒でもある。
「これは暴力じゃなくてスキンシップだ」
にゃはははっと軽やかな笑い声をあげて、シュラは雪男の背中をバンバンッと叩いた。
雪男はますます苦い表情になる。
「……あなたはいつも脳天気ですね」
「おまえは苦労をいっぱい背負い込んでるような顔してるなぁ、雪男」
「だれのせいだ、だれの」
シュラから眼をそらして、ぶつぶつと雪男は文句を言った。
しかし。
なぜか急に気づいた。
最近、シュラは雪男のことをビビリメガネと呼ばなくなった。
以前に祓魔塾のトレーニングルームで対戦したときに、自分が勝った場合はビビリメガネと呼ぶのをやめてもらうことを条件にした。だが、あのときは、双子の兄である燐の青い炎に邪魔をされて、決着がつかないまま終わってしまったのだ。
それなら、どうして。
シュラが自分のことを少しは大人として見るようになったからだろうか。
雪男はシュラのほうを見た。
シュラも見ている。
長くてクルンとした睫毛に縁取られた大きな眼。
昔とあまり変わっていない顔。
でも、その顔は雪男を見あげている。
昔は雪男を見下ろしていたのに。
だけど。
あの頃よりも成長し、背はシュラよりも高くなった。昔のように細い腕ではないから、いざとなったらシュラを抱きあげることもできるはずだ。
でも、高校一年生の自分は社会的に見て、まだ子供なのだろう。
背が高くなろうが、すでに大人であるシュラには追いつかない。
胸をじれたような感情が逆なでした。
すぐに、その感情を否定する。
なぜ、あせらなければならない。
自分はトレーニングルームで対決したときに本人に告げたように、シュラのことが嫌いなのだ、昔から。
「それで、おまえはこれからどーすんだ?」
「……ああ、仕事が終わったので寮に帰るつもりです」
「じゃあ、ちょっとつきあえよ」
「なににですか?」
「勝負だ、勝負」
楽しげに歌うようにシュラは言った。
雪男は堅い声できっぱりと告げる。
「お断りします」
「つきあってくれてもいーだろ。まえに勝負したとき燐のせいでアタシはおまえから一食オゴられそこなったんだからな」
「どうして、あなたが勝つことが前提になってるんですか」
そう言い返した直後、前方からだれかが歩いてくるのに気づいた。
すぐそばにいたシュラが無言で雪男から少し離れた。
ふたりの視線を受けて、その人物は微笑む。
「やあ」
整った彫りの深い顔、長い髪は一房だけ後ろで結い、堂々とした身体は特注のコートに包まれている。
アーサー・O・エンジェル。
正十字騎士団ヴァチカン本部勤務の上一級祓魔師であり、最強の祓魔師を意味する聖騎士の称号を与えられている人物だ。
「ナニカご用ですか」
シュラが敬語で問いかけた。
アーサーはシュラの直属の上司である。
しかし、シュラは敬語を使ってこそいるものの、かしこまっている様子はない。
「不機嫌そうだな」
「わざわざここまで来たってことは、どーせ良からぬことを言いにきたんですよねー?」
そのシュラの質問に答えず、アーサーは歩く足を止めた。
眉根が少し寄っている。
白い頬に浮かんでいるのは、苦い笑み。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
アーサーは上に立つ者としての威厳を漂わせた強い表情で、シュラを真っ直ぐに見て、口を開く。
「我が聖天使團の一員で、君の親友でもある、セシル・ラルエットが亡くなった」
「……え」
シュラが大きな眼をいっそう大きくした。
虚を突かれたような表情。
一瞬の間があってから、ふっくらした唇が開かれる。
「理由は」
「殉職だ」
堅い声でシュラが問いかけたのに対し、即座にアーサーも堅い声で答えた。
そのあと、ふたりとも口を閉ざした。
雪男も黙っていた。
廊下は静かになった。
冷たい空気が寄り添ってくる。
動かないシュラの頬にも。
じっと雪男はシュラの顔を見ていた。
沈黙の時間が過ぎていくのを感じる。それは長いように感じたが、実は意外と短かったのかもしれない。
シュラが口を開いた。
「こんな仕事をやってんだ」
少し乱暴な口調で突き放すように言う。
「覚悟は、できてただろ」
しかし、その声は最後に揺れた。
急いで閉じられた口、その唇がかすかに震えている。
次の瞬間サッとシュラは顔を隠すように背け、さらに踵を返した。
なにも言わず、歩きだす。
背筋は真っ直ぐ伸ばされている。いつものことだ。けれども、その背中はいつもと違って強張っている。
去っていく。
強張っている、拒絶しているような背中が、去っていく。
顔は見えない。今どんな表情をしているのかは、わからない。でも、その拒絶しているような背中が、悲しげに見えた。
「……追うな」
低くアーサーが告げた。
その手が、雪男の右肩をつかんでいた。
雪男は自分がシュラのほうに向かって歩きだしていたことに気づいた。
「ひとりにさせてやれ」
そうアーサーは続けた。
直後、胸の中がカッと熱くなった。
なにも考えないまま、口を開いていた。
「それが大人の対応ってヤツですか……!」
投げつけるように言葉を吐き出すと、右肩を力強く大きく揺らして自分を止めていた手を振り落とそうとした。
案外あっさりとアーサーの手は離れた。アーサーは無言でいる。
雪男は足を踏みだした。
去っていった背中はもうずいぶん遠くにある。それを見すえて歩く。
やがて、その背中が見えなくなった。
扉を開けて外へと出たのだ。
雪男も足早に廊下を進んでいき、シュラが出ていった扉を勢いよく開けた。
外の景色が眼に入ってくると同時に、雨音が耳を打った。
そういえば、さっき、シュラがあらわれるまえに、雨が降りだすかもしれないと思った。
あのあと、いつのまにか降り始めていたらしい。
小雨とは言えない雨が眼のまえの景色を白くさせている。