この手が
優しい味がした。
雪男のほうを見る。
眼が合った。
ほっとしたように笑っている。
なんとなく、その顔を眺める。
すると、雪男は眼を少し逸らした。
「……兄さんにもレシピを聞いたんですが、参考になりませんでした」
雪男はいつもの生真面目な口調で話す。
「ちょうどいい感じになってきたなって思ったら、ちょいちょいって感じに醤油を入れるとか言うので」
「ああ、それ、わかる!」
簡単に想像できた。
「燐らしーなぁ」
シュラは笑った。
そして、あれ、と思った。
今、自分は自然に笑った。
それを不思議に感じた。
親友を亡くしたばかりで悲しくて悲しくて悲しくて深く落ちこんでいるはずなのに。
それなのに、自分はご飯を食べ、身体の中から温まり、こんなふうに自然に笑っている。
不思議だ。
シュラは雪男を見た。
雪男の眼はまたシュラのほうに向けられていた。
その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
ああ、そういえば、とシュラは思い出した。
アーサーがセシルの死を知らせに来たとき、その場にたまたま雪男もいたのだった。
雪男はシュラが親友を亡くしたことを知っている。
だから、ここに来たのだろう。
心配されているらしい。
そう思うと、シュラはかすかに苦笑した。
自分よりもずっと年下で、部下でもあり、そして、再会まえの小さくて細い少年だったころの印象が自分の中で抜けきらない相手に、自分は心配されてしまっている。
ちょっと情けないな、と思う。
でも、イヤじゃない。
むしろ嬉しい気持ちのほうが大きい。
ありがたいことだと素直に受け取っておこうと思った。
シュラはニッと明るく笑うと、ふたたび食べ始めた。
それから、雪男といろいろな話をしつつ食事をした。
やがて食事が終わり、後片付けは自分がやるからとシュラは言ったのだが、後片付けまで料理のうちですからと雪男が主張したので、結局、ふたりで片づけた。
後片付けも終わると、雪男は帰ることになった。
ドアの鍵をかけなければならないし、玄関のほうへ向かう雪男にシュラはいついていった。
雪男が外に出た。
部屋の外と中に分かれて向かい合って立つ形になった。
シュラは微笑み、雪男に言う。
「ありがとう、な」
礼はちゃんと言っておこうと思った。
照れくさかったので去り際になったが。
しかし、雪男は反応しなかった。なぜか、固まってしまっている。
予想外だったので、シュラは小首をかしげた。
固まってしまうほど、自分はこれまで雪男に対して素直に礼を言ったことがなかったのだろうか。
記憶をたどってみる。
だが、思い出すまえに、雪男が口を開いた。
「シュラさん」
なんだか意を決したような表情をしている。
「僕はあなたよりも年下です」
「うん」
それがどうしたのか、と思った。
「あなたと同い年になることは一生ありません」
メガネの向こうの、シュラに向ける眼は、真摯だ。
「でも、いつか、大人になります」
雪男は右手を少しあげた。
「この手が、いつか、あなたに届けばいい」
それはどういう意味なのか。
シュラは言葉を無くして、ただ雪男をじっと見る。
すると、雪男はさらに言う。
「どうやら僕は、あなたが、好きらしいです」
その眼差しが胸にまで届いて、心を大きく揺らした。
けれども、雪男は耐えきれなくなったように眼を逸らした。その顔はうっすら赤い。身体の向きを変え、歩き始めた。
雪男が去っていく。
しかし、シュラは黙っていた。ぼうぜんとしていた。
少しして、物音がして、雪男のうめく声も聞こえてきた。
なにかにぶつかったらしい。
気持ちが落ち着かなくて前方不注意になっていたせいだろう。
耐えきれず、シュラは膝を折り、その場に座りこんだ。
なんだんだコレ、なんなんだコレ。
そんなセリフが頭の中をぐるぐる回っている。
どうやら自分は雪男に告白されたらしい。
少しまえまでビビリメガネと呼んでいた相手だ。拳銃を持てあますぐらい小さな身体をしていたころの印象が自分の中にある相手だ。
予想外すぎた。
もちろん恋愛対象外だった。
でも。
ついさっきのことを思い出す。
自分のまえに立ち、真っ直ぐこちらを見ていたのは、幼い少年ではなかった。
もう背の高さは追い越して、体格も良くなっていた。
男、だった。
それを意識した。
詐欺だ、と思う。
昔はあんなに小さくて細かったのに……!
シュラは頭を抱えた。
顔の周辺が熱く感じる。今の自分の顔はさっきの雪男と同じで赤くなっているのではないだろうか。
今ここに、雪男がいなくて、だれもいなくて、良かった。
こんなところ、だれにも見られたくない。
幼い少年の印象のある相手に告白されて、男として意識して、激しく動揺しているところなんか、見られたくない。
恥ずかしい。無性に恥ずかしい。
だいたい自分は今、親友を亡くしたばかりで深く落ちこんでいるのに、こんなふうになるなんて、おかしい。
でも、生きているということはそういうことなのよ。
そう優しく告げる今は亡き親友の声が聞こえた気がした。