やわらかな獣
世話焼きのドイツが出しなブランケットを寄越したのは優しさだが、プロイセンを起こしてベッドへ促さなかったことと、置手紙もなく家を出たことは、昨晩の奇襲への、かわいい仕返しだった。
***
玄関からふいに気配を感じたのは、十四時を過ぎた頃である。会議にしては珍しく、早く済んだらしい。データを保存してコンシューマ機の電源を落とし、横たわっていたソファを降りて玄関へ向かう。
「おかえり、早かったな」
革靴を脱いで、家のものに履き替えているドイツの後ろ姿に声をかけると、いっときその肩がびくと揺れた。なにか、怯えているような気配を感じる。プロイセンは不審がって目を細めたけれど、振りむいたドイツにそういう表情はみられない。ひょっとすると気のせいかもしれない。
「ただいま、兄さん。今日はホスト国が俺だったから、手早く済ませられたんだ」
やはり気のせいである。突然声をかけたせいで驚いたのかもしれない。口元に笑みを浮かべるドイツのようすはひどく穏やかだったから、そういうふうに片付けた。手のなかのダレスバッグを奪って、さらした額にくちびるを落とす。そうしておつかれ、とささやいて、崩すように髪をかきまぜた。昨晩無理をさせすぎたかな。プロイセンは素直に身体を預けてくるドイツに疲労の色を感じて、ばつが悪そうにまゆをひそめた。
「兄さん、……昨日の続き」
しばらく慎むべきかと改めたそばから、決壊を免れない。昨晩続きを約束したおぼえはない、そもそも途中で終わらせるほど時間に追い立てられたセックスをした記憶もない。いたずらに目を光らせるドイツは、プロイセンの思惑を見透かしたように肩口に歯を立て、首の付け根を甘く吸ってくる。煽られている。ドイツから仕掛けてくるのは珍しかったから、それでまた沸騰した。
「お前、さ……人がせっかく自重しようかと思ってたのによ……」
「自重?…兄さんが?生憎そんなものは期待してなかったな」
首筋でうごめくくちびるがうつくしく弓なりにゆがんで、ふふと笑う。挑発的である。こんなふうに、けものめいた仕草で誘い込まれて抗うことなどできるはずもなかった。好き勝手に首筋を吸ってくるドイツの首根っこをぐいと掴んで喉元に噛みつくと、ひゃっと色気のない声が漏れた。それでもゆだった欲望は冷める気配をみせない。それどころかプロイセンはそういう声にすら、意地の悪い想像をふくらませている。
「ほら、部屋行くぞ」
「も……ここで、いい、から」
「だーめ」
そうして鼻梁の一等高いところにくちびるを押し当てると、ドイツは言葉をのみこんで黙った。落ち着きはらったようすを装うが、実際のところプロイセンにはちっとも余裕などない。ドイツを寝室まで連れ込んだのは、かろうじて明け渡さなかった愛想程度の理性だった。
手早く服を剥ぎ、投げるような手つきで鞄を置く。ドイツは首筋をなぞれば容易に陥落して、顎を掴めば餌を待つ雛鳥のように唇を割ったから、そうしてプロイセンはますます勘違いを働かせたのだった。濁った瞳の奥にくすぶってみえる熱は、期待によるものだと。
***
目が醒めたのは、深夜の一時を過ぎた頃だった。
どうやらことを済ませてそのまま眠っていたらしい。起き抜けで働かない頭でも寝直そうとしなかったのは単純に喉が渇いたせいと、ふいに、昨晩ドイツが作り置きしていたジェノワーズのことを思い出したからだった。どちらにせよ自分に菓子作りなどできないが、と思いながら泥を吸ったように重い身体を起こして、どきりとする。隣で寝息を立てているはずのドイツが、いつのまにか開け放たれたカーテンのたもとに立ちつくしているのだった。
「……ヴェスト?何、してんだ」
淡い月明かりに照らされた横顔が白く、どこかぼんやりとして見える。獲物を狩る野生の豹のようなしなやかな肉体が、今にもふっと消えてしまいそうな危うさをはらんでいるように思われて、声が震えた。繕うように咳払いをしてみせるが、ドイツは気にするようすもない。それどころか、プロイセンの声が届いているのかさえわからない雰囲気が、あたりを覆い尽くしている。
「……楽園をつくろう」
余韻に浸っているような鼻にかかった甘い声で、窓のそとを見やりながら、ドイツは溜息をはくようにそう言った。逆光で表情はわからないけれど、プロイセンはなんにせよ睦言の延長だと思っていた。楽園など夢のようにふわふわと覚束ないものを人為的につくることはできないと、誰よりも彼がわかっているはずだった。
「……兄さん、あいしてる」
ふっと身をひるがえして、ドイツが隣にもぐりこんでくる。起こした身体をやわく押し倒されて、シーツのなかで指が絡んだ。触れるだけのゆるやかな口づけを繰り返せば喉の渇きなどどうでもよくなってしまって、ふたたび火が付きそうになるのをお預けの一点張りでかわされる。
「楽園を、つくりたい」
ひょっとすると寝ぼけているのかも、あるいはただ甘えているだけなのかもしれない。それにしては口調がやけにはっきりしていたのが気になったけれど、兄さん、と頬をなぞる指先が青白く、浮かび上がるようなうつくしさを放っていたから、プロイセンはそこに見とれるままに頷いて、お前の好きなようにしたらいいと言って笑った。