紅月の涙2
形の良い唇が動く事も。そしてその優しい声を聞く事も最早叶わない。
「う……、…ああ…」
兄は死んだ。否、自分が殺したのだ。例え彼自身がそう仕向けたとはいえ、手に掛けたのは自分。
その現実が重く圧し掛かり、堪えていた大粒の涙がはらはらとユーリの頬を伝って流れ出す。
全身に力が入らない。兄から離れて頽れかけたその身体を咄嗟に支えた腕があった。スマイルのものだ。
「あ…ああ…あああああああああああああああっ!!!!!!!!!!」
その心情を察してか黙って背中に腕を回す彼に縋り付いて、ユーリは慟哭しながら泣き叫んだ。その耐え難い痛みに触れ、スマイルも自分が代わってやる事が出来たならと目尻に涙を浮かべる。
その傍らでアッシュも目をきつく閉じ、シャディの死を止められなかった自責の念に涙した。
時を同じくして兄の死に対する悲しみと自責の念に耐えられず泣き崩れたリィエルをきつく抱き締め、ギルディもまた抑え切れない涙を流しながら嗚咽を漏らす。
誰もがシャディの死を悼んだ、その瞬間。
閉じられていた礼拝堂の扉が大きく開け放たれ、ユーリ以外の視線がその方向へ向けられる。
扉の奥から現れたのは―――著しく呼吸を乱したファズの姿だった。
目の前に広がる光景に何があったかを察して顔面から血の気を引かせ、早足で一同との距離を詰めたかと思うと皆の静観する中シャディの身体を乱暴に抱き起こしその腕に抱える。
彼の様子を見兼ね、アッシュは顔を背けながら更に深まる自責の念に血が滲むほど唇を噛み締めた。
シャディは固く目を閉ざしたまま動かない。彼の身体から溢れた多量の鮮血がファズの腕を濡らしていく。
元々色の白いシャディの紙の様に白くなった肌に、ファズは完全に彼が命を絶った事を知る。
蘇るのは最期の表情。焼き付く様な美しく、愛おしむ様な微笑み。
漸く終わるのだ、と彼は笑った。歪んだ笑顔で、酷く悲しげに。
彼は初めからこのつもりだったのだ。
「…何…でだよ…、これが、…これがテメェの望んだ事だってのかよ…」
ユーリも、スマイルも、アッシュも、リィエルも、ギルディも。皆が泣いている。
ユーリが彼を手に掛けたのか、彼が自ら命を絶ったのかは分からない。だが、殺しに来た筈のユーリが一番苦しんでいる様に見える為、前者だとは到底思えなかった。
どちらにせよ彼が死ぬというこの悲しい結末が、一体何を生み出すというのか。
シャディがユーリに命を狙われている、とにかく安全なところへと端的に知らされただけで一連の事情を知らないファズには理解が出来なかった。
「こんな…こんなのがお前の望んだ結末だってのかよ……、こんなの…こんなのってねえよ…、目ェ開けろよ!!なぁ、おい!!」
「…ファズ」
幾度揺さぶったところで、シャディが目を開ける事はない。ファズは諦めたように揺さぶるのを止め、項垂れながら悔しげに顔を歪めて呻く。
アッシュはこのタイミングで伝えるか否かを悩んだ末、弟を呼んでシャディの遺した言葉を口にする。
思いが既に実っていた事を知り、ファズの限界まで見開かれた金の瞳から涙が零れ落ちる。
本来なら喜ぶべき事である筈なのに、溢れてくるのは悲しみばかりだ。気付いた時には既に手遅れであり、シャディが戻る事は二度とない。
やりきれなさに頭を振って、溢れ出て来る涙を拭う事もせずに、答えが戻らない事を知りながらただひたすらに叫ぶ。
「愛してるって…まだ俺は伝えてねぇよ…!!テメェの口からも直接聞いてねぇよ!!俺がお前を殺すって言ったじゃねえか!!お前が俺を殺すって言ってたじゃねえかよ!!…なのに…何でだよ…っ!!何でだよシャディ…!!」
伝えるべきだった。いつもの憎まれ口を叩く前に、彼の意思など聞かずに無理矢理にでも連れ出して伝えてしまうべきだった。
今更悔やんだところでシャディが戻る事はない。
顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた、彼との今までの思い出が走馬灯のように蘇る。
お互い素直になれないまま、彼の世界は永遠に閉ざされてしまった。死ぬ覚悟を決めていた彼を救う事が出来なかった。
「っ…ちく…しょう…」
このやり場のない悲しみを、やるせなさを、何処へぶつければ良いのか、彼は分からない。
唇を噛みすぎて血が滲み顎を伝うのにも構わず彼は止む事のない激情に顔を歪め、項垂れた体勢から大きく身体を反らして高い天井を仰いだ。その瞳から涙が散り、シャディの顔へと降り注ぐ。
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
どこへとも付かずファズは激情のままに屋敷を軋ませる程の大声で吼え、その空しい慟哭だけが礼拝堂に響き渡った。
彼の痛みに同調したかの様に、ユーリも泣き叫んだまま、スマイルの腕の中でごめんなさい、ごめんなさいと壊れた様に謝罪を繰り返す。
その場に居合わせた全員が各々の苦しみを抱え、変える事の出来なかった結末に涙した。
清算された過去、その断罪と引き換えに失われたものは大きく、遺された者たちに救いの手が差し伸べられる事はない。
窓の外、雲ひとつない空の中に浮かぶのは血の様に紅く染まった満月。
蜃気楼に溶けて泣いているようにも見えるその月だけが、家主を失った屋敷を煌々と照らしていた。