紅月の涙2
「…はい」
「…ファズは…、俺の部屋に閉じ込めている…、俺の魔力ももう持たない……やがて此処に辿り着くだろう…」
改まった様にしてシャディが口にした言葉によって弟が閉じ込められているだけで無事である事を知り、アッシュの心に僅かにあった蟠りが霧散する。
そしてシャディは、自重気味な笑みを一つ浮かべてから、己の内に仕舞い込んでいた感情を吐露する。それは当人以外の誰もが知っていた、ファズに向かうユーリへのものとは異なった愛情。
「…彼奴に…、最後まで素直になれなかったが…お前を愛していたと…伝えてくれ…」
それでもやはりシャディが弟を愛したという事実が本人の口から告げられただけで、アッシュの胸は熱くなる。
顔を合わせれば喧嘩続きだったが、確かにファズは幸せだった筈だ。家庭に耐えられず家から飛び出して荒んでしまった彼の心に、シャディは救いを与えた事だろう。
アッシュはファズの兄として、深々と頭を下げながら厳かに感謝の意を述べた。
「あんな…馬鹿で不敬な弟を…有り難うございます…。ファズもアンタを愛して…愛されて…幸せだったと思います…」
「……そうか…、…ファズも…、俺を…、ゴホッ!」
幸せそうに微笑んだシャディの身体に異変が訪れる。
身体を反らしながら大きく咳き込んで血を吐き出し、弟たちに回していた腕も最早機能を果たさなくなり投げ出される。
「兄様ァッ!!」
「兄さん!!」
「シャディ!!」
全員が彼を呼び、悲観に満ちた視線で縋る様に見つめる。
シャディに残された時間があと僅かまで迫った事を表していた。
彼は振り絞る様に残された時間の全てを使い、懸命に言葉を紡いだ。
「…お前たちには…、…兄らしい事を…、何一つ…してやれなかった…な」
「そんな事ない…!!!!」
「兄様は私の事を、此処まで育てて、愛してくれたではないですか…!」
弟たちは目を泣き晴らしながらも未だ止め処なく溢れる涙を抑えられず、叫びすぎた事に枯らしてしまった声で口々に叫ぶ。
そんな彼等の叫びも空しく、シャディはごぼり、と多量の血を吐き出してぐったりとその身体を弛緩させた。
その心臓からは絶え間なく血が溢れ出し、床を紅に染めていく。その光景はまるで彼から失われていく命そのものを表している様にも見えた。
そんなシャディを黙って見ている事が出来ず、飛び付く様にして縋ったのはユーリだった。
「いやだっ…兄様…兄様ぁ!!止まれっ、止まって…止まれよぉぉぉ…!!」
彼は必死でその命を繋ぎ止めようと、泣き叫びながら傷口に魔力を施す。堰を切ったように流れ出す彼の涙がシャディの頬にぽつりぽつりと降り注いだ。
その光景に、一人は見ていられずに目を背け、一人は項垂れ、一人は血が滲む程に唇を噛み締め―――一人で足掻こうとするユーリに声を掛ける者はいなかった。否、しなかったのではない。誰一人として出来なかったのだ。
言葉を紡ぐ事も最早出来ない状態で、閉ざされてしまいそうな目を必死に開いてユーリを見つめながら、最期の言葉を掠れた声でやっと口にした。
「ユーリ…、最後に、お休みの…キスを…、昔のように…してくれないか……」
縋り付いていたユーリの大きく目が見開かれ、その折られていた身体がびくり、と跳ねる。と同時に、引き攣った声が嗚咽となって口から零れ出す。
そして兄が自分に最期を看取れと言っているのだと理解すると、彼は静かに、やがて徐々に大きく頭を振って駄々を捏ねる幼子の様に泣き叫んだ。
「…いやだ…、いやだ、いやだ、兄様…!!…死なないでっ…!!最後だなんていやだ…!!」
己の死を受け入れられずに泣き叫ぶ弟に慈しむ様な目線を送りながら、諭す様に、そしてせがむ様にして、シャディはその心情を打ち明け始めた。
「…ユーリ、…お願いだ……。俺は、……ずっと……怖かった…、…覚悟をしていながら、…ゴホッ!」
その途中で再び血を吐き出したシャディは叫ぼうとする弟たちを目で制し、途切れてしまった言葉を再び少しずつ紡いでいく。
「…誰よりも愛していた、……お前に、……恨まれて、…一人で死んでいく、…それが、……ただ、恐ろし、かった……」
「…兄…様…」
ユーリの記憶が戻ったところで幸せが一転する――危機を孕んだそれは常に死と隣合わせの生活だった筈だ。
だが、彼が恐れていたのは死ではなく、何より恐ろしかったのはユーリの愛を失い憎まれながら死に行く事だったと、今まで語らずに押し隠していた本心を直向きにユーリへと告げる。
今までシャディはたった一人で、その恐怖と闘っていたのだ。
切なる兄の想いに、駄々を捏ねていたユーリも何も言えなくなってしまう。
「…だから、…だからこそ、…お前に愛されながら、……幸せだったあの頃のように……眠りにつきたいんだ…、……頼む…っ、…ユーリ、…俺には……時間が…、な…い…」
死を間近にしても尚濁る事なく深い海の様に鮮やかな色を称え、硝子玉の様に繊細で美しいシャディの瞳から、一筋の涙が頬を伝って血の中に溶ける。
―――幼い頃、眠れない時にシャディがユーリにしてくれたそれはとても優しくて、安心して眠りにつく事が出来た。
それからは毎日が日課になって、何時しかシャディがユーリに強請る様になっていた。
正にその行為は二人が互いを慈しみ、愛し合っていた事の象徴でもあった。
だからこそ、シャディはその行為で看取られ眠る事を望んでいる。
最早一刻を争う状況下でユーリに課せられたのは、シャディの最後の願い、そして祈り。
そんなシャディの切なる最期の願いをユーリが断れる筈もなく。
「…っ…、…わ…、かりました…っ」
彼は未だいやだと叫びたくなる本心と共に嗚咽を飲み込み、溢れる涙をそのままにゆっくりと頷いたのだった。
――――今、シャディは最期の願いの為だけに命を必死で繋ぎ止め、生に縋っている。
願いを叶えてしまえばその未練はなくなり、彼はすぐに息絶えるだろう。
即ちそれは己の行動が彼の命を奪う引き金になる事を表しており、ユーリは行動に移す事を躊躇ってしまう。
だが、無理矢理に命を留めるのはとても苦しい筈だ。
その苦しみから兄を解放してやれるのも自分だけなのだと免罪符にも近いそれを唱え、彼はやがて覚悟を決める。
ぼやぼやしていては願いを果たせないまま兄は息絶えてしまう。
それだけは絶対に嫌だと唇を噛み締め、ユーリは兄の頬に手を添えた。
せめて見送る時だけはと涙を必死で堪える。克ち合った視線にそれも叶わなくなりそうだったが、瞳に涙を浮かべるに留めて優しい色を称えたコバルトブルーを見つめ返す。
「…おやすみなさい、…兄様…」
昔の様に慈しみながら兄を呼び、唇を重ねる。
確かに昔と同じ行為の筈なのに、当時とは違い心は掻き乱されるばかりで口内が鼻孔をも擽る兄の甘い血の香りで満たされていく。
この血の味を決して忘れはしまいと、ユーリはその香りを記憶に刻み付けながらゆっくりと唇を離す。
兄は幸せそうに笑っていた。
ありがとう、と小さく掠れた声で告げたのを最後に、ゆっくりとその瞳は世界を閉ざし、彼は永遠に自身の時を止めて眠りについた。
皆の愛した彼の済んだ青が見られる事はもう二度とない。